見出し画像

『幸いなことよ”アシュレー”』 

2024年1月7日 礼拝

タイトル画像:Sasin TipchaiによるPixabayからの画像

詩篇1篇1-3節

1:1 幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。
1:2 まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
1:3 その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。

ヨハネによる福音書
15:2 わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。

はじめに


今年は元旦から、苦難の幕開けとなりました。大地震や航空機事故など大きな災害や事件が相次ぎ、これらの出来事は人々の心に大きな傷跡を残しました。こうした状況を前にすると、多くの人々は今年一年の幸先を危ぶみ、不安や心配が広がったことでしょう。新年を迎え、私たちはどのように生きるべきかを考えさせられる時でもあります。こうした中で、私たちは聖書のみことばに救いと力を求め、その中での励ましや指針を得ることができます。今回は、詩篇1-2篇を取り上げ、その中から私たちに示される信仰と生き方について考えていきたいと思います。
                                                       

幸いなことよ


詩篇1:1 幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。

詩篇は、聖書の中で最も長い書簡になります。147篇の書簡の最初が、この『幸いなことよ。』で始まります。ヘブル語本文では、אַ֥שְֽׁרֵי־(アシュレー)という呼びかけで始まります。このアシュレーは、間投詞で用いられています。それは、感情を表す突然の語気の強い感嘆の声です。ですから、『幸いなことよ。』と日本語では訳されてますが、『おお!なんて幸せなんだ!』というように訳せます。

つまり、詩篇の最初の呼びかけは、神を信じる者は、なんて幸せなんだ!という言葉から始まるのです。詩篇の著者は、神を信じることの恵みを存分に受けていることをこのאַ֥שְֽׁרֵי־(アシュレー)という言葉から見ることができます。

幸福な人はどんな人か

幸福(こうふく)とは、心が満ち足りていること、またそのさまを意味します。恵まれた状態にあって不平を感じないこと、満足できて楽しいこと、めぐりあわせのよいこと、またそのさまを意味します。

アリストテレスは「幸福は最高の善」と言いました。人は何かの目的を達成するためには必ず何かをする。そして、その何かの目的はさらに上位の目的につながっている。その究極の目的が「幸福」であるという考え方です。幸福を倫理の最高目的と考え、行為の基準を幸福におく説を幸福主義といいますが、古典的にはアリストテレスが典型であり、近代哲学では功利主義がその典型になります。

多くの人にとっての幸せとは、家族が安心して生きられる。衣食住に足りる。仕事に恵まれる。人から認められる、金銭に困らないということが、幸福の条件とも言えるでしょう。

ところで、聖書の説く幸福とは一体どのようなものであるのかをこの詩篇に記されていますが、まず、その条件とは

悪者のはかりごとに歩まない人
罪人の道に立たない人
あざける者の座に着かない人

以上の条件であるといいます。多くの人はこうした条件に同意するものと思いますが、この世が考えている幸せとはだいぶ違うものであると感じる人も多いでしょう。

悪者

ここでの『悪者』とありますが、悪者とは意図的に神の命令に背く者を言います。

『罪人』とは、神の求める生き方から外れて生きる人や、神を知らない人生を送る者のことを言います。

『あざける者』というのは、ヘブル語では、善良で誠実なことを嘲笑する人という意味で書いています。真面目に誠実に生きる人をあざけることを言います。ここでは、特に、自分を誇り高ぶって聖なることや霊的なことを馬鹿にする者を言います。

箴言15:12 あざける者はしかってくれる者を愛さない。知恵のある者にも近づかない。
箴言21:24 高ぶった横柄な者──その名は「あざける者」、彼はいばって、横柄なふるまいをする。

こうして、『悪者』『罪人』『あざける者』について見ていきましたが、それぞれ、『はかりごと』『道』『座』と記されている通り、心理的な部分で悪に染まり、悪の魅力に取り憑かれている様子が見えます。
そうした心理的な傾向が『歩む』『立つ』『座につく』という具体的な行為におよぶ姿を示します。

ヤコブ
1:13 だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。
1:14 人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。
1:15 欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。

