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隠された支配の舞台裏 箴言30:22 

2024年2月4日 礼拝

マルコによる福音書10:35-45

箴言30:22
奴隷が王となり、しれ者がパンに飽き、

タイトル画像:Karsten PaulickによるPixabayからの画像


はじめに


世界が正義を喪失し、政治に対する信頼が崩れ去る中、この不安な時代は現代だけでなく、人類の歴史においてもしばしば繰り返されてきました。今回は、権力の裏に潜む真実を垣間見ながら、神の御心を追求してみたいと思います。

権力と満たされざる空腹


箴言30:22
奴隷が王となり、しれ者がパンに飽き、

新改訳改訂第3版

今回紹介する箴言の言葉は、アグルという人物によって書かれた言葉です。

箴言30-31章は、アグル(ヤケの子)とレムエル王を通して霊感を受けた。 二人ともおそらくエドム人か北アラビアの出身であった(1列王記4:30参照)といわれています。アグルについては、詳しくはわからないのですが、どうやら異邦人ではありましたが、実直な性質(箴言30:29-33)を持っており、自分に正直で(2節)あり、心から神を愛している(3節)人物とうかがえます。

ところで、みなさまは『しれ者』という言葉をご存知でしょうか。私もよく知らなかったのですが、『しれ者』と訳されてますが、下記のような意味です。

しれ‐もの【▽痴れ者】
愚かな者。ばか者。
手に負えない者。乱暴なもてあまし者。
その道に打ち込んでいる者。その道のしたたか者。

『コトバンク』https://kotobank.jp/

ヘブル語では、『しれ者』וְ֝נָבָ֗ל(ワナーバール;原型はナーバール)とありますが、

20f (SN 5036) nāb̠āl - 正しくは、不名誉なほど無分別な - 神の目から見て本当に重要なものを無慈悲に無視する無神経な行動を表す;道徳的に無分別であるため、無宗教的、不敬虔、僭越である;みだらなこと、不品行なこと、恥ずべきことを承認する;軽蔑的に扱う;「不名誉な愚かさ」(BDB)、恥知らず。

New American Standard Exhaustive Concordance of the Bible/
Hebrew-Aramaic and Greek Dictionaries

『しれ者』と訳されていますが、ナーバールという言葉は、単に愚かというだけではなく、神を否定する傲慢な者という意味に使われている言葉です。

22節では、『奴隷』という言葉と『しれ者』という言葉が対になって登場しますが、ここでの意味は、本来あるべき姿と異なる地位にいる人が支配している現実をアグルは嘆いている様子がうかがえます。

悪口と不義の心、野心と利己主義の背後に潜む真実

ところで、『しれ者』はどういう姿を見せているのかと言いますと、イザヤ書32:6でこのように紹介されています。

イザヤ書 32:6
なぜなら、しれ者は恥ずべきことを語り、その心は不法をたくらんで、神を敬わず、主に向かって迷いごとを語り、飢えている者を飢えさせ、渇いている者に飲み物を飲ませないからだ。

新改訳改訂第3版

『しれ者』は悪口や恥ずかしい言葉を発言するだけでなく、その心には不義があります。不義の心は、偽善を行うだけでなく、主に対して間違ったことを言うということにつながってきます。

そうした人は、本来ならば、国の要職についたり、支配する側につくことは誰も望まないことですが、『しれ者』は、神よりも自分が中心でありたい、自分が階級の上になりたいという飽くなき野望を強く抱いていますから、『不法』を企み、自分の政敵を倒し、国民のためにと言いながら、自分の地位の上昇のために利用することです。

自分が偉くなると今度は、『飢えている者を飢えさせ、渇いている者に飲み物を飲ませないからだ。』とありますが、彼の目的は、自分が称えられ、人よりも高くなることですから、当然のことながら、下々のことなど考えもしないのは当然です。
彼は、神のことではなく、自分の事しか頭にありませんから、飢えている人々の心を踏みにじり、渇いている人々が必要としているものを提供することができないのです。普段から、何を考えているかということが問われていることになります。

承認欲求にとらわれた支配者たちの影響

残念ながら、この世の多くの支配者たちは、国民や人々の幸福を願って上に立てられているわけではありません。多くの支配者は、自分の承認欲求を満たすために生きていると言っても過言ではありません。

特に、社会や企業、教会もその一つですが、トップが承認欲求にとらわれるとどういうことになるかということです。

ある支配者たちが、国民や人々の幸福を追求するのではなく、自らの承認欲求に囚われている現実は、彼らが単なる悪者としてだけでなく、むしろ「しれ者」として捉えるべきです。彼らの欲望が過度に膨れ上がり、自己満足のために手段を選ばず、結果として社会や組織内での不正や虚偽が生じることは、過去にも見受けられた問題です。

このような状況では、上昇志向が正当な目標から逸れ、貧弱な者や弱者に対する冷酷な行為が行われる可能性があります。また、社会や企業、教会などの組織においても、トップが承認欲求にとらわれると、それが組織全体に悪影響を及ぼし、偽善的な態度や不正の温床となることが懸念されます。

