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平坂のカフェ 第4部 冬は雪(30)

 あれから1年が過ぎた。
 私は、白い病室の中で丸椅子に座ってベッドに横たわっている大切な人を見ていた。
 身体中に繋がれた管と言う管、身と心を撃つような無機質な機械音とアラーム、そして清潔なベッドの上で横たわる枯れ木のように痩せ、薄く目を開けて眠る彼・・。

 彼は、死ななかった。
 腹部と足を刺され、臓器を損傷し、大量の失血をしても彼は死ななかった。
 ただ、深い眠りについてしまった。
 いつ目覚めるかも分からない深い眠りに。
 報道されたニュースでは彼のことは死亡として取り上げられたがその後、訂正された。
 事件の後、病院に担ぎ込まれた私と彼の元に両親と義両親が駆けつけた。
 両親は、私の無事を確認して安堵し、抱きしめた。
 義両親は昏睡状態の彼に必死に声をかけ続けた。
 しかし、彼は目を覚さない。
 薄く目を開けて虚空を見つめるだけだった。
 医者が言うには目覚めることはないだろう、とのことだ。
 このままずっとベッドの上で目覚めずに生きるのが彼の運命だ、と。
 ニュースを見た友達たちが私の元に駆けつけて一緒に泣いてくれた。
 友人は、言いようのない怒りを拳を固めて壁を殴りつけた。
 顧問は、目を静かに閉じ「君が無事で良かった」と言った。
 しかし、私は皆が言っていることを何一つ聞いてなかった。聞くことが出来なかった。
 私は、何も受け入れることが出来なかった。
 穴の空いた紙コップのように下へ下へと落ちていくだけだった。
 彼がいない?
 彼が話さない?
 彼が目を覚さない?
 一体何を言ってるのだろう?
 寝ているだけなら目を覚ますに決まっている。
 結婚してからのいつもの朝のように目が覚めるに決まっている。
「おはようカナ」
 そう言っていつもの朗らかな笑みを浮かべて目が覚めるに決まっている。
 私は、ベッドの脇に座って彼に話しかける。
 彼が目覚めるのをただじっと待っている。
 ただ、それだけだった。
「今日はね、とても暑いよ・・・」
 私は、眠り続ける彼の髪を撫でる。
 どんなに寝ていても彼の波を打ったような癖のある髪は変わらない。
「今日はごめんね。ちょっと出掛けないといけないんだ」
 私は、彼の髪を優しく優しく撫でる。
「でも、用件が済んだら直ぐに戻ってくるから。そしたらずっとずっと貴方と一緒にいるからね」
 私は、酸素マスクをずらして眠る彼の唇にそっと自分の唇を添える。
 もう香辛料の匂いも甘い匂いもしない。
 私は、酸素マスクを戻してにっこりと微笑む。
 心は冷たいままに。
 私は、カバンの中にしまった物を確認する。
 友人から結婚のお祝いにと貰った24色入りの色鉛筆のケース。
 今日、私は、全てを奪った悪魔に会いに行く。
 悪魔に会い・・・この手で・・・。
「行ってくるね」
 私は、笑みを浮かべたまま彼に手を振って病室を出る。
 もう私の心はカラカラに壊れていた。

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