見出し画像

「学び」

「学び」とは能動的かつ主体的なものである。

早速ではあるが、私の過去の話をさせていただきたい。
私の小・中学生の時と言えば、勉強は大嫌いで、毎日外で走り回っていた。
勉強を得意だと思ったことはないし、やらなくてもいいならしたくなかった。
高校に入ってからも同じだ。一応、自称進学校くらいの高校に推薦で入った。
しかし、実際は部活のために学校に通っていたようなものだ。
授業はつまらなく、午前中の4時間は弁当を楽しみに耐え忍び、午後の2時間は部活のことを考えながら時間が過ぎるのを待っていた。

「なぜ学ぶのか」「なぜ学校に通っているのか」当時の自分はわからなかっただろう。というかそれすらも考えていなかっただろう。

世間の常識に自分をあてはめ、
「学校にはいかなければならない」「勉強はしなければならない」という知らず知らずのうちに築かれた固定概念があったから学校には通った。そして勉強しているフリをしていた。

宿題をしないと怒られるからという理由で、毎朝授業前に友達の宿題を写し、試験前には徹夜して一夜漬けでなんとか赤点を回避した。

これには何の意味があったのだろうか?
当時も今もわからない。
ついた力と言えば「忍耐力」だろうか。

当時の私は、勉強を”やらされていた”。 
やらされているのだから当然楽しいはずがない。
ただただ目の前のことに追われ、耐え、時間が過ぎるのを待つ日々だった。


中学生の時の忘れられないエピソードがある。
私が通っていた中学校では、朝読書の時間があった。
1限前の時間に持参した本を読む時間があったのだ。
決して真面目ではなかった当時の私は、わざわざ本を買って持っていくわけもなく、適当に教科書を開いて本の代わりにし、読んでいるふりをした。
すると、ある日、学年主任に呼び出され、本を持参していないこと、本を読んでいないことを怒られた。今でも忘れていないので、怒られる理由に納得いかなかったのだろう。

その後は家にあった本を適当に選んで持っていき、読んでいるふりをしていた。今振り返ってみると、あの当時の私は誰に何と言われようと読まなかったと思う。

興味関心事がサッカーしかなかった当時の私には、わざわざ本を買いに行き、読むということのハードルが非常に高かったのだ。(サッカー雑誌でも可であれば喜んで読んでいただろうが笑)

夏休みの課題の読書感想文も、パラパラ読みをして言葉を引っ張り、同じことを繰り返し書いて分量を増やしていた。読書感想文は大嫌いな宿題の1つで、毎回夏休み最終日の3日前くらいから取り掛かった。

ここまでのエピソードで私がどれだけ勉強嫌いで、学習意欲が低かったのかわかっていただけただろう。
勉強は大嫌い。学ぶ意欲もない。こんな人間だったのだ。


そんな私が今では、
年間40冊以上の本を読み、
3年間で100本以上のnote記事を書いている。
そして、今では趣味の一つに読書が入るほどだ。

あれ???勉強嫌いで学ぶ意欲がない少年だったはずが、、、
強制されても本を読まなかったはずなのに、、、

なぜ??

それは視野が広がったから。

昔の私は、非常に狭い世界で生きていた。視点は、目の前の人と自分だけ。
それが、社会全体に広がったのだ。
この国の仕組み、この世界の現実を知った。知れば知るほど理想と現実のギャップを感じ、絶望することも多々あった。
しかし、それ以上に私の中で生まれた感情は、
「おもしろい」「ワクワク」だった。

社会はこんな風に動いていたんだ。
大人は世界をこんな風にみているんだ。
日本の現実も世界の現実も思っていたのと違う。

昨日とは違う世界の見え方ができる今日が、昨日以上におもしろく、ものの見方が変わっていくことに快楽を覚えた。
幼少期の自分に戻ったように、好奇心がくすぐられ、本が止まらなくなった。
日本の現状を知り、毎日ニュースを見るようになった。新聞を読んだりもした。

そこから、自分の意見を持てるようになり、それっぽい話ができるようになり、年上の方とも話せるようになった。

視野が日に日に広がり、暗闇が少しずつライトで照らされているような感覚にドはまりしたのだ。

もっと知りたい、もっと学びたい。

こうして知的好奇心がくすぐられ、様々なジャンルの本を読み漁った。
心理学、コーチング、幸福論、社会学、リーダー論、教育、、、

そして、知れば知るほどアウトプットしたくなるのだ。
今日はこんなことを知った、こんな発見があった、社会をこんな風に考えてみた。これをnoteに書いて投稿し続けた。
50日連続で投稿したりもした。
自分の新しい発見やものの見方を第三者に見てもらえるのが凄く楽しかった。
今日は何を書こうかな。そんなことを考えながら散歩していると新たな発見があるのだ。昨日は気づかなかったことに気づくのだ。

