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僕と英語とアメリカとメンタルヘルス


はじめに

初めまして、ヨシ🌴(@da90s_kid)と申します。何年か前にもnoteで記事を書いていましたが、データのバックアップを取らないままアカウントを消してしまいました。その後、はてなブログやWordPressなどでブログを書いたりしていましたが、X(旧Twitter)で2023年4月にアカウントを作ったことをきっかけにまたnoteで記事を書いていこうかと思い立ちました。

生い立ち

僕には地元という概念がありません。というのも本籍地は高知県高知市で生まれは神奈川県横浜市ですが、0歳4か月の赤ん坊の時にアメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス郡に引っ越したためです。また母国語の概念も曖昧です。日本語や英語どころかまともな「言葉」を発することができるようになる前にアメリカに引っ越したのでnative languageというのが英語なのか日本語なのか定かではありません(ただ恐らく「バブ~!」とは言えたでしょう(苦笑))両親によるとプリスクールに入るまではお互い英語で意思疎通をしていたそうで日本語は自宅に居る時にたまに両親が僕に教えていたそうです。ただ、今となっては日本に長期間住んで日本語100%の環境に居て英語力がガタ落ちしているので、口が裂けても「母国語は英語です」とは言えません。

幼稚園~日本初帰国まで

ここは以前noteで記事を書いていた時にかなり掘り下げて書き、もう一度細かく書くのは疲れてしまうのでまずは僕に良くも悪くも影響を与えた事柄をキーワードにして箇条書きで書いていきたいと思います。

・バスケットボールとの出会い
小学校低学年の時に校庭を歩いていたらちょうどブラックトップでバスケットボールをプレイしている生徒に「人数が足りないんだ、プレイしないか?」と話しかけられルールも知らずに飛び入りで参加したのがきっかけでプレイし始めました。ルールを把握し、プレイを続けていくうちにバスケットボールが好きになって地元のチームに所属するようになり、大学生になるまでプレイを続けました。

・タトゥー文化
アフリカ系アメリカ人やラテン系アメリカ人が多い地域に住み、最初に目に飛び込んできたのは入れ墨、いわゆるタトゥーを彫っている人の多さでした。僕は小学校高学年の頃、仲間にこっそり小さなスリードッツタトゥーを彫ってもらいましたが日本に帰国した際に煙草の火でタトゥーを焼き消しました。でも根性焼きとして今度は痕が残ってしまいました(やれやれ)。州によってタトゥーを入れられる年齢はばらばらですが僕は20歳から入れ始め、今では上半身に48個近くタトゥーを彫ってあります。

・ヒップホップカルチャー
80年代~90年代、00年代はヒップホップもしくはギャングスターラップと呼ばれるジャンルの全盛期でした。僕が初めて聴いたのは友人の兄が貸してくれたSnoop Doggy Dogg(現Snoop Dogg)のDoggystyleというアルバムでした。何故友人の兄から借りたかというとParental Advisoryステッカーが貼ってあり、18歳未満は購入できなかったので年上の知り合いから借りる必要があったからです。その後2pacのファンになりウェストコーストラップ(アメリカ西海岸のラップ)に傾倒していきました。

・ドライブバイシューティング
アメリカは銃社会なので当然のことながら住んでいると発砲事件や銃を用いた強盗事件などは日常茶飯事的に発生しました。ドライブバイシューティングもそのうちの一つです。簡単に説明すれば車を走らせながら時には徐行したりして車内からターゲットに対して発砲する行為のことを指します。ランダムに発生することもあれば何らかの理由があったりします。僕は自宅近くと学校の駐車場で経験しました。幸い自分が怪我をすることはなかったですがやはり近くで発砲されるのは恐ろしかったです。

・ロサンゼルス暴動
1992年、ロサンゼルスで起きた暴動ですが細かいディテールを書くと長くなってしまうのでご興味のある方はこちら(ウィキペディア)を参照してください。この一件で街全体に戒厳令がしかれたり、友人にアフリカ系アメリカ人が居たことで命拾いしたり、学校が暫く休校になったりと、とにかく何もかもが滅茶苦茶でした。

・銃撃、そして友人の死
アメリカでの生活が終わりに差し掛かっていた時に起きた悲劇です。スーパーの駐車場でその場に居た銃を持ったゴロツキに金銭を要求され気の強かった友人が抵抗したため撃たれ、搬送先の病院で息を引き取りました。

ザッとこんな感じでしょうか。詳細を全て書くとなるとあまり思い出したくない記憶も蘇ってくるので精神衛生上の観点から少なくともこの記事では詳細には触れない予定です。ただ気が向けば記事を書く可能性はあるかも(?)しれません。

