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2022年アドベント第3週 信仰と希望と愛 『アガペーに生きる』Ⅰコリント13章13節

Title fotogragh by Myriams-Fotos via Pixabay

2022年12月11日 礼拝

Ⅰコリント
13:13 こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。

はじめに


アドベントも早くも第3週を迎えました。今年は暦の関係で、気分的には1週間早く進んでいるような感じがしますね。今回は、アドベント礼拝の第3回目。『愛』に焦点をあてて、『アガペーに生きる』というテーマで語ります。
主なる神は、最初のアドベントにあたって、どのような『愛』を私たちに見せてくれたのかを紹介したいと思います。

信仰と希望


今回のアドベントは、『信仰と希望と愛』というテーマで語っています。
まずは、『信仰』というものが何かということです。
それは、一旦信じてしまえば、どんなものでもありがたく思えるというような、『鰯の頭も信心かな』という意味ではありません。

聖書の言うところの『信仰』とは、『 イエスがメシアであるという確信または信念 、 キリストを通して神の国の永遠の救済を得るという確信』という限定的な意味で語られる言葉です。

最初のアドベントにおいて、イエスの母マリヤを筆頭として、そこに登場する人々の信仰とは、救い主イエスを信じる信仰によって生きていたということでした。

次に、『希望』です。最初のアドベントにおいて、なにを『希望』していたのかといいますと、それは日本語にあるような希望とは質を異にしております。

聖書の希望をエルピスと言いますが、神が予定し、神が後の世に必ず実行に移されることを待つことという意味であるということです。
私たちが想像する未来のような曖昧で不確かな期待を示すことではなく、神が準備しておられる救いの成就を待つ期間に対する疑うことのない姿勢を『希望』というのです。

こうした、神の預言の成就とイエス・キリストがメシアであると確信をもって信じ待ち望んでいた人々の記録が、ルカによる福音書1章から2章や、マタイによる福音書の1、2章に書かれていることです。


ところで、Ⅰコリント13章13節には、

Ⅰコリント13:13
こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。

とあります。『信仰と希望と愛』がいつまでも残るものであると紹介されています。うたかたのこの世のことは消え、私たちもいずれは消えていく、忘れ去られていく定めにあります。残るものは何もない中で、いつまでも残るものは、『信仰と希望と愛』であるとパウロは言います。


Ylanite KoppensによるPixabayからの画像

しかしながら、その信仰と希望は日本語での脆くも儚い意味ではないということをお伝えしました。なぜならば、それらは、旧約聖書イザヤの言葉にあるとおり、

イザヤ書9:6
ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。

永遠のお方を示すからなのです。つまり、聖書が語る『信仰と希望』というのは、私たちが信じる信仰や私たちが持つ希望といった、遷ろいやすい、崩れ去るようなものとは本質的に異なるのです。

信仰と希望は神のものであり、私たちはその神の支えによって生かされているものであるという認識を持っていただきたいと思います。
ですから、信仰と希望を持つにあたって、自分で必死に信じる、疑わずにいるようにするといった自分の力によって保持することではありません。

神の先行的かつ、一方的な恵みによって与えられていることに感謝して生きることです。

こうした、恵みに加えて、パウロは、『愛』を語ります。
日本語での『愛』とは

親兄弟のいつくしみあう心。人間や生物への思いやり。男女間の愛情。恋愛。大切にすること。かわいがること。めでること。

広辞苑

という意味ですが、Ⅰコリント13章13節で語られていることばは、そういう人間が持つ愛情ではなく、ἀγάπη(アガペー)ということばです。

アガペーとは、「愛される価値のない者を愛する愛」という意味があります。愛する価値のない対象を、愛してくれる意味です。つまり、好きとか嫌いとか、価値があるなしに関わらず、神が自分を選んで愛の中に加えてくれるということです。

 私たちが人々の目に価値のない者として映ったとしても、神は私たち一人一人を尊重し、「価値ある者」と認めて下さったということです。

このような神の愛は、神への反逆と罪の汚れの中にある人類に対し、クリスマスという出来事を通して、イエス・キリストを通して具体的に現されました。

Ⅰヨハネへの手紙
4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

神は人類の救いのために歴史の初めから計画して御子イエス・キリストを立てて下さいました。また御子を信じる者たちをあらかじめ定めて下さったのです。

エペソ人への手紙
1:4 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
1:5 神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

そして私たちにイエス・キリストを信じる信仰を与えて下さり、その信仰によって、神は御自分の約束を誠実にはたし、私たちの罪を赦し、神の子としての特権と祝福にあずからせてくださいました。その祝福とは、罪の赦し、永遠のいのち、からだの復活ということです。

つまり、神のアガペーは、私たちを信仰に至らせ、死後の復活という希望を与えてくださり、それが、消え去るものではなく、神の恵みによって必ず実行されるということ。それが、選ばれた者への神の愛の結実だということです。

感謝しかない


June LavesによるPixabayからの画像


アドベントのなかにあって、あなたは何を想うでしょう。
神は私たちの救いのためにすべてを投げ出し、自分のあり方をも捨てて、貧しい家畜小屋のなかに生まれました。
イエス・キリストは、人として最悪の状況のなかで生まれてきました。どういう中で生まれてきたのかということは、筆者の記事をご覧ください。

マタイによる福音書
2:2 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」

ユダヤ人の王として生まれたイエス・キリストは、その生まれから貧困と恥辱にまみれた人生でした。その最期は、十字架という刑にかけられて亡くなるという悲劇の人生を歩まれた方です。

十字架刑というのは、ローマ帝国内では奴隷に対して行われる刑罰です。
十字架につけようとした人々は、王として死ぬことを拒み、奴隷として死ぬことを望みました。しかも、最終的には葬ることなく、ゲヘナに投げ込んでゴミとして処分しようと考えていたわけです。

十字架に掲げられた板には、『ユダヤ人の王』と記載されていました。
イエス・キリストは、その生涯の初めから最期まで『ユダヤ人の王』として呼ばれたのですが、誰も尊重もせず、大事に思わず、愛されることすらありませんでした。

しかし、こうした歩みは神の御心でありました。イザヤの預言にイエス・キリストについての預言が記されていますが、

イザヤ書
  53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。

メシヤ、救い主は人類すべての悩みや苦痛、苦しみを負う存在としてお生まれになったということです。すべての人に君臨するのではない、すべての人に仕えるために苦しんだからこそ、メシヤとしての称号をいただいたということです。

私たちは、このイエス・キリストのような苦しみを負うことは到底できる筈はありません。十字架で息を引き取る姿を見たローマ軍の百人隊長はこう言いました。

マルコによる福音書
  15:39 イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「この方はまことに神の子であった。」と言った。

私たちを救うために、全力を尽くし、救うための痛みと悩みと苦しみを負い続けた。その誕生から最期まで人間としての最底辺の歩みを続けられ、担い続けてきた。今も、私たちの辛酸を分かち合い、苦しみを負ってくださる。しかも、一方的に私たちを愛し、私たちが神を愛する前から私たちを選んでくださっているという恵みを知るときに、同時に、神がすべてを私たちの前に用意してくれたということを悟るのです。

まさにアドベントとは、こういうことです。神がすべてを準備し、その饗宴に、感謝をもってその恵みを存分に受けていく。
その恵みに何か手を出し、余計な手出しは必要ありません。私たちは、恵みに浴し、感謝に応えていく。私たちの感謝が神の栄光のすべてです。

私たちは、思い違いをしないようにしましょう。ただただ、もろ手をもって神に感謝すること、それがアドベントに覚えることです。