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|文明評論集|・世界最終戦争論とセカイノオワリと文学世界のつれづれなるままに🇯🇵🇯🇵🇯🇵………あらあらあら、まぁどうしたことでしょう……大丈夫かしら…。

突如、白い大空に手元に持っていた真っ赤な風船がふわふわもこもこと、ユックリと曇り空に天高く飛んで行ってしまった…………

なんか………、大空に日本の国旗、🇯🇵🇯🇵🇯🇵日の丸が突如として表れたみたいに見えたみたいな……………?

突然ですが、これを読んでる皆さんは、このまま世の中の歴史がどうなっていくか考えたことはないのかな???

私的にこれからの世界の歴史を語るといえば、日本文学でノーベル文学賞を受賞した、川端康成を持っていきたいと思います。この流れに対して反対に位置する中上健次を隅に追いやって。

川端文学は初期の都会を舞台にしたモダンな
文学の段階から、すでにかなり特異なストーリー展開をみせていき、それは例えば若い男と女が私達が本当に心中自殺したのなら、あの眼の前にある大きな樹を通り抜けれるはずです………。川端康成の鋭すぎる感受性は現実世界を通り越した特異な世界まで突き進んでいく。小説|山の音|では、主人公が自分の頭
を外して胴体だけになり身体の音を聞く、等
現実から離脱した作品世界。そこからとある
親交のあった文学者の戦死により自然主義文学へと流れて行く。伊豆の踊子、辺りから、
しんしんと染み渡る感受性と自然との協和していく川端自然主義文学。

それはスウェーデンのノーベル賞委員会が、たぶん東洋趣味的なジャポニスムの印象を川端文学に当てはめて、川端康成の特異性、ズレた文学性を見ていなかったのだろう。

ただ、その後のノーベル賞選考委員達の日本文学の読み方の流れは、変わらず三島由紀夫
へと行き着く。次期ノーベル文学賞候補の三島文学の美しく流麗な文体。初期から中期までの真ん中がズレた、あるいは自意識過剰な告白文体。ハッキリ言って歪んで変な小説。

三島由紀夫自身、幼い頃からの相当な悪戯好き、驚かせたがり屋の実態は親族の自伝にも表れており、家族の夜の野外パーティーで一人だけ平岡公威(本名)がいない。父親が探し回ると、枯井戸から幽霊の衣装を着て這い上がる、等の驚かせるパフォーマンスに凝り両親家族を困らせるところとか。成人するまで様々な関わった人達の証言では、真っ直ぐな曲がったところのない人だった。それが故に
川端康成以前から、もはや世界的に物語など
描きようが無いのだということを、その後の
人生で体現したのだろう。

小説・花ざかりの森、仮面の告白……、等を執筆しつつ筋トレでマッチョな肉体を創り上げ
空手を学び、小さいけど内装は豪華な西洋風のバランスの変な持ち家とか……とある評論家が、この人は全てがデタラメの人だからとか……切られ役のヤクザ役で映画等に出演、政治結社を結成し、訳の分からぬ無理のある論理を弁舌、展開しながら東大の安田講堂で腹切り自殺!!!!!!!!!!

真面目であり、驚かせたがり屋であり、がゆえの人生を命を懸けた、全てがズレまくった
人生を自ら企画して演出した。それは、もはや文学、ストーリーなんてものは作りようがありませんよ!………という三島のメッセージであったのでは。

それよりさらに遡り、戦前へと時間を巻き戻してみましょう………………。

戦前の日本国軍人に、石原莞爾がいます。彼は中国東北部に、実際は世界大恐慌、昭和恐慌の経済のダメージを回復させるために、埋め合わせるための自身の理想国家、満州国を
建国することを目指します。五族協和、王道楽土をコンセプトとした。

石原は、仏教的な思想を背景とする   |世界最終戦争論| を夢想します。それは曰く 世界中が戦争をやり尽くし、その後に世界に恒久平和が訪れるであるうと予言します。実際には、さすがにそれは無理かと……………。 

その後も日本の戦局は米国と連合国に追い詰められて行き、最後に広島、長崎へ原子爆弾
を投下され、日本は敗戦を選択します。自分的にはそれ以降の日本は核戦争後の社会であり、核投下前の戦争は石原莞爾言うところの
世界最終戦争であると。と、言うことは日本の核戦争後の社会は、完全とは言わないまでも恒久平和だったのでは?

