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ペテロ第一の手紙 2章13節     制度に従うことの意味

Ὑποτάγητε πάσῃ ἀνθρωπίνῃ κτίσει διὰ τὸν κύριον: εἴτε βασιλεῖ ὡς ὑπερέχοντι,



聖書対訳

人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、            新改訳改訂第3版 Ⅰペテロ2:13

本文レキシコン

Ὑποτάγητε ὑποτάσσω、v \ {hoop-ot-as'-so}
1)下に配置する、部下に2)服従する、服従させる3)自分自身に服従する、従う4)自分のコントロールに服従する5)自分の忠告やアドバイスに屈する6)従う、服従する

hypotássō(5259 /hypó、「under」および5021 /tássō、「arrange」から)–適切に、「神の取り決めの下で」、すなわち主に服従する(彼の計画)
5293 /hypotássō(「神の取り決めの下で生きる」)は、すべての信者が成長し、神の力を体験するために不可欠。

ἀνθρωπίνῃ ἀνθρώπινος、a \ {anth-ro'-pee-nos}
442anthrōpinos(444 /ánthrōposから、「人類、人間の本性に関連する」)–適切に、人間(「人類/人類の」); (比喩的に)人間の努力や経験に限定されるもの(有限、限定)。
442 /anthrōpinos(「虚弱で不完全な人類」)は、その継続的な時間的制限における人類の限られた能力を示している。 完璧な知恵で無制限に行動する全能の神とはまったく対照的である。

κτίσει κτίσις、n \ {ktis'-is}
1)設立、確立、構築などの行為1a)作成、作成の行為1b)作成、つまり作成されたもの1b1)個々の物、存在、生き物、作成物の1b1a)作成されたもの1b1b)ラビの使用後( 偶像崇拝からユダヤ教に改宗した人が呼ばれたもの)1b1c)作成されたものの合計または集合体1c)制度、条例

εἴτε {i'-teh}
1)if ... if 2)if ...または

βασιλεῖ βασιλεύς,n \{bas-il-yooce'}
1) leader of the people, prince, commander, lord of the land, king

ὑπερέχοντι ὑπερέχω、v \ {hoop-er-ekh'-o}
1)1つを持っているか保持する2)目立つ、上に上がる、上にある2a)上にある、ランク、権威、権力に優れている2a1)著名な男性、支配者2b)優れている、優れている、より優れている 、超える

前節との関わりにおいて

12節において、『りっぱなおこない』と訳されたカロスは、「他の人の目に留まる魅力的な美しさ』という意味がある。ギリシャ語において『りっぱ』とは日本語の「立派」とは異なる。

 原始教会において、りっぱな行為とは何であるのか。それは、殉教である。ローマの神々を拝まないキリスト者は、十字架に架けられる、コロッセウムにおいて野獣の餌食なるであるとか、コロッセウムの観衆の面前で惨たらしい殺戮のイベントの犠牲となるということが行われた。まさに、こうしたローマ帝国に歯向かう者の最後は、このような結末を迎えるのだというコロッセウムでの殉教は、非暴力の末、殺されていくクリスチャンたちの最期を見た多くの観衆に深い感銘を与えた。こうして、クリスチャンの死は、ヨハネの福音書 の中にあるように、

まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。ヨハネの福音書 12:24

彼らのいのちによって、異邦人ローマの人々の救いを贖ったのだった。この殉教こそが、12節における、『りっぱなおこない』の本質であって、倫理的に良い行いだけをするという立派さ以上のものであったことは間違いない。

果たして殉教を望んだのだろうか

 イエス・キリストの十字架のように非暴力で殺されていくクリスチャンたちを見て、疑問を持つ者も現れたであろう。その具体的な反応が、復讐である。クリスチャンの中で復讐する者は少なかったと思われるが、復讐してやろうという意志を持つ者は皆無とは言えまい。キリストの十字架の直前、最後の晩餐のあと、オリーブ山麓のゲッセマネの園で、イエスが血の汗を流しながら祈りつづけいた。その時、多くの群衆を引き連れてきたユダが、イエスを捕縛するためにやってきた。その群衆とユダを見た弟子たちは、

ルカによる福音書22:49-51
イエスの回りにいた者たちは、事の成り行きを見て、「主よ。剣で撃ちましょうか」と言った。そしてそのうちのある者が、大祭司のしもべに撃ってかかり、その右の耳を切り落とした。
するとイエスは、「やめなさい。それまで」と言われた。そして、耳にさわって彼をいやされた。

迫りくる身の危険とイエス・キリストを守るために自衛手段をとった。自衛と復讐は、目的が違うのですが、その本質は同じである。自衛は、自分の身の安全を守るということがその意味の中心であり、一方、復讐は、自分が脅かされた権利の挽回であるが、そのどちらも、自分の存在や権利を守るということがその本質にある。ここで取り上げたルカによる福音書の一場面で、弟子の自衛と復讐が見て取れるが、クリスチャンにもこうした反射的な心理の揺れがないとは言えない。むしろ、弟子たちのような対応をとることが普通なのではないか。

原始教会において、クリスチャンの家族が、仲間が殺されたという知らせを受けたときに、反射的に弟子たちのような思いを抱いた、あるいは、いつかローマ帝国に一矢を報いてやろうという思いを抱き続けていた人も多かったのではないだろうか。そうした人間の心理状況を知っていたペテロは、

