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2022年アドベント第2週 信仰と希望と愛 『エルピスに生きる』Ⅰコリント13章13節

Title fotogragh by Myriams-Fotos via Pixabay

2022年12月4日 礼拝

Ⅰコリント
13:13 こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。

はじめに


アドベントに入り、12月に入り、クリスマスカードが届き始める頃となりました。街は年内に終わらせなければならない仕事に追われて、目の前のことで精一杯という方もいらっしゃるかと思います。今回は、『希望』に焦点をあてて、『エルピスに生きる』というテーマで語ります。
クリスマスを前にして神の御心がひとりひとりの胸に熱く語られますように。

信仰に生きていた人々


前回は、『ピスティスに生きる』というテーマでアドベントを迎えようと語りました。

世界で最初のアドベントを迎えた人々の姿について語りましたが、それぞれの人について、聖書はその姿を紹介しています。

多くのユダヤの人々は、ローマの属国からの解放であるとか、貧しい暮らしからの解放という眼の前の問題からの救いを待ち望んでいた人ばかりでした。

そうしたなかにあっても、救い主による解放、さらに「終りの日」にイスラエルが高められ、全世界が神の御前にひれ伏し、神の国の国が到来することを理解し、信じる人々が少数いたことを紹介しています。それが、イエスの母マリヤと夫のヨセフ、ザカリヤとエリサベツ夫妻、東方の博士たちでした。

そうした人々が待ち望んでいたことは、自分がいい暮らしをするとか、幸福な人生を送るということを超えて、この世が神によって贖われ、信仰がもたらす希望に生きていたということです。

エルピス


Gerd AltmannによるPixabayからの画像


Ⅰコリント13章13節を見ますと、『信仰』の次のことばとして紹介されているのは『希望』ということばです。この『希望』ということばは、ギリシャ語本文で ἐλπίς(エルピス)と書いています。このエルピスは、

いまだ現実にはなっていないすばらしいことが、将来において実現するであろうと期待すること

新キリスト教辞典 いのちのことば社

確実なもの(確かなもの)の期待、希望。

biblehub.com

エルピスということばは、日本語での『希望』という、あやふやで、将来本当に起こりうるか否かはっきりしないような漠然とした期待とはニュアンスが異なっているということがわかります。

ἐλπίς(エルピス)のことばを見ていきますと、私見ですが、接頭辞にἐλ(エル)は、神を示すことばとして私は考えています。

つまり、エルピスが示すもの、それは、神が予定し、神が後の世に必ず実行に移されることを待つことという意味であるということです。
私たちが想像する未来予想図のような曖昧で不確かな期待を示すことではなく、神が準備しておられる救いの成就を待つ期間に対する、疑うことのない姿勢ということができます。

こう考えていきますと、信仰と希望というのは軌を一にするものでして、信仰は、肯定的に神に向く姿勢であり、希望は、神の約束を肯定的に待つ姿勢としてとらえることができ、本質においては分けて考えることはできないものであるといえます。

最初のアドベントに見るエルピス


では、最初のアドベントにあって、紹介されている人々の希望というものをみていきたいと思いますが、

エリサベツのことば

ルカによる福音書
1:39 そのころ、マリヤは立って、山地にあるユダの町に急いだ。
1:40 そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした。
1:41 エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、子が胎内でおどり、エリサベツは聖霊に満たされた。
1:42 そして大声をあげて言った。「あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。
1:43 私の主の母が私のところに来られるとは、何ということでしょう。
1:44 ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳に入ったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました。
1:45 主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」

新改訳聖書 いのちのことば社

救い主イエスが、マリヤを通して懐妊したことを知ったエリサベツが、イスラエルに与えられていた希望が成就したことを賛美している姿が描かれています。

マリヤのことば

ルカによる福音書

1:46 マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、
1:47 わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。
1:48 主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。
1:49 力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名は聖く、
1:50 そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。
1:51 主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、
1:52 権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、
1:53 飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。
1:54 主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。
1:55 私たちの父祖たち、アブラハムとその子孫に語られたとおりです。」