神の恵みにある者

1:2 まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。

本来、私たちは、罪人です。神の恵みにより、イエス・キリストの福音を信じて、神の子供とされるようになったに過ぎません。それも、私たちの行為ではなく、神の一方的な恵みによって選び分かたれた存在です。

自分の功績や賢さ、生き方が良かったから神を信じるようになったのではありません。あくまでも神の側での呼びかけに耳を傾けるようにされたのは、神の選びによることです。
その選びによって、私たちは、『主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。』ことになりました。

『主のおしえを喜びとし』とありますが、主のおしえは律法と解釈されますが、神の教えです。幸いな人生の秘訣は、約束に忠実な神の具体的な教えに対し、信頼し従うことにあります。そこに喜びがあると著者は教えます。
『喜び』とは、R.ガードルストーンによれば、

R. Girdlestone, "2654 (ḥāp̠eṣ)は強烈な快い感情というより、歓喜に好ましい気質である。 この喜びの中心は、その人に対する適性の感覚である」。 この根源は、肯定されるもの(あるいは否定されるもの)と、喜ぶ(好む)ものとの間の「道徳的一致」を意味する。 そのような喜びは、その人の信念や内的な傾向と一致するため、個人的な満足をもたらす。

New American Standard Exhaustive Concordance of the Bible/
Hebrew-Aramaic and Greek Dictionaries

この詩篇で語る喜びは、単なる快楽ではなく、道徳的にも内面的にも作用し、高い幸福をもたらす喜びであるということです。つまり、神の喜びが私たちの喜びとなるということです。
ですから、『昼も夜もそのおしえを口ずさむ。』ようになります。
『口ずさむ』יֶהְגֶּ֗ה(イェーゲー)と記されてますが、もともとは、鳩のようにつぶやくことを意味し、そこから、熟考するであるとか、持続的な集中や黙想を意味します。『口ずさむ』ということは、常に神について考えることや思うことを意味しており、それは、まさしく神とともに歩むということを意味します。

神の喜びにあずかるものとして


詩篇
1:3 その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。

こうして、神によって選ばれた私たちは、『その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。』と著者は続けます。
なぜなら、さきほど触れたように、神の喜びにあずかるものとして選ばれているからです。

FreddyによるPixabayからの画像

この3節では正しい者の命あるいは力が神との交わりにあることを教えてくれます。『水路のそばに植わった木』とは豊かな水路の流れのそばに移植された木を意味しています。つまり、私たちは、神によって選ばれた木であって、罪から神の恵みという水路のそばに植え替えられたという喩えでもあります。ですから、神との交わりの中にある者は確信をもって『何をしても栄える』と証しすることができます。それは、私たちが、神から選ばれ、移植され、同時に手入れを受けているからなのです。

ヨハネによる福音書 15:2
わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。

ヨハネの福音書を見ますと、『実を結ぶ枝はみな、父がそれを取り除き、さらに実を結ぶもの』とされるとあります。

Ray Shrewsberry によるPixabayからの画像

昨日、私の教会のバラの剪定を行いました。剪定作業は、ぶどうもバラも同じですが、冬の休眠期に行います。枝を切っても影響が出にくい冬の寒い時期に行います。剪定の目的は、樹形のバランスを保ったり、花や実をつけさせるためです。枝が伸び、葉が茂ったときにしっかりと光合成をおこなえるよう、伸びる枝の数を調整して間引きしなければなりません。実を結ぶために、冬の寒い時期、枝を切り落とすわけです。

植物に痛みがあるかどうかわかりませんが、おそらく負荷は大きいと思います。しかし、これをやるかやらないかで収量が大幅に変わってきます。バラでいえば、花つきが悪くなる、生育が衰えるということに繋がってきます。

同様に、神に選ばれたクリスチャンも剪定作業を受けるのです。それも冬の寒い時期です。冬というのはあくまでも比喩ですが、実を結ぶため、花つきを良くするため、実を結ばない枝は、みな取り除かれるのです。自分にとって不条理と思われる時に、私たちはたましいの剪定が行われます。これを訓練と言いますが、主人なる神は私たちの心を知り、私たちの生活の内実を読まれ、実を結ばない部分、(主が喜ばないことや趣向等)をことごとく取り除かれます。

