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寄付は成功した人間がやることなのか

僕はバスケが好きで、特に外に建てられたストリートコートでやるバスケが好きだ。

そこでは垣根なく、バスケがやりたければ誰でもプレーすることができる。普段の生活では決して出会うことのできない人達と出会えることが一番の魅力だ。

ある日、そこで知り合った人に言われたことがこのnoteを書くきっかけとなった。

おじさんとの出会い

その人はもう70近いおじさんで、仕事は引退し、老後を楽しんでいるようだった。バスケが大好きで、この歳でもストリートコートでプレーすることが生きがいだと。

いい歳の取り方だなー、と憧れを抱きつつ、話を聞いてみると、若いころは仕事一筋でウォール街でバリバリ働いていたらしい。(その時稼いでいた年収の額もとんでもない額だった。。)

で、その人に自分が寄付サービスを運営していることを話した際に言われたのが、このnoteのタイトルの「寄付は成功した後にやればいい」という言葉だった。

仕事で成功を収めた後に寄付すればいい

そのおじさんに言われた内容はこんなものだった。

「寄付はとても素晴らしいと思うよ。だけど、それは仕事で成功を収めた後にやればいいんじゃないのかな。Microsoftを創業したビル・ゲイツなんてすばらしいと思う。彼は世界の長者番付にのる資産を築きながら、そのほとんどを寄付に費やしているからね。」

まあ、、、言いたいことはわかるのだけど。。。なんか引っかかる、というか違和感があった。

寄付は「一部の力を持った人間」だけのものか

寄付をするために成功しようとビル・ゲイツを目指したとして、実際に成功できる人はどれだけの人なのだろう。おそらくそのほとんどが失敗に終わるだろうと思う(失敗とは言わなくとも、彼ほどの成功を収めた、と言える人はほんのごく一握りだと思う)

その考えだと、寄付するのはほんの一握りの人のみが行うことになる。それで果たして本当に良いのだろうか。

そもそも前も書いたけれど、寄付をするのに「評価されるか」とか「XXしたら寄付する」っていうような条件は必要なのだろうか

何かを前提とした寄付、という考え方自体にどうしても違和感を持ってしまう。

みんなができる範囲でやれば良いのでは

金額の大きさで寄付するか否か、を変えるのは違うと思う。

みんなが寄付できる範囲で寄付をすればよいのではないか。

例えば「年収100万円の人が行う1000円の寄付」と「年収1,000万円の人が行う10,000円の寄付」。どちらが尊い行動かといっても比較のしようがないと思う。

そのどちらもが、自らができる範囲で、課題意識を持ち、寄付を必要とする弱者と呼ばれる個人に思いを馳せて行動した結果なのであって、そのどちらも素晴らしい行為だと思う。

金額云々ではなく、支援したいという考えと行動が一致すること、首尾一貫した行動をとることこそが、最も価値があるのではないか。

力を持った少数の個人が「社会を変えてくれるのをただ指をくわえて待っている社会」なのではなく、小さい力だろうが多くの人が「課題意識をもって主体的に行動する社会」の方が健全だと思うし、それこそが唯一社会を変える方法だとも思う。

だからこそ、そんな多くの人たちに使ってもらえるような利用ハードルを下げた寄付サービスが必要だと考えている。

ストリートに垣根はない。
年齢や性別、人種や国籍で差別することはマナー違反だ。

この話をおじさんとした後、僕はこのなんとも言えない違和感をぶつけるがごとく、このおじさんに全力でアタックした。

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