中学時代

中学生になり日本に帰国してからの僕は慣れないことの連続でした。まずは片道2時間かけての通学と朝練(バスケ部に所属していました)。毎朝早朝4時に起きて部活の朝練に間に合うようにほぼ始発の電車に乗って通学していました。部活は難なくこなしていましたが僕が困ったのは通学でした。アメリカから帰国して電車通学になってから僕は人が大勢いたり人口密度が高い場所に行くと動悸がして息が切れ、異常なくらいに発汗するという症状に悩まされました。あまりの息苦しさに途中下車をして落ち着くまで待ってから登校することが度々ありました。今でいえばパニック障害なのですが、当時は上記の症状が一体何故起きるのか全く分からずとにかく苦しかった記憶しかなく、この症状は高校、大学そして今も若干続いています。

ちなみに学業面も帰国したての頃は酷かったです。全ての教科が日本語で行われ、教科書も日本語なので漢字もろくに読めない状態からスタートしたので大変でした。英語以外の教科はほぼ全て赤点を取った時にはさすがに担任の先生から呼び出されました。まず、僕は勉強の仕方が分かりませんでした。予習や復習という概念も持ち合わせてなく、学年主任に「留年」の言葉をちらつかせられて焦って勉強を開始しました。それに反して英語の授業では特別扱いされ、英文法の授業が免除されました(私立だったのでカリキュラムはめちゃくちゃで未履修科目がたくさんありました)。

高校時代

高校に入る前の春休み、僕は一念発揮しました。春休みは全て勉強する時間に充て、高校に入って受けたレベル分けのテストで好スタートを切りました。英語と国語のクラスで一番上のクラスに入り、社会は横文字が多い世界史を選択しました。また高校でも英文法のクラスは免除され、代わりに英会話の授業になりました。それと数学と理科は中学時代から苦手で克服できなかったため、高校1年生の段階から私立文系コースに所属し数学と理科のクラスが自動的になくなりました。これが私立の強みなのかもしれません。大学進学率を上げたいがために苦手科目はどんどん削り、少しでも良い大学に入れる確率を上げるためにカリキュラムを弄るという生徒のためではなく学校のためでした。ビジネスとでもいうんでしょうか。

高校に入っても部活は続けていましたが、体調は中学の時と同様に動悸や息切れ、発汗などが続き精神的にも参っていたので両親に相談しました。ただ当時は心療内科という内科に毛が生えたタイプの病院が少なく、かかるといえば精神科になってしまい、両親は世間体を気にして行かせてくれず毎日ひたすら耐えるという生活を送っていました。

学校の成績は履修している科目が少ないのもあって英語、現代文、古文、漢文、世界史は軒並み良く、英語は校内実力テストでトップをキープしていました。高校3年次には全国模試を何度も受けさせられましたが志望校は全てA判定で喜ばしいことではあったのですが、僕は大学が自分の体調で通える範囲内の場所にあるかどうか、というのが進学する大学を決める基準でした。大学受験が終わり蓋を開けてみれば受けた大学には全て合格していたもののほとんどが遠方の大学で、その中で一番近い(それでも片道2時間ぐらいはかかる)東京の大学に進学しました。

大学時代

結局、東京にキャンパスを構える大学に入学こそしましたが現実の大学生活は思い描いていたものとはまるで違いました。周りの学生やサークル活動の雰囲気とは絶望的にノリが合わずサークルはすぐにやめ、体調の悪化と共に学生相談室に避難しそこで1日を過ごすようになり、次第に完全に大学へ行かなくなりました。この頃ようやく両親が心療内科に行くことを許可してくれ、数回の診察や検査の結果、抑うつ神経症とパニック障害と診断されました。向精神薬を服用するようになった同時に臨床心理士とカウンセリングを受けるようにもなりました。大学からは完全に足が遠のき、休学手続きをしたのも束の間、最終的には自主的に大学を退学しました。退学したのには理由があって、僕は密かにカリフォルニアに戻れば体調も回復するんじゃないか?という淡い期待があって留学することを考えていました。それを両親に打ち明けたところ、協力してくれるということになり、TOEFLというテストを受けてフロリダ州、アリゾナ州、オレゴン州、ワシントン州、カリフォルニア州と色んな州にある大学にスコアを送り、興味を持ってくれた大学が入学手続きの書類を送ってくれました。結局は当初の予定通り、カリフォルニア州の地元にあった4年制大学に入学を決意し、荷物をまとめて飛行機に乗りました。

留学時代

留学先では僕はアフリカ系アメリカ人学を主専攻し、心理学を副専攻しました。住んでいたところは若干治安が悪かったせいもあり、色々ありすぎて書いていたら長くなってしまうので割愛します。学業自体は問題なかったものの、キャンパスライフは順調とは程遠く、僕が最初から英語が話せて地元の人と仲良くしていたことへのやっかみか、日本人学生会会長に目を付けられ数々の嫌がらせを受けて精神的にダウンしました。結局、アメリカに来ても精神科医の先生に診てもらうことになり、bipolar disorder(双極性障害)とパニック障害と診断され、授業のない日は現地のclinical psychologist(臨床心理士)にカウンセリングを受けるという生活が続きました。そしてJunior(3年生)になった頃に一本の電話が両親からありました。「学費をこれ以上支払えない」という旨の電話で仕方がなく荷物をまとめて日本に帰国しました。貴重な体験も数多くできたとはいえ、結局3年間で負ったものは数千万円の学費という名の借金でした。

