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私たちはなにを学習するのか

一般にいう学習(learning)と心理学における学習とでは意味を異にする。経験による行動の持続的変化が心理学における学習の意味である。
そのため、一般の意味を包摂しながらも、さらに広範に渡る意味を心理学の学習は併せ持つ。


次に、心理学における学習が日常でどのように起きるのかを整理する。

学習するといえば、私たちはしばしば幼稚園児や小学校低学年生が「数字には1から9まである」「足し算と引き算がある」「1+1は2!」と学ぶように、正しさを基準に獲得するイメージでいる。

実際には経験による行動の持続的変化である。
正しさや一般的な言動を獲得することだけを意味しない。

こどもが養育者に話しかけようとするとしよう。
養育者がイライラする、話しかけても無視をする、テーブルを叩くなどするとき、こどもは養育者を刺激しないように話しかけるのをやめるかもしれない。

こうした経験による行動の持続的変化がこどもに生じる。
これも学習だ。

養育者に着目するとどうか。
こどもが話しかけてこなくなる。
養育者は話さないで済むことを学ぶ。
これも学習だ。

私たちは学習する。
そして記憶する。

記憶は脳全体で担う。
繰り返し体験することで記憶は形成されていく。
そして貯蔵されていく。

固定化と呼ばれる記憶の貯蔵プロセスを用いた睡眠の重要性を説く。
睡眠学習法というものがある。
受験生、とりわけ大学受験に励む者に流布されて久しい方法だろうが、たとえばこれは養育環境下、学校などの生活においても対象として含まれる。

学習はなにも学校の勉強だけを指すのではない。
日々の生活、人との接し方、日頃の自分が体験する扱われ方なども含まれる。


つらい体験をした者への助言の常套句に「いつか忘れる日がくる」というものがある。
実際、悲惨な体験から健忘に至るケースもある。
そうではないとしても時間経過により忘却することもあるが、証明は困難である。

現在では、むしろ貯蔵された記憶を想起することができなくなることを主軸にして調べられている模様?(ここは特に要調査)

健忘に関しては脳損傷にかぎらず、心的外傷を負った場合などで起きることがある。
薬物やアルコール、過剰な睡眠不足が連続して続くなどの状況などから健忘に似た状態に至ることも。

こうした状態に置かれたときには海馬が深刻な状態になっていることも。
逆に心的外傷を負って心的外傷後ストレス障害を発症した場合には、情動と記憶が切り離せず、過去の出来事を追体験する。
記憶と共に情動が激しく襲いかかるのだ。

記憶と情動がいつ襲いかかってくるのか。
そのきっかけがどんなものであるのか。
本人が自覚できるとはかぎらない。

また悩みは脳内でコルチゾールを分泌させて不安を生じさせる。
さらに妊婦においては、このホルモン分泌が過剰に増える。

依存労働である家事を妊産婦に押しつける配偶者であったり、育児を妊産婦にだけ押しつける配偶者であったりした場合には、産後の出血と内臓のダメージの治療に加えて家事、そして赤ん坊の生命と成長の配慮に尽くさなければならないという責務と使命感を一方的に、あらゆるすべての人と自分自身から抑圧する形で押しつけてしまいやすい。

そのため、術後の治療と回復が必要な身体で過剰な睡眠不足を抱えて過ごすことになりかねず、健忘とほぼ同じような記憶の欠如を体験している可能性がある。
しかも不安が生じるホルモン分泌が増えているのだ。危機的状況だと脳は警告を発する。そんな状態では、むしろ日々を休むことでさえ精いっぱいではないだろうか。

産後の恨みは一生というが、とても筆舌に尽くせぬ状況に(周囲の、結婚相手などの意図的な選択と無配慮・無思慮によって)置かれていることが示唆される。

けれど、そうした女性の、そしてだれもがかつては母の状況にどれほど思い至るだろうか。とりわけ、男性は?


