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飛翔への希求 佐藤弓生『薄い街』(沖積舎)一首鑑賞

 東直子『春原さんのリコーダー』(本阿弥書店)の栞には、穂村弘による「無限喪失/永遠希求」という文章が寄せられている。ちくま文庫版には本文巻末に、穂村弘の単著では『短歌という爆弾』(小学館文庫)にも収められているこの文章は、東直子という歌人を論じるにあたって重要な文章のひとつだろう。何より「廃村を告げる活字に桃の皮ふれればにじみゆくばかり 来て」という一首を引いての鑑賞には非の打ち所がない。優れた鑑賞は創造性を帯び、一個の作品となる。

 穂村弘の「無限喪失/永遠希求」に触発されて、と言ってもいいだろう。思い立って数年前、私も一首鑑賞を試みたことがある。すぐにひとりで書くことに限界を感じて、知人を誘って交互に一首を選び、一首鑑賞の交換をしたこともある。半年ほど続いたところで私が体調を崩してしまったため、なかば一方的に終わらせてしまった。
 はじめて一首鑑賞を書こうと思ったとき、はじめて読んだ歌集から引こうと決めた。佐藤弓生『薄い街』(沖積舎)だ。

ハンカチをひらけばうすくひるがえり横切る夜を墜ちないで、鳥

佐藤弓生「パレード・この世をゆくものたち」

 はじめに浮かぶイメージは、奇術師の手から飛び立つ一羽の鳥だ。
 奇術師とよばれる彼らは、虚空にハンカチをひらめかすだけで、どこからともなく鳥を羽ばたかせる。それと同じように、この歌のなかでも鳥は最後の一字によってのみ姿をあらわす。上の句のなかでひらかれ、ひるがえるハンカチの隙間を縫うように飛び立つ鳥の姿が、読む者の裡にもあざやかに浮かびあがることだろう。

 頭と爪先に配された「ハンカチ」と「鳥」がかたちづくる一首全体の輪郭のなかで、一際つよく印象に残ったのは、結句の「鳥」に連なる「横切る夜を墜ちないで」だ。
 奇術師の手練は、見世物小屋から舞台まで、概して空を蔽われた場所、いわば密室でひそやかに披露される。もしこの鳥が、奇術師が虚空からとりだしたものであるなら、それは本物の夜を横切る(あるいは夜に飛び立つ)ことは決してないのだろう。それがどこか寂しくも感じさせる。

 上の句のハンカチから生じた空間のふくらみを感じさせるイメージと、ここまで述べた「奇術師の手から飛び立つ一羽の鳥」のイメージには、若干の相反がある。誰かがひらめかせるハンカチの動きや、そこからあらわれる鳥そのものは動的なイメージを伴いながらも、奇術師のとりだす鳥は飛び立ったところで、やがて彼らの手元に再び戻らなければならない不自由さをともなっているからだ。
「墜ちないで」と書かれていながら、この鳥は飛び立ったところでどこにも行けない。ましてや夜の中空を飛ぶこともなく、安全に、誰かの手に戻ることを運命づけられている。
 だからこそ、下の句の「横切る夜」には、舞台の袖や幕の陰を潜って幻想の空へどこまでも飛び立つ鳥のイメージが、それに続く「墜ちないで」という言葉には、飛翔に対する永遠の希求がこめられている。舞台が存在しない夢を見せる場であるなら、この読みはあながち的を外れているとも言えないのではないか。

 この歌が読む者を無性に惹きつけるのは、きっと「墜ちないで」という言葉のなかにあるのだろう。
「墜ちないで」は、この歌における「私」から発せられる、唯一と言っていい感情の発露だ。その感情は、切実ささえ帯びている。ところで、いきなり姿をあらわした「私」は、いったい何者だろうか。そんなことを考えながら上の句に戻ってみると、ひるがえ「し」ではなく「り」であることに気付く。この、たった一字の違いから、眼差しはハンカチをひるがえす誰かの手をはなれて、ひるがえるハンカチそのものへとずれが生まれている。
 本来なら「墜ちないで」と祈る「私」は、上の句に流れる時間もじっくりと、それこそ観客としてただ黙して、誰かの手元ではためくハンカチを注視していたのだろう。一見なにもない虚空からいったい何をだすのかと、膝にちいさな拳を置いて固唾を飲む子どものように。しかし、観客としてハンカチを見つめる「私」に反して、上の句にある「ひらけば」という動作はハンカチを持つ誰か、つまり奇術師の視点でもある。この「ひらけば」がもし観客の視点からであるなら、ハンカチをひらくのは観客である「私」ではなく奇術師であるのだから、正しくは「ハンカチがひらかれれば」となるはずだ。しかし、実際そうはなっていない。ここでは、上の句のなかでハンカチをひらく誰かと、それを見守る「私」、双方の視点が瞬きひとつの間に巧みに交差している。映画の一場面のようにカメラの焦点がずれていっているのだと解釈するほうが自然かもしれないが、私にはどうしても、ハンカチをひらく誰かも等しく「私」であるように思えてくる。それはひとりの「私」から分かたれたゆえの、ハンカチをひらく「私」と、それを見守る「私」ではないだろうか。

 奇術師は虚空から何か――それはボールであったりステッキであったり、そしてこの歌のように鳥であったり――をとりだす。そこには本当は種も仕掛けもある。しかし、と思ってしまう。

わからないかい、ジェイン。われわれのまわりには魔法がみちみちているってことが。

ポール・ギャリコ/井辻朱美訳『ほんものの魔法使』

 一見してなにもないところから何かをうみだす行為は、あらゆる創作に通じる。虚空から鳥が飛び立つ……その奇蹟が何者の手も離れて永遠であるようにという希求、それをつくりだす「私」=奇術師と、見守る「私」=観客の双方から希望が映されているからこそ、読む者を惹き付けるのだ。
 そして、その鳥が幻想の夜を飛び立つさまは、誰にも捕らえることのできない、自由そのものにほかならない。

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