引きこもり時代

日本に帰ってきてから僕は絶望していました。この先どうするんだろう?といつも自問自答しながら何をする訳でもなくただひたすら部屋に閉じこもる日々を過ごしていました。いつもしていた英語学習も全くしなくなり、僕はMMORPGと呼ばれる大規模多人数同時参加型オンラインゲームに夢中になっていました。トイレに行く時だけ部屋から出て、ご飯はドアの前に置かれて適当な時間になったら食べてお盆をドアの前に置くという生活スタイルをしていました。

体調のほうはそれまでと比べて悪化していて躁状態の時は訳もなく髪の毛を金髪にしたと思ったらその後すぐにスキンヘッドにしてみたり、突然ピアスを5~6個開けたり、クレジットカードの上限まで一気に使ってみたりしつつ、逆に鬱状態の時は何もできずただひたすら寝て過ごしたりしていました。しばらくこうした生活を年単位で続けていましたが将来への不安からある時「何とかしないとマズい」という思いがこみ上げ、色々とネットで調べた結果、障がい者が就労を目指す事業所があるということを知り、思い切って電話をして訪問しました。当時の僕は既に障がい者手帳を取得していたのですんなり入ることができ、体調に気を付けながらトレーニングを行い、数ヶ月後、無事就職することができました(実際はもっと色んなことがあり、大変でしたが書くと長くなるので割愛します)。

就職&転職

小さい頃は「絶対ビジネスパーソンになんてなるか!」と思っていましたが、就職後は結局ネクタイを締めて背広を着て出勤する毎日が続きました。仕事は思っていたより楽しく、周りはExcelもほとんど扱えない社員さんがいる中、重宝されたと思っています。しかし僕の悪い癖で欲が出てしまい「英語力を活かした仕事ができないかな?」と思うようになり転職を決意しました。ほぼ転職エージェントに任せっきりでしたが運よくとある外資系企業の翻訳&通訳の仕事を見つけて転職に成功しました。

ただこれが運の尽きでした。その会社は外資の皮を被った日系企業で人間関係がドロドロとしていて…………書いているだけで嫌な気持ちになるので割愛します(笑)結論から言うと転職してから数年後、ストレス過多で体調が絶不調になり、また様々な症状に悩まされるようになり最終的に担当医師に統合失調症と診断されました。

余生〜やり直し英語

いきなり見出しが「余生」になっていますが色々と割愛しました(笑)僕は以前引きこもりになってから、X(旧Twitter)に英語関連のアカウントを持っていました。そこで僕は2つの出会いをします。1つはジェームズ・M・バーダマン先生です。

元々は娘さんのマヤ・バーダマンさんとX(旧Twitter)上で知り合いだったのですがお父様であるジェームスがnoteに記事を投稿していることを知り、自己紹介をして少しやりとりをしたのがきっかけで文通や電話をするに至ります。先生とはたまに電話したり、メールを書いたりしてこの文通&電話は今もしていて3年ほど続いています。X(旧Twitter)は転職して間もなくやめてしまいましたがやめてから英語学習とは無縁の生活を続けて2〜3年後、またX(旧Twitter)に復帰をしました。古くから知っているユーザーもそれなりいたもののこちらからは積極的にフォローせずに少数精鋭(?)でやっています。

2つ目の出会いというか再会はXユーザーであり、はてなブログもやっているねこんさんです。

ねこんさんは前に僕がX(旧Twitter)をやっていた時からの知り合いで僕の語彙の師匠と言うとご本人が嫌がるので僕にやり直し英語を決意させてくれた人であり、英語の単語検定1級を持つ彼女は僕の憧れの存在です(本人は認めたくないでしょうけど(笑))。数年間、英語の学習から離れていた僕は英検準1級の語彙でさえ苦戦するようになっていました。「これではマズい」と思って僕はまず初心に戻って受験英語で必須のDUO3.0という本からやり直し英語を始めました。最初は英文法から勉強しようとしましたが中高と英文法の授業を免除された影響で訳が分からず途中で挫折。後々また英文法にトライすることを誓い、勉強を英単語学習にシフトし、それから紆余曲折な英語学習が始まりました。

さて、当noteでは僕が気が向いた時にその時思っていることを適当に書くことになりそうです(予定は未定)。うまく締めくくるのが難しいのでこの辺りで自己紹介の記事はおしまいとさせていただきます。

ここまでお読みいただきありがとうございました!

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