私たちは学習する。
あらゆる知能を獲得する。

それは悲惨な体験、あまりにも無配慮で愛されないという体感の中での生活からも、あらゆる知能を獲得していることを意味する。
もちろん愛さない、配慮しないという体験を積み重ねながらでさえ、私たちは学習している。


たとえば相談することができるだろうか。
苦境に置かれたとき。トラブルに見舞われたとき。

相談することによる成功を体験してきただろうか。
学習できただろうか。

相談という行いは、相談をしようとした者だけでは成立しない。
かといって相談する相手がいればいいだけでもない。
実に多くの要素が求められる。

仮に要素を絞って並べるとして、まずは相談者、相談を受ける者、それぞれの心理的・生理的・社会における健康がある程度は求められるだろう。

世の中には「当人の努力次第だ」と言う人もいるが、実際にはより広範に渡る要素が経験を支えているし、成否問わずあらゆる結果が私たちの学習に繋がっている。
そうした学習の成果が、今後の行動に影響を与えることだろう。そうしてまた私たちはさらに学習していく。


膨大な学習の蓄積、そして記憶は、単語にしてみれば学習と記憶のふたつを並べただけだ。
しかし、それらが抱える内容は個々人の人生であり、価値観であり、形成するうえで関わった縁や所属した環境のあらゆる要素の凝縮なのである。

あまりにも膨大であるがゆえに「人はそう簡単には変わらない」と感じるし、実際にそうした言説が流布されるのだろうし?

アドラーに言わせれば「性格、つまりライフマニュアルはまさに死ぬ間際においてでさえ変えられる」のだろう。


学習と記憶。
このふたつの単語は、実に膨大すぎる情報を抱えている。
そのためにふたつの単語の先にあるものが完全に同じ方向性で一致する人などいるのだろうか? と疑念を抱かずにはいられない。

ライフマニュアルの取り扱い、どのように生きるのかという問いは、フランクルに言わせれば、あらゆる瞬間に具体的な行動をもって問われている。
アドラーの教えは「ここだけ変えればいいよ」ではなく「常に変わりたいと願うほうへと継続的に変わっていくことができるよ」なのではないか。


しかし私たちは変わる必要性があると感じるときはどうか。
しばしば問題となる場所だけを条件として、他は維持しようとしてしまいがちだ。「ここだけ変えればいい」、それも一時的にだけ。
表面的な行動だけを変容させればいいと捉えて、たかをくくり、気の緩みや油断から馬脚を現す。

中学、高校のどこかでついていけなくなった教科に巡り会ったとき、小学校からふり返ってやり直そうとする者はそう多くない。
人生のあらゆる学習の根元に立ち返り、これを学び直そうとすると、あらゆる障害が待ち構えている。
おまけに社会生活は“学び直し”を待つほどゆっくり進んではいない。
いまに適応しようとがんばる者たちが求める態度でもない。

そのため、噛みあわない社会を相手に生理学、心理学の両面で自分を支える必要性が生じる。

もしも自分が帰属して落ち着ける社会があったなら、噛みあわない社会と行き来することで、なんとか歪みを小さくすることができるかもしれない。少なくとも帰属して落ち着ける社会がないよりは。だが負担であることに変わりはない。
私たちは実に多くの難題を抱えて過ごしている。

人によっては、その難題を見ないことにする、忘れたことにするというのも、いまに適応するために必要な態度かもしれない。
がんばる方法のひとつなのかもしれない。
しかし、それは結局がんばらないと達成できないことであって、だれでもがんばれるものではないのだ。
どんな環境、どのような人生を経てなにをどう学習してきたのかが、あまりにも異なるのだから。

他者に言うのは簡単だ。
あなたの学習は誤りだと。

けれど、自己のあらゆる学習を前にすると、途方に暮れる者のほうが実は多いのではないだろうか。


アドラーは性格は変えられるとした。
フランクルは私たちは常に、苦しみや死さえ包摂した生きることの意味を問われていて、答えは具体的な行動によってのみ示されるとした。

誤りや過ちにさえ、なにをどう学ぶのか。
私たちは問われている。



(facebookに投稿した記事を加筆修正しました)

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