極論すれば川端康成、三島由紀夫達の文学者はセカイノオワリを自らの、ガス管咥えて自殺、切腹自殺をもって表した恒久平和、それはすなわちセカイノオワリという事を体現したのでは?……………………………。

 推測してみれば日本人が取るべき日本のノーベル文学賞は、川端康成から、三島由紀夫、そしてズレた無意味な特異な村上春樹
へと日本文学の流れは流れていき、世界の終焉を告げていたと。そのほうが良かったのでは?大江健三郎が受賞するなんかよりは。

中上健次文学の様な、もはや戦前から日本では文学なんて作ることなんて、物語なんて出来っこないですよ、と、彼は体現している。小説、|岬|、|枯木灘|、|地の果て……|、へと続き、|千年の悦楽|、|奇蹟|、に行き着く現代日本で紀州和歌山の部落社会に、後進国アフリカ、南米、東南アジア諸国の未開の部族社会を重ね合わせて、そこから生命力、エロティシズム、物語を生み出して行く無理の有りすぎる創作姿勢は、それを表しているのでは?曰くそれはモダン・近代、世界近代文学の死を表しているのであると……………。

少し話はズレますが、東大在学中にムツゴロウさんこと、畑正憲さんは純文学作家を目指していたが、大学の校内新聞に載った大江健三郎の小説を見て、これぞ文学!!!!!!、と挫折し
負けを認め文学を諦め動物文学へと方向を変えたそうです。自分的には思うんですが、大江健三郎とは、畑正憲さん、方向性違うと思うので自意識を巡る冒険の純文学より、ムツゴロウさんは熊やライオンと身体で語り合う姿勢なのだから自意識より身体で物語を紡ぎ出す新たな文学を創出してほしかったですね
、人もまた動物であり性欲を含めた本能を持つ動物なのだと言う新しい可能性を持つ文学を。亡くなられましたが…………。

ムツゴロウの動物王国、動物文学、新たな身体文学。この3つでやって欲しかった。大江文学に負けたなんて言うよりは…………。

中上健次文学の様にもはや物語は紡ぎ出されないと、言ってるに等しいと事と、村上春樹
文学のように外がなくなってしまった、全ては内向きの世界なのだと言う事は、石原莞爾
の世界最終戦争論の恒久平和が重なるかどうか、ハッキリ言って私には分かりません。ですが、だぶる事だけは確かです。

世界の終わり・セカイノオワリ……………。

80年代のジャンプ漫画で |北斗の拳| が有りました。核戦争後の暴力殺戮吹き荒れる社会は暗殺拳、北斗神拳の継承者ケンシロウにより一時治まります。それは、覇道で騒乱の世を力で収めるラオウをケンシロウは無数の子供達と共に諦めにも似た無常観によりラオウの力づくのマンネリ征服欲を征します。

世界の終わった後の世界は、最終戦争の世界後は、やっても無駄の無常観による平和、という事なのでしょうか?それともマヤ文明、インダス文明等が滅びて行ったようにホントに滅びるのだろうか?いや、文明の崩壊を人もまた動物なのだと言うなら環境に対応するため何らかの進化を、特に意識を進化させて生き残るのかも知れないが…………?

私的にはノストラダムスの大予言にある、1999年7の月、空から恐怖の大王が降りてくる………その時アンゴルモアの大王は動くだろう………。これは今になってみてみれば1999年7月に、恐怖の大王とは、前から言われている米国発世界大恐慌、つまり米国の巨大なバブル経済が破裂して札束が紙くずに、それをその当時のアンゴルモアの大王、日本の総理大臣が阻止して、その人は物凄いストレスで亡くなられた。それでも米国の巨大なバブルは弾けず、それは昨今の前からの資産回避の為の金の価格の異様な高騰に表れ、やがては、大恐慌は来るわけで、予言の最後の、大いなる太陽の法とは、世界的に広がっている日本ブー厶と、大恐慌後も続く日本的な文化の世界的な伝播だと思う。

世界文学の終わりや、セカイノオワリではなくて意外にも外の世界が無くなった世界人類の意識に圧力をかけて、それは前からそうなっていますが意識の細分化、細密化になっていくんだと思う。大袈裟に言えば、猿から人間へと進化して来たけど、身体は代わらず身体の感覚が時間をかけながら保ち続け薄れていき意識のみが進化し続け内向化して、何か意識のみが進化した別の生物になるのかも知れない。特に日本人に言えるけど、かなり前から言われていた俗に言う日本のみの文化のガラパゴス化。それが、全世界へと大いなる広がりを見せ、拡大していく。小、中、高校生と、学年が違えば話す言葉も、思考も理解できなくなってくる、とか、クラスごとにあるスクールカーストの階級社会等、話す言葉を厳しく規制された階級社会とか、もう人間のそれじやあなくなっている。スーパーサイヤ人ならぬ、スーパー宇宙人が表れてしまっている。新世紀エヴァンゲリオンの庵野秀明氏よりも遥かに上を征く超生命体が。全世界へと広まっていくのかも知れない。もうそうなっていっているっぽいけど、それらがの大きな津波が、この行き詰まった文明の危難を大量に拡散して乗り越えるのかも……???


世界最終戦争論とセカイノオワリとスーパー最終人!!!!!!!!!!????

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