―――先ほど取り上げた、ルカによる福音書22章の記事のなかで、大祭司のしもべに剣で撃ってかかった弟子はペテロと言われている―――

人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。22節

と語る。主イエスを神としただけで、ローマの神々や皇帝礼拝を行わないという理由でもって、国家に対する反逆とみなされて処刑の対象となっていくクリスチャンは、どう考えてもペテロの意見に対しては、理不尽な思いを抱いたに違いない。現在の私たちが考える理性や常識、法体系とは全く異なる根拠でもって、殉教を強いるローマ帝国のあり方に対してNOを突きつけることは簡単であった。事実、この時代のパレスチナでは多くの反ローマの狼煙が上がった。その代表として第二次ユダヤ戦争を指揮したユダヤ人の革命指導者バル・コクバ等が挙げられるが、そのたびに対テロ対策として、ローマ帝国は鎮圧にあたったのである。苛烈極まるローマ帝国の治安維持に関しても、ペテロは非暴力を説く。どのように、説いているのか。

『人の立てたすべての制度に~従いなさい。』ということである。たとえ、異教世界の制度にあっても従えと勧めているのである。この時代のクリスチャンの中には、もはや、地上から解き放たれ、今や天の国籍を有する者だから、この世のものに縛られないと考えるグノーシス主義的な考えを持つ者が存在した。しかし、クリスチャンは、そのように考えてはならない。地上に生きる者として、市民としての義務を果たさなければならないのである。

制度として訳されているクティシスには、「無からの創造」という意味がある。この言葉は、人間の思考の中に、神の無意識の介入を示す言葉である。

いろいろな制度は、神によって立てられ、神のみこころにかなった人間の秩序であるという思想が、クティシスの中にある(スティブス)      新聖書注解 ペテロの手紙第一 五 実際的な勧め p340

殉教の道を選ばざるを得ないほど厳しいローマの法律の中にあったにせよ、ペテロは、こうした法律の陰に、神の存在とみこころを見ていた。制度や法律、権威の背景には、神の見えざる手が介入していることを見抜いていたペテロは、「制度に従う」ことを勧めているのである。

従うこととは

従うと訳されたヒュポタッソーであるが、服従という意味がある。日本語において、服従という意味には、「他の人の意見や命令のままに行動するものの、服従しないという意思も存在しうる」と意味が含まれる。つまり、心の中では背いていても、表面的には従うという姿勢も服従の意味にはある。つまり、面従腹背という意味があるが、

ヒュポタッソーの実際の意味は、「自分のために喜んで参加を選択すること」という意味がある。つまり、それがもたらす個人的な利益を確信して、積極的にそうすることである。それは、主に行われたからであって、人や圧力のためではない。

殉教というと、忌避されるべきものと常識的には考えてしまうものであるが、イエス・キリストは、十字架においてヒュポタッソーを選んだということだ。それは、死に至るまでの悶絶するばかりの苦しみを経なければならないが、人々の完全な救済という究極的な利益を確信して喜んで死に向かっていったことであった。

同様に、クリスチャンも殉教によって、人々の救済という究極的な喜びを獲得するための手段として、12節でいうところの『りっぱな行い』を喜んで参加したということである。

つまり、原始教会における殉教というのは、その手段が凄惨なものであったにせよ、クリスチャンにおいては、至高の信仰告白の手段であった。この身が滅ぼされることで、神の栄光があらわされる、このうえもない場であったということが想像される。

ローマ人や異邦人からすれば、コロッセウムでの殺戮のイベントは、ローマ帝国の力と尊厳を最大限に示す場であったが、その場を通して、信仰告白を行ったということが真実である。つまり、クリスチャンにとっては、殉教は敗北ではなく、最大の勝利であった。

しかも、使徒5:29『人に従うより、神に従うべきです。』との聖句がある。神への服従が人への服従に優先されるという言葉であるが、原始教会のクリスチャンたちにとっては、不完全な人間(アンスロポス)が立てた制度や権威であったとしても、その背後に完全なる神の姿を見ていた。制度を遵守することで、神への忠誠と賛美を誓えるなら、それに喜んで従おうと考えたのは当然ではないか。クリスチャンがもし、神に喜んで従おうと考えるならば、原始教会のクリスチャンたちのように、それがたとえ悪法であったとしてもその背後に神のみこころを学び、そのみこころに喜んで従うことを望むべきであろう。

ペテロたちは、使徒の働きのなかで、「神に従うべきです」と言って投獄された。しかし、この投獄されたということでもって、当時の法に従った。結果的に、神に従ったことによって栄光が顕された。教会の前進がその証拠である。

適 用


  1. 信仰告白の重要性
    原始教会のクリスチャンたちは、殉教という極めて困難な状況下でも、自分たちの信仰を堅持しました。これは、我々が直面する可能性のある困難や挑戦、たとえそれがどれほど大きなものであっても、自分たちの信念を貫くことはできますか。

  2. 神への服従
    ペテロは、人間が立てた制度や権威の背後に神の存在と意志を見ていました。これは、我々が日々の生活の中で直面するさまざまな制度や規則に対して、それらが神の意志に反していない限り、喜んで従うべきです。

  3. 非暴力の力
    クリスチャンたちは、非暴力を通じて、ローマ帝国の力と尊厳を示す場であったコロッセウムで信仰告白を行いました。これは、非暴力が強力な手段であり、それ自体がメッセージを伝え、影響を与えることができるのです。