【小説】 うちのにゃんこ

 お金の余裕と心の余裕は比例する。
疲れたとき、頑張ったとき、特別なものが食べたくなったとき、ちょっといいものが手に入る。
手に入れる、という選択肢が増える。
手に入れられる範囲が広がる。

 なのに、頑張り疲れて疲れ果てると、お金はあっても手に入れることが億劫になる、手に入れるための時間と余裕がない、ほしいものが思い浮かばない、という事態が発生する。
脳が文化的な生活よりも生命維持を選ばざるを得なくなっているのだろう。
疲れるのは体だけではない。
脳も疲れるのだ。

 脳が疲れると思わぬバグが発生する。
バグが日常化すれば、生きることに支障をきたしはじめる。

 どこが境目か、もう判断ができない。

 世の中便利になっていて、家の中に引きこもっていても最低限の生命維持になんの問題も生じない。
人は人と関われば関わるほど喜怒哀楽が大きくなるものだ。
それが煩わしければ引きこもればいい。
今や情報化社会。
パソコンひとつで稼ぐこともできれば、ほしいものを手に入れることもできる。
すべてはお金があれば、という前提条件付き。

 内側と外側が混じることが、生理的に受け付けられない。
中でも人間に対してそれは顕著で、内側の物に外側の人間の気配を感じると、とたんにそれが気持ち悪く見え始める。
ごみ袋に入れて、空気が漏れないように何重にも縛って、そうやってここからなくなったものがどれ程あるだろう。
そんな中でのイレギュラーが、うちのにゃんこだ。

 彼はただそこにいる。
何が欲しいとか、食べたいとか、人間的な要求を聞いたことがない。
ふと気になって、床にごろりと横になっている彼を見る。
「にゃんこ、欲しいもの言ってみて?」
首をかしげて、沈黙。
数秒後、まっすぐこちらを見て、「ねこ」とだけ発した。
「猫かあ」
一人暮らしで完全室内飼いは、リスク管理が難しいと諦めていたけれど、彼がずっと内側でいてくれるのなら、と一瞬頭をよぎった。
けれど。
「ちょっと、難しいかも、ごめんね」

 だって、どうせ、本当は。
あなたもきっと、外側になる。
ああ、でも、にゃんこを失ったら、その子が代わりになるのかも。
それともその子も外側へ連れていってしまうのだろうか。
彼は床に両手をついて上半身を起こすと、ちょっと困ったように微笑んだ。
「猫、好きだったんだね」
ふたつのビードロがわたしを映す。
口が動く様子はない。
「お友だちがほしいの?」
お外に、出たいの?
その子と一緒に?

 彼の半身を支える手が床から離れ、すっと此方に伸ばされる。
きゅっと服の裾を摘まんで、だけど距離は縮まらない。
若干下方に引っ張られるのを、されるがままに様子を見る。
ふたつの宝石は未だにわたしを反射している。

 試しに手元にあったタブレットを渡してみた。
カバーを開いて、服をつまむ指先にトンと当てる。
真っ暗な画面に彼が映る。
これを彼が触ることで、彼を外に追いやらない自信はないけれど、良い機会かもしれない。
電話は使えないけれど、今時ネットさえ繋がれば、外と繋がる媒介になり得るものだ。

 彼は一瞬それを見て、すぐに興味を無くしたようにわたしを見た。
なあに?とでもいうように、ほんのちょっと小首を傾げている。
まるであなたが猫のよう。
タブレットを膝にのせて、電源をつける。
猫が売っているのかは知らないけれど、某ネット通販アプリを開いた。
彼の目線は未だにわたしの目元で、手元の方には少しも瞳が揺れない。

 「にゃんこ、見て?」
画面を彼の顔に向けてる。
そこでやっと、彼の瞳が動く。
またすぐ、此方に戻る。

 「わたしじゃなくて、これ。」
いっそ犬だ。
あまりに忠犬で、思わず笑みが溢れる。
彼が、ふわりと笑う。

 「何でも良いから選んでみて?」
彼はまた困ったように微笑んで、ちらっと画面を見ると、服から指を離してすぐにぽんとなにかを押した。
「…トマト缶?」
スクロールするでもなく、ページを選ぶでもなく、無造作に選ばれたそれは、「トマトパスタ」と短く補足された。
「食べたいの?」
「作る」
「作るの」
「嫌い?」
「んーん、でもミネストローネは苦手」
「わかった」
どこで身に付けたのかわからない彼の料理スキルは優秀で、だけどあまり家庭の味を連想させない。
「料理、好き?」
「ねこが食べるのが好き」
ふわっと目を細めた表情が眩しい。
「わたしか」
「うん」
さっきのも?とは、なんだか聞けなかった。


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