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070能力主義の萌芽……下級武士の登用・足高制

財政に関心を持たない勘定奉行の下で財務処理を行うのは計算に長けた家格のずっと低い下級武士ですが、下級武士がいくら危機意識や緊縮財政の必要性を訴えても、勘定奉行をはじめとした高級武士が数字・計算が苦手で、主君や藩行政の浪費にブレーキをかけられないのでは、財政は悪化する一方です。
説得力を持たせるために、計算に長けた財政政策に強い有能な下級武士を勘定奉行に抜擢・登用するとなれば、その武士に基準石高まで加増して資格を与えなければなりません。
かといって、その加増分を、もともとの家禄を持った家から減俸するわけにはいきません。家制度の中で決まった家禄を減俸するにはそれなりの理由が必要ですが、家禄にいたった先祖の功績を否定するのは、家制度そのものを否定することになり、なかなか容易ではありません。つまり、登用すればするほど、藩が支払う総禄高は増えて、さらに財政を悪化させることになります。
膨れに膨らんだ元禄時代のバブル景気をへて、こんな状態が続けば幕府を始め各藩の財政破たんも時間の問題、という切羽詰まった状態の正徳6(1716)年、紀州尾張藩から抜擢されて登場したのが、第8代将軍吉宗です。
吉宗は、将軍に就任早々、新田開発を奨励し、倹約令などを出して財政の再建をめざしますが、同時に一つの施策を採用します。それが身分制度の秩序に縛られ、固定化していた家制度の壁を打破する「足高制」(たしだかせい)と呼ばれる制度です。
下級武士を勘定奉行に登用すれば、基準石高まで加増して家禄を上げなければなりません。いったん加増すればそれは家禄として代々受け継がれますから、これでは財政負担になるので、おいそれと登用はできません。
そこで、役職についている間だけその役職の基準石高を付与する、ワンポイントで下駄をはかせる、という手を考えだします。
例えば、勘定奉行や江戸町奉行の基準石高は3000石です。ここに抜擢したい者が、家禄500石の家のものであった場合には、その役職在任中に限って、その不足分2500石を「足高」として加算し、3000石を支給して、役職が必要とする家格を維持するというものです。形式を重視する社会での、ウソも方便というか、まあ、便宜的な処理です。柔軟な思考は名君と言われた吉宗の本領と言っていいでしょう。
究極まで困れば解決策はおのずと出てくるということでしょうが、これは、それまでの武士の身分を守ってきた家制度の崩壊を意味します。強い反対があったはずですが、それを実行してしまう所は、さすがに吉宗、強いリーダーシップがあったのですね。
この仕組みは、能力のある下級武士を登用する一つの有力な方法になり、予想以上に大きな効果を生みます。何よりも、家格のために出世は望めないと思われてきた有能な下級武士に大きなチャンスが生まれ、がぜん彼らがやる気を出してきたわけです。
勘定奉行にふさわしい家格の武士たちは計算ができず、財務処理を誰もやりたがらないのですから、下級武士にとって、実力さえつければ、登用される可能性は大です。下級武士にとって、勘定奉行という職務は、またとない出世のねらい目になりました。
足高制が実際にどのように利用されたのか、勘定奉行についてみると、実施以後では500石以下層からの登用がその半数近くを占め、
 
「徳川時代中期以降に活躍した勘定奉行の中には、禄高が150~200石という、旗本でも最下位の身分の出自ながら、順次に昇進して、3000石相当の勘定奉行にまで至ったという経歴の持ち主」が何人もいた
 
と、笠谷和比古は(前掲③『武士道と日本型能力主義』 新潮選書)で紹介しています(図7-2)。
 
図7-2足高制度の下級武士登用数の変化

(⑦『武士道と日本型能力主義』笠谷和比古、新潮選書)

 
ここで初めて、有能な人材が活躍する場が作られるのですが、他方、旧来の家制度の上にあぐらをかいた武士は、大きな失政がない限り家禄を召し上げられることはなく、相も変わらず遊民的に時を過ごし続けることになったのです。
勤務時間をきちんと守ることを重視して、効率を無視するという責任の果たし方は、一般的には共産主義の計画経済の下での労働の特徴です。各担当者が担当の業務を分担してこなすことに意味があり、効率は求められなかったという江戸時代の武士の立場はこの点で計画経済的です。
江戸時代=封建制度=専制政治、というイメージがあります。しかし、働き方という点で改めて見てみると、藩そのものが領主の専制という形を取りながら、家老らの高級家臣団による合議制で決められることが多かったということもあり、藩の運営は、武士というギルド(職業別の寄合)により、きわめて計画経済的に行われていたというのが正しい理解かもしれません。
そして江戸時代も後半になると、勘定奉行だけでなく、藩の行政の各所で、旧態依然たる計画経済的な運営体制を打破する新しい発想を持った勢力として、下級武士の中から有能な青年が登用されるようになり、新しい集団が生まれてきます。江戸時代の後半は、幕府・各藩ともにこうした下級武士たちが、高い能力を発揮して、財政の改革を進めていった時代でもあります。
維新の原動力になった幕末の志士たちや、伊藤博文などの明治時代を動かした人材に、足軽などの下級武士の出身が多いのも、うなずける気がします。それまで蓄積された不満や批判精神の発露と言えるかもしれません。
こうした状況のなか、勤勉な農民、気ままな職人、遊民となった武士、そして有能な下級武士などのそれぞれがそれぞれの立場で仕事を果たしながら、開国という新しい時代に向かって世の中が流れていきます。

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