霊的な訓練においては、生まれつきの衝動や感情を抑え、たとえそれが剪定ハサミの刃のように鋭い痛みであったとしても、霊的ないのちのエネルギーを誤らせたり弱めたりし、その実りを減少させるようなものをすべて取り除くのです。

剪定されたブドウやバラを見ますと、ここでは一本の枝が切り落とされ、一方、一本の枝が上から横に誘引されます。木が自分の進みたい方ではなく、花が咲く方向へ、実がなる方向に矯正されるのです。

剪定に熟練していない目には、最も有望に見えた新芽が、農夫や庭師の見事な剪定によって惜しげもなく切り落とされます。それと同じように、老練な主は私たちのやりたいことではなく、神の喜びが私たちの喜びになるようにバッサリと惜しげもなく切り取るのです。

実は、神も私たちを剪定なさると言いますが、何も切りたくて切るのではありません。神は慈愛に満ちた方です。相手が痛がるのを喜んでやるようなお方ではありません。相手の痛みを知りながら、剪定をする。刈り込んでいくのです。また、それも寒風吹く中での作業ですから、それは決して楽なものではありません。

冬の時期は日照時間も短く、落日が早いことから作業もはかどりません。しかも、最も寒い時期に行うことが求められますから、剪定を行う側の労力というものも大きいのです。つまり、神の側からすれば、剪定というのは断行するという言葉が相応しいものです。意を決して私たちに臨むということです。

イエス・キリストの受肉もそうでした。神は意を決して、人となられたわけです。十字架におかかりになるのもそうでした。身を削って、私たちが実を結ぶようにいけにえとなられたのです。こうした神の側の意志の剪定というものがあって、私たちが実を結ぶように変えられている。

詩篇の1編の冒頭で『幸いなことよ』אַ֥שְֽׁרֵי־(アシュレー)と詩篇の著者は叫んでいますが、
אַ֥שְֽׁרֵי־(アシュレー)”幸福”とは、本来は『神のみこころにまっすぐに前進する』という意味があります。私たちは、今年一年、様々なことがあると思います。決して、世間的に幸福な歩みでないかもしれません。紆余曲折、曲がりくねった道を歩むことを強いられることもあるでしょう。しかし、私たちは、そうした道を通らされて、実をつけるように選ばれている。

実をつけるためには、決して楽な道のりではないことをヨハネによる福音書から示されたとおりです。しかし、その痛みを神は、いやキリストは共有し、私たちの祝福のストーリーを用意している。今年一年のはじめに、あなたに対して『幸いなことよ』אַ֥שְֽׁרֵי־(アシュレー)と叫び続けている神を覚え、新年の言葉にかえさせていただきます。アーメン。

適 用


  1. 自己中心からの脱却を祈ろう
    詩篇1:1は、自己中心的な行動や思考から離れ、神の道を歩むことの重要性を示しています。私たちの日常生活においても、自己中心的な思考や行動から離れ、神の教えに従えるように祈りましょう。

  2. 神との絶え間ない交わりを求めよう
    詩篇1:2は、神の教えを喜びとし、それを常に口ずさむことが重要です。これは、私たちが神との絶え間ない交わりを持つべきであることを示しています。それは、祈るときはもちろん、仕事の中でも、運転中でも可能です。神との不断の交わりを通じて、私たちは神の愛と恵みを経験し、その愛と恵みを他人に分け与えることができます。

  3. 神の恵みによる豊かな生活を目指しましょう
    詩篇1:3は、神の恵みによって私たちは豊かな生活を送ることができることを示しています。これは、私たちが神の恵みに頼り、神の導きに従うことによって、私たちは何をしても栄え、実を結ぶことができるということです。これは、私たちが自分自身の力ではなく、神の力に頼ることです。神に頼ることによって、私たちは真の幸せと満足を経験することができます。ハレルヤ!