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私の文章作法なんか無いよ、という話

薄々気付いている人は気付いているでしょうが、私の文章というのは何も構成を考えていない。なんとなくダラダラとフェード・インして始まり、心に移り行く由無し事をそこはかとなく書き綴っている。
本物の才のある方なら、それでも辻褄を合わせてしまうのだろうけど、私の場合はそんな芸当はとてものことではないがかなり厳しい。期待するだけ無駄よ、と開き直るくらい難しい。
そもそも何も考えていない。本当に徒然なるままに、思いついたことを八百屋の店先よりも雑に並べているだけなのだ。
意識の流れをそのまま書き写しているなら『フィネガンズ・ウェイク』もかくやという傑作をモノすることも出来るだろうにと思わなくないが、読んだこと無いけど多分あれは鬼のように緻密に構成された鬼畜文学なのであろう。
多分。知らんけど。
私の文章は思い付きに思い付きを重ねた砂上の楼閣なので、論理性などというのを期待されても困る。もう歳も歳だし軽く認知症も入っているはずだ。何しろ人の名前と顔が一致しない。
先日気付いたが、職場の上司の名前が本気で出てこない。一年近く休職中なので、さっぱりだ。
話を面白くするための嘘じゃないよ?本当に忘れた。
たぶんパロキセチンの副作用だろう。
休職中に上司の名前を忘れていたところで私は困らないので、なるようになると居直るしかない。
やべぇ、本当に思い出せん・・・。特に休む直前に大いに揉めた奴の名前どころか顔もヤバい。
「遠近さんはやりがいとか無いんですか」
「(本気で異星人を見る目)金。働きに対して金が出ること」
「そんなんで仕事に正面から取り組んでると言えますか?」
「逆に聞くけど、例えばあそこのアイツが本気かどうか判るの?手を抜いてると判断したら査定下げるの?そんな精神論が通じるの?」
というような心温まる会話があった気がする。
私はスピリチュアリズムには嫌悪感しかなく、精神論はゴミ箱行きにすべき空論だとしか思わない。その手の文言を真面目に語る上司らしき輩の顔など忘れてしまうに決まってるではないか。
ほらごらん。
私の文章作法は何処行った?
悪口ならいくらでも湧いて出てくるのである。

私としては、例えば谷崎潤一郎や三島由紀夫辺りの『文章読本』でも読んで身に付けておけばと悔やまれることしきりなのだが、実際には井上ひさしの『文章読本』や筒井康隆の『文学部唯野教授』や『文学部唯野教授のサブテキスト』などに影響されてしまい、訳の判らぬ屁理屈やら頓知を並べて煙に巻くような、影響なんて言ったら怒られるような表現形式へと突っ走ってしまっている。
なんなら推敲もしないからね。
適当。人生適当。
嗚呼、出来ることなら北原白秋ばりに宝石箱を引っくり返したような絢爛で繊細な文章を書いてみたいが、いかんせん語彙力が勝負にならない。風信子(ひやしんす)だの手風琴(はーもにか)だの、咄嗟に出てくる脳みそが欲しい。
言葉の事は詩人に聞け、と池澤夏樹は言っていたのだが、その御当人が詩人ばりの文章をさらりと書くんだもの。私には作家になるのは無理だよ。
いや作家になりたいなんて悩んだことは無いのだけれど。
取り敢えず、こうやって文章を書く時はなるべく同じ単語を多用しない事くらいかな?気をつけているのは。
それと明白に嫌いな言葉は無理して使わない。
例えば「言葉」を「言の葉」と言ってみたり、「書く」ことを「綴る」と言ってみたり、紐解くはギリギリOKかな。多用されすぎて陳腐化した特殊だった筈の言い回しは、なんだか総毛立つような恥ずかしさがある。黒板に思いっきり爪を立てるような、生理的嫌悪感が拭えない。
まぁ、黒歴史の告白なんだけどね。
昔、自分でも作歌していたのよね、いわゆる短歌を。もちろん才能の無さに辟易して封印したんだけど、今でも近現代の短歌を読むのは好きでたまらない。穂村弘、加藤治郎、小高賢、小池光、永田和宏、坂井修一、荻原裕幸、等々。
俳句のように削ぎ落とし過ぎて人に非ずの感覚にまで到達するには、私には感情が耳から溢れるほどに渦巻いているのだろう。
短歌もまた研ぎ澄まされた表現形式ではあるのだけど、そこに溢れる感傷が、より生々しい人間そのものを表現しているように思えてならない。
冷静に彫琢しつつも、薄皮1枚を剥いだそこにはマグマのように赤黒い情熱が見え隠れする表現、それが短歌だ。
いつかまた私も短歌に帰っていくかもしれない。そんな気がしてうわおい、もう20年近く経っちゃってるよ!
あー、たぶん死ぬまでちゃらんぽらんに作文死続ける気がしてきたよ。残念。

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