このような状況に直面すると、組織内での倫理的な問題やリーダーシップの在り方に対して真剣な考察が求められます。

見え隠れする承認欲求への不全感


イエス・キリストの側近就任の願い

ところで、こうした状況にあって主イエスはなんと言われたでしょうか。マルコによる福音書10章を紹介しますと次のように書かれています。

マルコによる福音書
10:35 さて、ゼベダイのふたりの子、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちの頼み事をかなえていただきたいと思います。」
10:36 イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」
10:37 彼らは言った。「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」
10:38 しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。あなたがたは、わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか。」
10:39 彼らは「できます」と言った。イエスは言われた。「なるほどあなたがたは、わたしの飲む杯を飲み、わたしの受けるべきバプテスマを受けはします。
10:40 しかし、わたしの右と左にすわることは、わたしが許すことではありません。それに備えられた人々があるのです。」
10:41 十人の者がこのことを聞くと、ヤコブとヨハネのことで腹を立てた。
10:42 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。
10:43 しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。
10:44 あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。
10:45 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」

ゼベダイの子ヤコブとヨハネがここで登場します。この二人はイエスが変貌したときに同行した三人のうちの二人です。イエス・キリストが変貌したときの記事は以下の記事をご覧いただくとして

さて、このヤコブとヨハネの二人は、イエスに近い関係にありました。その彼らには切なる願いがありました。

マルコによる福音書
10:37 彼らは言った。「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」

新改訳改訂第3版

つまりこれは、主イエスが栄光の座についたとき、自分たちを側近にしてほしいという願いでした。当初使徒たちは、イエスがユダヤ人の王として即位するようだろうと考えていたようです。

しかし、このマルコのテキストでは、すでに三度の受難予告を受けていましたから、イスラエルの王に即位するのではなく、詳細が不透明なままエルサレムへ向かう決意をしました。こうした中で話した内容がこの37節の記事になります。

弟子たちは、不確かな未来に立ち向かう覚悟を持ちながらも、復活への信仰と栄光を信じていたことがうかがえます。

この途上での弟子たちの覚悟や信仰の原動力は、主イエスが復活し、栄光を受けるという期待に基づいていました。自らの生命をかけて主に従い、共に戦おうとする彼らの行動には、復活の言葉に賭けた信仰と、主イエス様の栄光に対する深い期待が反映されています。

同様に、私たちも信仰に入る動機や期待が様々であることを認識しつつも、主イエスは私たちが持つさまざまな願いや信仰に耳を傾け、受け入れてくださると教えています。信仰生活において、自分にとってのプラスや願いを抱きながらも、主イエスは私たちの心を見抜き、受け入れてくださる神であると知ることが大切です。

また、主イエスが「「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。」と述べつつも、引き下がれとは言われず、むしろ受け入れられる姿勢が示されています。彼らのように、私たちも願う中には、神の視点から見れば見当違いのものもあるかもしれませんが、主イエスはそれを理解し、受け入れながらも導き、成長させてくださる存在なのです。

謙虚な奉仕と競争心のはざまで

ところが、この二人の言葉にほかの10人の弟子たちはすぐさま反応します。

物語の進展から分かるように、ヤコブとヨハネの言動が他の弟子たちに不快感を与え、競争心や上下関係の意識が生じさせました。彼らが抜け駆けを試み、自分たちがイエス・キリストの側近にふさわしい存在だと考えていたことが、他の弟子たちにとっては不快であり、それが腹立たしさを生んでしまったのです。

主イエスの教えによれば、偉くなりたい者は皆に仕え、いちばん上になりたい者はすべての人の僕になるべきだと説いています。この教えは、上下の階層を作り出し競争心を煽るのではなく、むしろ謙虚で奉仕的な態度を奨励しています。

上や下、偉いや劣るといった相対的な価値観を捨て、互いに奉仕し合い、謙虚に共に歩むことが重要だと教えています。

また、テキストの中で強調されているのは、まじめに頑張って報われることを期待する心理や、他者との比較から生まれる競争心や劣等感に注意することを教えてくれます。
まじめさや熱心さは良いことである一方で、それが他者との比較や自己主張に繋がると、問題が生じる可能性があります。

パリサイ人の問題はここにありました。正しさの追求は、決して間違いではないことですが、それができない人への差別や蔑視につながることを注意しなければなりません。それが、『しれ者』の歩みの萌芽になることです。

奴隷の友、しれ者のためのいのちのパン────主イエスの愛と奉仕の模範


しかし、主イエスは人間のそれとは違い、私たちの罪咎を負うために十字架を背負い、いばらの冠をかぶり、十字架にまで従われました。彼は、生まれるときから死ぬときまでの生涯を通して人間の奴隷となり、しれ者の友となったお方です。王であられるお方が奴隷となり、『しれ者』のためにいのちのパンを飽くほどまでに与えられたお方です。

そのいのちのパンであられる主イエスを、私たちは拒むことなく、飽きるまでにいただくことが許され、今も存分に開かれ、招かれていることを私たちは覚えなければなりません。

どうでしょうか、自分が認められることを望み、人のことはどうでもいい、自分の幸福だけを考えてはいないでしょうか。それは『奴隷』の姿であり、『王』になりたがる私たちの浅ましい姿です。

私たちは、マルコの福音書を通して、互いに奉仕し合いながら成長していくことが重要であると学ぶことができます。競争や上下関係にとらわれず、主イエスの教えに基づく愛と奉仕の心で共に歩むことが、真の成長であり、イエス・キリストと共に歩むことが、真の成熟と幸福に繋がるのです。アーメン。