放置中

申し訳ありませんでした。

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マガジン

  • 日米交渉 1941

    youtubeとニコニコ動画にアップロードしている動画 「日米交渉-1941-」 の台本です。 台本の保存を兼ねて、有料ですが公開いたします。(1本 ¥100) ◎youtube 再生リスト 日米交渉 1941 ー何故日本は太平洋戦争に突入したのか?ー https://youtube.com/playlist?list=PLaDA8NSIX6m9JMrUC8UXxc9DhZnlgxBOs

  • 【ブログネット】

    主に、ニュース、政治系動画の編集用台本を掲載します。 なお、この内容で編集するかは未定ですので、必ずしも動画としてアップロードとは限りません。 ツイッター: https://twitter.com/cyokuri ニコニコ動画マイリスト: http://www.nicovideo.jp/mylist/53734621 youtube : http://www.youtube.com/naosite2002 ブロマガ: http://ch.nicovideo.jp/cyokuri note: https://note.mu/cyokuri

  • 百均画像倉庫(一部無料)

    過去に作った画像を纏めて上げておきます。 閲覧は有料(1ノート【画像2枚~10数枚位】100円・一部無料)です。 フリー素材です、画像はご自由にお使いください。 我儘を言って申し訳ありませんが、もしお気に入りの画像がございましたら、何卒課金に御協力をお願いいたします。

最近の記事

生存確認

生きてます。

    • noteについて。

      取り敢えず、noteについては、6月末で閉鎖予定ですが、それまで基本放置します。

      • 無題

        私に、政治・経済を語る資格はありませんでした。 申し訳ありませんでした。

        • note 一部削除しました。

          主に無料コンテンツの「ブログネット」などを削除しました。 申し訳ありません。

        生存確認

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        • 日米交渉 1941
          16本
        • 【ブログネット】
          3本
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        記事

          youtube ニコニコ動画を削除しました。

          youtube ニコニコ動画を削除しました。 皆様にはご迷惑をおかけしました。 申し訳ありませんでした。

          youtube ニコニコ動画を削除しました。

          ツイッターの垢、停止(削除)しました。

          2010年から13年間にわたり運用していたツイッターを停止にしました。 フォロワーの皆様今まで有り難うございました。

          ツイッターの垢、停止(削除)しました。

          お知らせとお願い(Note閉鎖)

          急で申し訳ありませんが、Noteの更新を停止し、6月末で閉鎖する予定です。 付きましては、サポート、有料記事購入は今後御遠慮頂きます様、何卒宜しくお願い致します。 この度は御迷惑を御掛けしました。 申し訳御座いません。 また、6月以降のサポート金や有料記事購入費は受けられなくなりますので入金をしないよう宜しくお願い致します。 (無駄になってしまうので)

          お知らせとお願い(Note閉鎖)

          すみません。

          サポートや購入有り難うございます。 個別に返事ができずごめんなさい。 自分が原因で自業自得のような事が起こりました。 全ては私が原因です。 皆様には御迷惑を御掛けしました。 すみません。

          すみません。

          日米交渉1941 -16- (草稿)

          日米開戦の前日。アメリカ東部時間、1941年(昭和16年)12月6日。 ワシントンのホワイトハウスでは、フランクリン=ルーズベルト アメリカ合衆国大統領が、政府当局者より日本の外務省本省から、ワシントンの在米日本大使館宛に送られた、13通の対米覚書の電報を傍受し、既に解読も終わったとの報告を受けておりました。 事態は、正に最終局面であると悟った、ルーズベルトは、コーデル=ハル国務長官に対し、在日駐米大使ジョセフ=グルー宛てに 「出来るだけ早く、貴下が最も適当と思われる方法

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          日米交渉1941 -16- (草稿)

          日米交渉1941 -15- (草稿)

          昭和16年(1941年)12月5日。ワシントンの日本大使館に日本本国から、非常に理解しがたい電報が届きました。 それは、寺崎英成領事を含めた数名の外交官に対する、転勤命令でした。事実、寺崎には、11月29日、南米転勤の内示がありましたが、飽くまで内示であるので、引き続き、ワシントンに留まり、職務に当たっておりました。 しかし、この転勤命令。海外在勤の外交官にとっては、至極当たり前の様に思えますが、電報の発信日時が、12月5日の金曜日であること、また、指示の内容が 「転勤

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          日米交渉1941 -15- (草稿)

          日米交渉1941 -14- (草稿)

          アメリカワシントンの駐米日本大使館では、ハルノートの返信が、東京から一向に届かない事に対し、いらだちと不安が交錯している状況でありました。 本格的な日米交渉開始から既に7ヶ月。在米日本大使野村吉三郎は、アメリカとの交渉打開が見えず、また交渉締結への具体的方策も見つける事が出来ず、さらに、本国からは、なんの理由もなく、11月29日までに交渉を妥結するようにという、最終期限を示す訓令を受けており、まさに四面楚歌の状態でありました。この重苦しい空気、そして焦燥感は、野村のみのもの

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          日米交渉1941 -14- (草稿)

          日米交渉1941 -13- (草稿)

          アメリカは、力の外交によって、戦争回避は可能と目論んでいた一方で、対する日本は、日米交渉の締結と日米開戦両方の選択肢を踏まえ、交渉を進める一方、戦闘の準備もしておりました。 昭和16年(1941年)11月5日。日本の大本営海軍部は、連合艦隊へ、対アメリカ、イギリス、オランダの作戦準備の命令を行い、作戦開始前の準備地点まで移動を指示します。 引き続き、11月21日。大本営は、連合艦隊に作戦待機海面への移動命令を下し、南雲忠一中将指揮下の機動部隊が、瀬戸内海から移動開始。翌日

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          日米交渉1941 -13- (草稿)

          日米交渉1941 -12- (草稿)

          近衛内閣総辞職翌日の、昭和16年(1941年)10月17日。宮中では重臣会議が執り行われ、次期総理大臣を誰にするかを、検討します。

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          日米交渉1941 -12- (草稿)

          日米交渉1941 -11- (草稿)

          日米交渉を優先するか、それともアメリカと戦うか? どっちつかずの対応を繰り返し、方針が、ぶれたままの日本でしたが、昭和16年(1941年)9月6日の御前会議に、一応の決断を出す事となります。 その御前会議の前日、9月5日。内閣総理大臣近衛文麿は、翌日の9月6日の御前会議の案である、『帝国国策遂行要領』を昭和天皇に上奏します。その内容は、第一に日米開戦に対する戦争の決意、第2に今後の対米交渉の行く末を協議する事を掲げ、第三に、もし、10月上旬に日米交渉がまとまらなかった場合は

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          日米交渉1941 -11- (草稿)

          日米交渉1941 -10- (草稿)

          第2次近衛内閣が退陣し、新たに改造内閣として、第3次近衛内閣が発足した頃、日本では、南部仏領インドシナ進駐の計画が着々と進められておりました。 この計画は、アメリカが、北部仏領インドシナの援蒋ルートとは、別に開設した新援蒋ルート(ビルマルート)への牽制の意味が表の理由です。

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          日米交渉1941 -10- (草稿)

          日米交渉1941 -9- (草稿)

          日米交渉に於ける、日米諒解案の行く末は、日本側の松岡洋右外務大臣による改竄、並びに、アメリカ側も、未だ政府公認ではなく、非公式の外交文書であるとの認識から、先行きの見えない暗澹とした状況が続いておりました。 さらにこの頃、日米両国においての懸案事項は、日米交渉そのもの、すなわち日米2国間の交渉だけではありませんでした。

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          日米交渉1941 -9- (草稿)