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日米交渉1941 -14- (草稿)

アメリカワシントンの駐米日本大使館では、ハルノートの返信が、東京から一向に届かない事に対し、いらだちと不安が交錯している状況でありました。

本格的な日米交渉開始から既に7ヶ月。在米日本大使野村吉三郎は、アメリカとの交渉打開が見えず、また交渉締結への具体的方策も見つける事が出来ず、さらに、本国からは、なんの理由もなく、11月29日までに交渉を妥結するようにという、最終期限を示す訓令を受けており、まさに四面楚歌の状態でありました。この重苦しい空気、そして焦燥感は、野村のみのものではありませんでした。

しかし、ワシントンの日本大使館内には、この状況を打破し、日米和平の実現と開戦阻止を最後まであきらめていなかった人物がおりました。

在米日本大使館領事の寺崎英成でした。

寺崎は、兄の寺崎太郎が外務省退職後も、引き続きワシントンで、その任に当たっておりました。
寺崎は、ワシントン赴任時から抱いていた日米の架け橋の役割を担うという、並々ならぬ使命感は、未だ色あせず、むしろ、こういう閉塞的な状況になればなるほど決意を固くしておりました。

そこで、現在の日米交渉の行き詰まりに対し、寺崎個人でも、何らかの行動を起こし、日米和平の実現に一歩でも近づけようと、水面下で努力をしていたのです。
そして、その行動に心を打たれた、上司と共に、まさに掟破りの、和平工作を実行するのです。

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