新改訳聖書 いのちのことば社

懐妊したマリヤは、世の不条理をあらためてくれる存在としてのメシヤを待ち望み、その希望を懐妊というかたちで成就したことを賛美しています。

ザカリヤの預言

ルカによる福音書

1:67 さて父ザカリヤは、聖霊に満たされて、預言して言った。
1:68 「ほめたたえよ。イスラエルの神である主を。主はその民を顧みて、贖いをなし、
1:69 救いの角を、われらのために、しもべダビデの家に立てられた。
1:70 古くから、その聖なる預言者たちの口を通して、主が話してくださったとおりに。
1:71 この救いはわれらの敵からの、すべてわれらを憎む者の手からの救いである。
1:72 主はわれらの父祖たちにあわれみを施し、その聖なる契約を、
1:73 われらの父アブラハムに誓われた誓いを覚えて、
1:74 75 われらを敵の手から救い出し、われらの生涯のすべての日に、きよく、正しく、恐れなく、主の御前に仕えることを許される。
1:76 幼子よ。あなたもまた、いと高き方の預言者と呼ばれよう。主の御前に先立って行き、その道を備え、
1:77 神の民に、罪の赦しによる救いの知識を与えるためである。

1:78 これはわれらの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、日の出がいと高き所からわれらを訪れ、
1:79 暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし、われらの足を平和の道に導く。」

新改訳聖書 いのちのことば社

エリサベツの夫ザカリヤは、バプテスマのヨハネが誕生した際、高齢の夫婦であったため、エリサベツが子を宿すという御使いの約束を信じなかったゆえ、話すことができなくなっていたのですが、ヨハネが誕生するとき、舌のもつれが解け、預言したことばです。ここで、ザカリヤはイスラエルを通して語られたメシヤ誕生という希望の成就を預言します。

私たちにもたらされた希望


新約聖書における希望は、救い主イエス・キリストがお生まれになるというもので終わるものではありません。

十字架という希望

希望は、キリストの十字架にその基礎があります。
十字架による贖いは、信じる者を罪の性質や、罪の力、罪責感から解放してくれます。また、わたしたちの死後に定められているさばきの座にあって、一切の罪の責任を問われることがないということ、永遠に続く神のいのちを受けること、さらには、キリストとともに神の国の相続人となるという意味を持っています。

クリスマスは、メシヤがお生まれになったという希望の成就だけでなく、
死後わたしたちが復活するという希望の約束の成就であります。
その復活というのは、キリストの復活のからだに変えられるという希望でもあります。

ピリ 3:21 キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。

新改訳聖書 いのちのことば社

Ⅰヨハ 3:2 愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

新改訳聖書 いのちのことば社

被造物の完成への希望

 私たちにもたらされている希望は、自分自身が救われるというような、個人的な救い以上の意味を持っています。
それは、被造物全体の完成をも込められています。

ローマ人への手紙
8:18 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。
8:19 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。
8:20 それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。
8:21 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。
8:22 私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。
8:23 そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。

私たちの希望とは、メシヤの誕生で終わったものではなく、永遠に永続するものであることがわかります。

今を生きるわたしたちへの希望

ところで、わたしたちにもたらされている希望は、死後にある世界のことを想像してしまうものですが、すでに今の世から始まっています。

イエスは、「神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」とマルコ1:15と語られましたが、「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです」と語られました。ルカ17:21

神の国というものは、神が支配される領域を指します。本当の意味で全世界が完全に神の支配のなかに入るには、キリストの再臨を待つしかありませんが、クリスチャンは、キリストの支配のうちに生き、聖霊の導きの中に生かされています。
そのクリスチャンたちの集りは教会と呼ばれています。
聖霊の支配にある教会にはもはやユダヤ人と異邦人、男性と女性、自由人と奴隷といった差別はありません。すべての人が神を父と仰ぐ兄弟姉妹です。イエス・キリストに服し、聖霊の支配にある教会は、この地上における神の国の雛形です。

イエス・キリストのアドベントにあたって、私たちは何を想うでしょうか。いにしえの昔から、ユダヤ人たちに受け継げられてきた、救い主誕生の約束。それが今や、異邦人である私たちにも受け継がれ、終わりの時代に聖霊を宿すものとされ、御子イエス・キリストを心に宿す民へと加えられている奇跡、それから復活の希望をいただく者へと変えられています。
今、こうして生かされているなかで、兄弟姉妹と和合して教会を形成しているのも、ひとえに神の希望のうちを歩まされているからこそです。

コロナ禍にあって、教会に集えないという方もいらっしゃるでしょう。以前のように皆で声合わせて賛美できないということもあるかもしれません。しかし、神は、このアドベントにあたって希望をともし続けてくださいます。ちょうど、イエス・キリストが来られた絶望のイスラエルの時代と同じようにです。

わたしたちの内なるイエス・キリスト、聖霊を見つめてください。希望は神のものです。また、神が先行的、主体的にに私たちにもたらしてくださる祝福であることを覚えて、クリスマスをお迎えいたしましょう。