”やらされる”勉強は、いつしか”やりたい”に変わっていた。
”苦痛”の読書が、”楽しい”読書に変わっていた。

僕の価値観が、「学ぶことは楽しい」に変わったのだ。

楽しからという理由で私は本を読んだ。すると知識も読解力もついた。
楽しいからという理由でnoteを書いた。すると文章力も語彙力もついた。

学びの本質はこれだ!!

「おもしろい」
「楽しい」
「ワクワク」

”やりたい”を作り出せるのはこの感情だ。
この感情の先に「学び」がある。


学びは、”やらされる”ものではない。
中学生の時の読書することを強要されたって頭に入ってくることなんてない。

学びはもっと楽しくて能動的で主体的なもの
学びたいと思った時に、興味がわいた時に学べばいい。
学びはもっと自由にあるべき。

大人は子どもの”やりたい”を引き出すことが最も大事なことだと思う。

強制させたり、やらなければ怒るというのは、学びの本質からずれている。
楽しくて、もっと知りたいと思えば子どもは勝手に学ぶ。
この楽しさや、もっと知りたいという感情を引き出すことこそ大人の役割ではないだろうか。

私もサッカーの指導者として、
「学びたい」「うまくなりたい」「勝ちたい」「強くなりたい」
これらを引き出せる指導者を目指している。

「もっと練習しろ」「勝ちたい気持ちが伝わらない」
という指導現場でよく聞く典型的な言葉ではなく、
私自身が、学ぶことが楽しいと思えたように、
”やりたい”、”もっとうまくなりたい”のきっかけを作り出していきたい。
選手の内側にある想いをつくりだせる指導者になりたい。それと同時に選手の想いを叶えられる指導者になりたい。いや、なる


中学生の自分へ(8年前の自分へ)

君は学校に本を持っていかず、読書をしなかったことで先生に怒られたらしいな。
しかし、8年後の君は本が大好きで、今では3段ある本棚に入り切らず困っているぞ。
君は読書感想文が大嫌いで、2000字の文を書くために同じことを繰り返し書いて文を膨らませているらしいな。
今では3000字を超える文章を自ら書いているぞ。
これから先4年くらいはやりたくない勉強をするかもしれんな。最低限はやった方がいい。
でももっと大事なことは、その勉強ではない。
自分のやりたいことを精一杯、全力で取り組め。

8年後は最高に幸せが待っている。
今を大切に生きろ。

8年後の自分より。




ここからは、
書く予定のなかった内容だが、タイムリーで書いた文章と通ずることが私の指導現場であったので共有したい。
私は、中学生のクラブチームでサッカーを指導している。
その練習での話になる。

私は、チームに3つあるカテゴリーのうち1つのカテゴリーをメインで指導させてもらっている。
指導しているカテゴリーは中3の子がメインであり、最近夏休みに入った。
夏期講習などもあり、受験生は文武両道で頑張っている。

そんなチームの3年生に2人怪我人がおり、別メニューを行っている。
私は、別メニューで何をするかの指示はあえて出さなかった。

すると、1人の子は、チームのボール拾いをやっていた。
もう1人の子は、30分ランニングしていた。
そして最後は、2人で体幹トレーニング・筋トレをしていたのだ。

私は、この2人から再度、学びの本質を学ばせてもらった。

私は指示を出していない。
彼らは自分たちで考えて行動したのだ。
1人目の子は、チームが勝つために、チームにプラスになるように球拾いをしてくれたのだ。
もう1人の子は、自分のレベルアップのために、ランニングを選択した。
そして最後は、強くなるために、
体幹や筋トレを行ったのだろう。

彼らは、なにも強制されていない。
しかし、チームが勝つために、ケガした中でもレベルアップするために行動した。

これらは、"やりたい”、”勝ちたい”、”うまくなりたい”、”強くなりたい”が根本にあるのだと思った。

能動的かつ主体的。
まさに学びの本質と同じである。

私が引き出したいのはまさにこれであり、嬉しかった事例だ。

学びの本質を改めて考えるきっかけをくれた選手には感謝だ。
そして、この共有により3500字に到達したことにも感謝する。











この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?