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日米交渉1941 -13- (草稿)

アメリカは、力の外交によって、戦争回避は可能と目論んでいた一方で、対する日本は、日米交渉の締結と日米開戦両方の選択肢を踏まえ、交渉を進める一方、戦闘の準備もしておりました。

昭和16年(1941年)11月5日。日本の大本営海軍部は、連合艦隊へ、対アメリカ、イギリス、オランダの作戦準備の命令を行い、作戦開始前の準備地点まで移動を指示します。

引き続き、11月21日。大本営は、連合艦隊に作戦待機海面への移動命令を下し、南雲忠一中将指揮下の機動部隊が、瀬戸内海から移動開始。翌日には、待機場所である、千島列島択捉島、ヒトカップ湾に到着します。

そして、11月26日、ついに、南雲中将に対し、機動部隊のヒトカップ湾出航を命令。作戦部隊の目的地である、ハワイオアフ島のパールハーバーに向けて出航しました。しかし、これは飽くまで準備であり、土壇場で日米交渉が事態打開し、アメリカとの和平が成立した場合は、引き返すようにとの申し渡しをしておりました。

既に日本は、日米和平、日米開戦、いずれの選択肢を取るにしても、もう時間がない事を悟っていたのです。

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