完璧な短編小説と、あの夏 竹西寛子「鶴」


 完璧な短編小説があるとすれば、ということをたわむれに考えることがあります。完璧な短編小説があるとすれば、それはどのような小説でしょう。優れた短編小説、心に残っている短編小説はいくつも浮かびます。傑作と呼ぶに足る短編小説も。しかし、それらは完璧だったでしょうか。過不足なく、すべてが具わっていること。短編小説を完璧たらしめるものとは何か。
 何度も読み返す短編小説が、いくつかあります。幾度もの再読に耐えうる短編小説を完璧の一要素としてよいものか。そこには多分に私的な思い入れがこめられているでしょう。しかし「完璧な短編小説」について考える手掛かりにはなるかもしれません。
 好きで好きで堪らなくてそれを確認するかのように読み返したり、ざわざわした心を落ち着かせる精神安定剤のように読み返したり。読み返す動機は小説によって異なりますが、私にはいつも同じ日に読み返す小説があります。たとえば、竹西寛子の「鶴」は、そのようにして読み返す小説のひとつです。この世界に「完璧な短編小説」があるとすれば、そのうちの一編にはいるのではないか。私はそう思います。

       *

 竹西寛子の「鶴」は、鶴にまつわる四つの挿話から成り立っています。
 子どもの頃に父に連れられて乗った列車から見た、冬枯の田圃の一劃にあつまる汚れた鶴の姿。
 敗戦から時を経て帰郷した広島で見る、日清戦争の大本営の跡に佇む白鶴の幻影。
 寒い夜の空を鶴となって、森や沼の底を思わせる墓場を見下ろして汚れた羽で飛ぶ明け方の夢。
 幼い頃に箏曲を習いに通った検校のお宅に飾られていた、白鶴と松の老樹が描かれた一双の屏風。

 いまは彼岸花の秋、自分でも思いがけず八代でのことなどを言い出す気になったのは、どうやら明け方の夢にそそのかされてのことかと思われます。もっとも、それは机に頰をあてたままのうたたねの夢とも、さめてみた夢とも決め難いのですけれど、とりとめのないところは、眠りのうちなのでしょう。

竹西寛子「鶴」


 鶴にまつわるよしなしごとを綴る筆の運びは、柔らかくはあっても甘さはありません。ゆるやかな連想のようにして配された挿話は、語り手の言うように、まさに夢のなかのようにとりとめがないようにも見えます。けれども、読み返す度に、不思議と私のなかでは理論をもって構成された小説のような印象をもちました。
 作品を読み解くにあたって対立する二項を軸にする方法は、安易な図式化に陥るおそれがありますが、ここでは敢えて図式的に本作を分解してみましょう。完璧な短編小説は、そのような不粋な読解にも耐えうると信じています。

