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#71 木漏れ日についての愛を語る

 バスにゴトゴト揺られながら、ぼんやりと窓の外を見る。冬の朝日は、熟したミカンに似ていびつな形をしていて、仄かにともるオレンジ色の光がまぶしかった。寒さで動かなくなっていた指の先が、少しずつ弛緩していく。右手にはコーンポタージュの缶、左手にはコッペパン。ああ、暖かいなぁと思っている間に微睡んで眠ってしまう、その時間が私的にはとても好き、でも気がついたらもうすっかり春なんだね。

 いやなざらめきが宙を舞っていて、ほんの少しトゲトゲした気持ちになる。よるべもなく、津々浦々と日常は過ぎていく。最近はすっかり春らしくなって過ごしやすいけど、なにせ花粉だの黄砂だの舞いに舞ってあたりを散らしていくのがなんとも小憎たらしい。もう少し自重しておくれよ。

 ようやくひと段落したなぁと思っていたら、立て続けにプライベートの予定が入り、私はちょっとホクホクしてました。ようやくみんなマスク取るのかなと思いきや、世間ではいまだにたくさんの人たちがマスクつけていて、でもきっとあと数年もしたら、うわーお、みーんなマスクつけてた時代あったねぇ!なんて言って、懐かしむ日が来るのかしら。その日が楽しみね。

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 すっかり東京の街は以前のような活気さを取り戻していて、もうね、濁流のように人が流れていました。そしてその流れの中に私は取り込まれて、都会の街をうろうろしています。お花見したりお好み焼き食べたり焼肉食べたり、カレー食べたり(食べてばっかりじゃーん!)。美味しいご飯をつつきながら人と話すことで見えてくるものがたくさんあるな、って思う今日この頃です。きちんと言葉を交わさないとわからないことってたくさんある。

 最近は文章書きたいなーと思う気持ちはあったのですが、人と会う忙しさにかまけて結局なぁなぁになっていて、これじゃいかんと思って、またパチパチとキーボードを叩いています。今年は、もう禊は終わった! とばかりに旅行の計画を立てました。梅雨の時期には高松、夏の終わりにはベトナムのハノイ。これが安くとれて、久しぶりにやっと、息を吸えた気がします。出張でも海外行けるかも、ワクワク。

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 前置き長くなりましたが、すっかり愛を語るシリーズも、気がつけば前回から時間が経っていてひとまずちょっとリハビリするところから始めたいと思っています。きっと文章も水物だしある意味技術職? みたいなところもあるので、少しずつ書いて習慣を取り戻していこう。

 昔毎日文字を連ねていた頃、私は何を考えていたのか今となっては思い出せないです。数週間前は、ご多聞にもれず私も相当ミーハーなので、仕事しながら家で「オータニさーん!」と叫んでいました。あれは本当に久しく見ないリアリティドラマだった。田中さんと斎藤さん(甲子園です)の試合ぶりくらいに血が沸き立ちました。

 同じタイミングで久しぶりにあった友人が、結婚しましたー! というのを聞いて「〇〇ちゃーん!」と叫びたくなりました。嬉しいやら悲しいやら寂しいやら。心の底から喜びでいっぱいなのに、ほんの少し(いやかなり)哀しい気持ちになってしまうのは、我ながら嫌な人間です。でもきっと、これも私が人間だという証だよね。

 朝目覚めて、歯を磨いて、コーヒー豆をゴリゴリ削って、お湯を沸かして、植物たちに水をやる。決まりきったルーティーンに飽き飽きしながらも、心のどこかでほっとしている自分もいる。慣れって怖いな、って思いながらも窓から差し込む柔らかい木漏れ日に救われたような気持ちになるんですよね。太陽の光って、尊い。

 久しぶりに先日、カメラがきっかけで出会った子たちと一緒に写真を撮りに行って、その日がとても快晴なことにみんなではしゃいで。どこかにいい光ないかな、なんて言ってその粒を集めることが楽しくて。というより、単純に子供みたいに走り回ってた。もう気がつけば私もすっかりいい年した大人になってしまったけれど、童心の心を忘れたくないと思うし、きっとそれは木漏れ日を探すのと一緒なのかな。

 たぶん、これは今もしかすると私が満たされている証拠なのかもしれない。でも一方で、最近気が付いたのは多少満たされていない気持ちのままの方が、私の場合筆が走る。なにくそ、と思いながら頭の中の考えを文字にすることで少しずつ頭は冴え、自分の中の何かが消化されていく気がする。そしてこの「何か」というのを、漠然とした形ではなくて、きちんと表すことが今の私の課題だろう。

 私とみんな同じように生きているはずなのに、彼らは確かに自分の存在というものをしっかりともっている、それが時には羨ましくもなる。羨ましくなるけど、そもそもそうした明日を生きる人たちに出会ってこうして今も繋がることができていること自体に、感謝しよう、そう思えたのはふと木々から漏れ出た木漏れ日のおかげかもしれない、なんてセンチメンタルなことを考えた。今も昔も、どこか夢見がちである。

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 さてさて、頭の中でぐるぐる複雑なことを考えてしまいそうな折、コノエミズさんの記事を拝読して、どこかスッキリした気持ちになりました。改めて今回企画に参加していただいてありがとうございます。また、ご紹介するのが遅くなってしまってごめんなさい。(投稿日前後してのご紹介となり恐縮です)

 自己肯定感を上げるって、難しいですよね。私はというと、昔は自己肯定感の塊みたいなところがあったんですけど(これはひとえに私の意思を尊重してくれた周りの人たちのおかげみたいなところがあります)、歳を重ねるにつれて人と私は違う! と思いながらも比べてしまっている自分がいて、卑屈になりそうになった時があります。

 そうした底から掬い上げてくれたのは、また別の知人でもあり環境でもあり本でもあり。改めてハッと気付かされるのは、結局他人は私の鏡でしかなくて(これもどこかで聞いたことある気がするけど)、自分が与えることによって、相手も返してくれる、だからまずは相手を大切にするということから始めようと改めて考えさせられました。素敵な愛を語っていただき感謝感謝です!

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 思えば、愛を語り始めて丸一年になります。本当は半年くらいの企画を考えていたのに随分遠いところまで来てしまいました。一年で私は少しは変われたのかな、でもいろんな人の存在感の確かさを感じられたのはそうだし、この企画を通じてみんな愛に関しての定義が違うことがとても新鮮で、学んだことが両手両足で数えきれない程あります。それだけ、愛って普遍的なものの割に一生解けない命題なのかもしれないですね。もう少し、シリーズは続きます。ゆるりとお付き合いいただければ嬉しいです。


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