「人間とは何か」:マーク・トウェイン

「ハックルベリー・フィンの冒険」で有名なマーク・トウェイン。彼が晩年に書いた一片の小論である「人間とは何か」を読んで、なるほどとおもったので、感想を書いてみます。

哲学書でよくみかけるダイアローグ式の話になっていて、老人と若者がでてきます。若者が常識者として、老人が真理探求者としての役割をもち、老人が人間の心性について、根幹を説くという話になっています。命題を提示するだけではなく、数多くの例証が取り上げられ、命題に対する論拠としています。おおよそ、マーク・トウェインの思想といえるものなのかとは思いますが、それは受け取り方にも依るかもしれません。

さて、その老人の命題とは、主に3つです。

1.ヒトは機械である。
2.行動原理は、精神的満足を目指すのみである。
3.ヒトは生まれ持った気性と鍛錬によってのみ行動する。

話は意外とシンプルで、これ以外は特に述べていないと思われます。そして、これらの命題から導かれるのは、

・自由意志はない
・道徳などない
・善悪などない
・ヒトの動物に対する知的優越などない
・自己犠牲など存在しない
・創造性などない、模倣があるのみ
・利他性などない

ということです。

個人的には、基本的に同意なのですが、およそ世間では「若者」と同じリアクションがあるのではないかと思われます。大抵の人は、常識的ですから。

マーク・トウェインが述べている事は、遺伝と環境の話であり、心の問題です。そして、意思と心の分離の問題です。彼の主張を、現代の神経科学において検討してみましょう。
 我々は脳を持っていますが、その中に大脳皮質と大脳辺縁系というものを持ちます。現代ではリベットらの実験から、自由意志はなく随伴現象であると想定されていて、その意思はおよそ頭頂連合野において立ち現れると考えられています。一方で情動的な処理は、大脳辺縁系が担い、もっぱら扁桃体や帯状回において感情が処理されています。また欲求系としてのドーパミン系もこの系に作用します。大事な点は「意思」を処理する大脳皮質と「感情・情動」を処理する大脳辺縁系は互いに影響を与えますが、同一ではない事であり、それはマーク・トウェインが観察したように、心と意思が統一された実体ではなく別々に作用している事の証左といえます。
 まさにマーク・トウェインが主張するように、我々の行動原理は、脳が作り出す欲求の実現という目的に沿うだけであるとする見解と脳構造は見事にマッチします。事実、意思はそこに強く介在する事は不可能です。今から、不安をやめようと決意したところで、気持ちは変わらないわけです。

 つまり、我々は器質がもたらす感情作用に対して、システマチックに行動する存在であると言えます。その意味で、およそ「機械的」であるのは間違えありません。そしてマーク・トウェインが強く主張するように、我々つまり意思は、後追いでしか行動を観察できません。さすが、マーク・トウェインは酔眼であったと言えるでしょう。なにしろ、1906年に書いた内容が今も通じるわけですから。

 そして、どんな価値観をもつのかは、およそ育ちにまつわる問題です。もの事の善悪や、道徳などは、所変われば品変わるわけで、人類に普遍的な道徳など存在しません。それは後から刻まれるものです。とある集団において、親切心が生存に有利になれば、そのような事を受け取れる形で生まれてきます。けれども、親切を是としないグループに生まれ落ちても、また、彼は適応し生きていく事ができるでしょう。

 老人いわく、創造性などないと。これは創造性というものを自己肯定に利用している人にとっては手痛い指摘でしょう。しかし、事実我々が何かを生み出す時、その材料はすべからく外部からやってきます。そして、その外部に対するリアクションとして、始めて創造という言葉を当てはめたくなる行為に及びます。しかしながら、その行動に新しさなどありません。それは何かの組み合わせにすぎないからです。その組み合わせをおこなったという意味で、つまり二次創作したという意味でしか、創造を解釈できないというわけです。
 例えば、そもそも言語は自分で作ったものではありません。すでに有ったものです。それを組み合わせているのは私ですが、そこで生み出されるセンテンスはオリジナルではありません。もし本質的にオリジナルであれば、意味不明です。他者に通じるという意味でも、言語は模倣に過ぎないわけです。そして、そのようなものに創造は不可能といえます。

特にマーク・トウェインに対して、反論があるわけではないので、語ることはもうないのですが、強いて言えば、この真理を自家薬籠中にし、そこから、物事を眺める事はあらゆる場面において有効性があると思われます。

 多くの人は、より良い生活をもとめ、金を稼ぎ、社会的な成功を目指します。しかし、その価値観はどこから来たのでしょう? 一方で、泥棒、強盗、殺人など凶悪な行為におよぶ人々は、どうしてそのような事をするのでしょう? この2つはまるで同じ動機から来るというのが、先の主張です。それは精神的な満足を得るためであると。

 ややもすると、物質的な満足と精神的な満足という具合に、我々は分けてしまいます。しかし、物質的な満足とは、とどのつまり精神的な満足ですから、要は精神的な満足だけが問題となります。そして、どのような行為の背後にも精神的な不満足があり、それを満たすために行為が発動するというのがマーク・トウェインの主張です。例えば、自己犠牲や寄付などの利他的行為こそ、利己的な満足によって駆動されると解釈します。そうせざるを得ないので、そうするのだと。

これを前提にすると、あらゆるビジネスが届けるべきは、心の満足であるとわかります。食事や飲み物、物品といったサービスを提供するのは、結局、顧客が精神的な満足を得るためです。そして、その対価として金を払ってくれるわけです。逆に言えば、サービス前は客には不満足な気分になってもらう方が良いわけです。それをするのが広告といった宣伝でしょう。

意思によって、何か出来ないのだとしたら、我々には何ができるのか。およそ環境を変えることくらいでしょうか。しかし、それすらも外部から刺激が与えられて始めて夢想できること。そして実行に移すには更に、刺激が必要でしょう。なかなかじれったい話でもあります。

私がこうして、この話を記事にしているのも、マーク・トウェインによれば、そうせざるを得ないからだという事になります。何やら操られているかのような気分になるわけですが、およそ、そうなのでしょう。自分が揺さぶられた価値観の変容を開陳し、他者をもそれに巻き込みたいという気持ちがあるわけです。それは、そうするようにと、私の気性と積み重ねた鍛錬の結果であると言えます。

さてさて、皆さんはどう思いますか? 自分は機械であると納得できるでしょうか?

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