 まず、虚心のまま構成を思い返すと、第一と第四の挿話は、子どもの頃と更に幼い頃と、過去にねざした挿話であることに気付きます。第二の挿話は文中に「この夏」とあるように現在の出来事で、第三の挿話は現在時制で語られる「私」が見た夢である以上、夢とはいえ現在の性質を具えているとしてよいでしょう。ここで、四つの挿話は過去-現在の二項に分類できます。
 これはあまりに一般的な分類で、それ自体が何かを示しているとまでは言えません。では、もうひとつ思考を押し進めてみると、第一と第四、第二と第三の挿話にはもうひとつの二項が照応していることがぼんやりと浮かびあがってきます。過去-現在でいう現在の挿話にでてくるのは、どちらも現実には存在しない鶴なのです。かたや「私」が見た白鶴の幻影であり、かたや鶴となった夢のなかの「私」。「見る/見られる」の主体と客体が転倒しながらも、ここには幻想としての鶴が書かれています。一方で過去の挿話にでてくるのは、車窓から見た鶴も屏風のなかの鶴も、どちらも現実にそのものとして存在します。「過去/現在」という二項に、「現実/幻想」というもうひとつの二項が並置されているのです。過去と現実が、現在と幻想が照応している点は注意が必要です。本来であれば記憶が司る過去のほうに幻想と親和性があるところ、ここにはずれが生じているようにも感じます。
 四つの挿話があるにもかかわらず、ふたつの二項対立には、組み合わせにやや偏りがある点も見逃せません。この「ずれ」と「偏り」は、自然と別の二項があるのではないか、という気付きに至らせます。そこから、第二と第四の挿話に書かれる鶴が白鶴であることに着目するまでは、それほど難しいことではないでしょう。
 白鶴が美しい存在として書かれているのに対して、第一の挿話で「私」が見る鶴と第三の挿話で鶴となった「私」には――ここにも「見る/見られる」ことの転倒があります――どちらも汚れた鶴のイメージが重ね合わされています。「美しい/汚れた」というやや口語めいた分類になってしまいますが、これには美化された美しさと、そこなわれてしまった汚れという、状態の変化が含まれています。そうとしか書けないように、中心に語り手としての「私」がいるのかもしれません。
「美しい/汚れた」という二項と対照させるのであれば、恐らくは現実-幻想が適当でしょうか。この二軸を交差させると、一見とりとめのないように配置されていた四つの挿話は、第一(現実・汚れた)第二(幻想・美しい)第三(幻想・汚れた)第四(現実・美しい)と、見事に四つの象限に配置されていることが明らかになります。汚れた鶴は絶えず美しい鶴へと昇華され、その変化は第一と第四の挿話という大枠でも成り立っています。そして、この四つの象限に配置された挿話が過去と現在を往還しながら「鶴」という作品は構成されているのです。
 ここでひとつの疑問がでてくるかもしれません。どうして最後の話は現在の挿話になっていないのか。構成として四つの挿話は過去・現在・現在・過去となっており、鶴のイメージが美しいものへと昇華されていくのであれば、過去-現在という二項も過去から現在へと流れていくべき筈です。けれども、そうはなっていません。
 なぜなら、この小説に書かれているのは、慰霊であるからです。慰霊とは、現在を生きる人が過去を生きる(あるいは生きた)人に向けて行うものであり、本作における鶴に仮託されたものは単純な美化ではなく、汚された(あるいは損なわれた)ものを昇華する祈りもこめられています。それゆえに、唯一「私」が鶴となる第三の挿話にのみ濃密な死のイメージが纏っているのでしょう。第四の挿話は美しいイメージを宿したまま、過去を向いていなければいけない。ここには、小説や絵画という、虚構にしかできないかたちでの慰霊が書かれているのだから。

 過去と現在を往還しながら、現実と幻想さえかろやかに飛び越えて、美しく昇華されながら、ついには現実から虚構を突き抜けて飛翔する一羽の鶴。
 だから、私は同じ日に竹西寛子の「鶴」という短編小説を読み返します。あの日、偶然にも体調を崩して学校に行けず、爆心地から離れた自宅にいたがために助かった女性が書いた、その人にしか書きえない慰霊をめぐる小説を。

       *

うつむいて煎豆を拾ってゐるすきに
世界が一瞬にして變ることがあるのだ

若い娘ふたりが
満員電車で工場に向ってゐた
戦争の最後の夏だった
雑嚢に入れておいた罐から
煎豆が床にこぼれてしまった
その日の辨當代りだったのだらうか
娘たちは腰をかがめて
豆を探しつづけたさうだが
やがて頭をもたげたとき見たのは
《乗客も電車も窓外の風景も》焼けただれ
《無傷なのは二人だけだった》といふのだ
廣島で女學生だったひとが書いてゐる

われらが〈生〉にとって
つねに〈暗喩〉といふものは
一瞬だけずれる閃光に似てゐるが
もし地獄とやらにも
微笑があるとするならば
このやうなをかしさに違ひない。

*引用は佐藤祝子詩集『過ぎてゆく』から。

安西均「暗喩の夏」


 そして、私は「鶴」という短編小説を今日もまた読み返します。あの夏を忘れないように。

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