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ひたちの桜の名所
日立駅から共楽館界隈を中心に、ひたちのさくらの名所をまとめました。
さくら祭りのときに角記念市民ギャラリーで配布する「ひたちさくら巡りマップ」を補うものとして作成したので、距離と時間は角記念市民ギャラリーからのものとなっています。
日立駅から角記念市民ギャラリーまでは、1km弱、約15分です。
※「ひたちさくら巡りマップ」は、以下からダウンロードできます。
https://www.dropbox
おすすめコース:実際に歩いてみよう!
共楽館から大煙突ビューポイントへ
共楽館(現・日立武道館)は、常磐自動車道日立中央IC手前にある、大きな赤い屋根が印象的な建物です。日立鉱山で働く労働者と家族の娯楽施設として歌舞伎座を手本に建てられました。芝居小屋としてだけではなく、映画が上映されたり、相撲の巡業が行われたりと、鉱山で働く人だけでなく、日立市民の憩いの場として賑わっていました。
共楽館を出発点に共楽館周辺の旧鉱山町の雰囲気の残
【コラム】 日立鉱山は都市鉱山へ
日立鉱山は、大煙突倒壊後は景観から見ると、小坂、足尾、別子のような、鉱山のまちというイメージはほとんどありません。しかし、まだ大煙突は生きています。
日本鉱業は昭和51年(1976)、銅の溶錬を佐賀関製錬所に集中したため、明治41年(1908)から続けられた日立での銅の溶錬に終止符が打たれました。
昭和53年(1978)には、産業廃棄物から有価金属を回収し、残りを無害化して再資源化するリサイク
【コラム】 日立鉱山の人づくりと教育
久原房之助は小坂時代から一山一家の理想鉱山を目指し、思想善導、人道主義による従業員養成を進め、日立鉱山創業に際しても、この方針をもとに労働者教育を行いました。
当時の鉱山の労働者は、問題を抱えるものが多く、「赤沢がえりはおっかない」という中で、厳格な服務規則と福利厚生策で従業員の生活改善や合理化を進め、人材養成と文化水準の向上を図りました。
地元にも学校支援、育英資金等の助成を行い、信頼関係を
大煙突とさくらのDNAが現在につながる
大煙突は日立のシンボル
今から100年以上も前、近代鉱工業発展の時代に、「人と自然と産業の共生」のため、世界的にも先進的な煙害防止の取り組みがここのまちでありました。
155・7mという世界一の高さを誇る大煙突は、先人の志の高さと行動により、山の上に悠然と雲を突き抜けて建てられました。
ふるさと日立のシンボルとして、どれだけ歳月を経ても、3分の1に折れてしまっても、多くの人がこの煙突に寄せる思
【コラム】 久原房之助のその後の活動
大煙突が完成した大正4年(1913)以降、久原房之助は大分県佐賀関製錬所、朝鮮鎮南浦に大規模製錬所を建設、どちらも日立の大煙突を越す世界一の大煙突を建てています。
続けて、国内各地の鉱山を次々と買収し、30以上の鉱山を開設、朝鮮の甲山鉱山やフィリピン、ボルネオ等東南アジアの鉱山開発を進めました。
大正6年(1917)には、山口県の周南地区に、イギリスの大工業都市マンチェスターを目指した下松大工
【コラム】 日立風流物
昔は宮田風流物と言われ、元禄8年(1695)徳川光圀の命により、神峰神社が宮田、助川、会瀬3村の鎮守になったときに、氏子たちが造った山車を祭礼に繰り出したのが始まりと言われています。この山車に人形芝居を組み合わせるようになったのは、享保年間からとのこと。
日立風流物の特徴をなすからくり人形は、人形浄瑠璃の影響を受け、村人たちが農作業のかたわら工夫を重ね、人形作りの技術を身につけました。
4町(
戦災を乗り越え工業都市へ
工業都市日立と戦災
日立鉱山や日立製作所の発展により、日立市は人口も増え、工業都市として次第に繁栄していきました。しかし、第一次世界大戦後の世界恐慌や、断続的に起こる好不況の波により、その都度雇用が影響を受け、人口が増減しました。
昭和10年(1935)に満州事変が起こり軍需景気が高まると、鉱工業都市日立は急速に好景気へと転換し、やがて太平洋戦争が始まると、軍需工業都市として、生産に追われるよ
【コラム】 オオシマザクラとソメイヨシノ
日立鉱山でオオシマザクラが最初に植樹されたのは明治41年(1908)で、試験的に住宅地や街路樹として植えられたことに始まります。
地所係の鏑木徳二、山村次一が煙害で荒廃する日立鉱山の山々へ植林する耐煙木として、伊豆大島の火山噴煙地帯で、硫黄分の多い土地に生息するオオシマザクラの苗木や種子を取り寄せ植林したといわれています。
オオシマザクラは、伊豆半島や房総半島に多く分布し、薪炭用に栽培され、餅