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泳ぎたいのに泳げない

私は運動神経が悪い。
姉も従姉妹も運動神経が悪い。

 
生まれ持った運動神経の悪さというやつだ。
遺伝をこんなところで感じる。
 
ドッジボールは早々と当てられた。
チームの足手まといのようで嫌だった。
持久走はブービー賞だった。
先に走り終わっている人の笑顔や拍手が逆に惨めで、汗だらけになって、顔を赤らめて、必死に恥ずかしさに耐えた。

運動会はいつもビリだった。
各学年1クラスしかない小学校だからメンバーは変わらない。
家族がわざわざ仕事を休んで応援に来てくれているのに、写真を撮ってくれるのに、私はかっこいいところを一つも見せられないのが申し訳ない。
創作ダンスは創作ダンスで、私は軽やかな動きではなかった。

 
母親は運動神経が良かった。
だけど父親は運動神経が悪かった。
母に似たら…と、どれだけ思ったか分からないし
父は父で娘に申し訳ない…と、どれだけ思ったか分からない。

「運動はどんなに頑張っても、できないものはできない。でも勉強は違う。やればやるほど必ず力になる。」

父はそう私を慰めていた。
それは父が自分に言い聞かせて、ここまで生きて来たのだろう。

私は運動においては主役にはなれない。
勉強を頑張ろう。

そう、小学校低学年から思っていた。

  
 
 
そんな私だが、実は一つだけ得意な運動があった。

水泳である。

得意といっても、生まれ持った才能では決してない。
私は毎週土曜日の午後、水泳教室に通い出したのだ。私が小学校2年生の春だった。

 
 
 
私の小学校では毎年、水泳記録大会があった。

各学年ごとにタイムを競うもので、クラス代表者はリレーに出ることもできる。
また、上級生希望者は各泳ぎ方別にタイムを競うこともできた。

私は小学校二年生の時に5位で入賞できた。
水泳記録大会は6位までが表彰されるのである。

今まで運動という運動で、悪目立ちすることはあっても、入賞することは一度もなかった。
親は喜んだし、私もとても嬉しかった。

私の武器は水泳だ。
そう強く思った。

 
かといって、私は飲み込みが早かった方では決してない。
水泳教室では進級テストのたびに落ちた。
周りの人が順調に進級していく中、何度も落ちるのは決していい気分ではない。

せめてもの救いは、同じ小学校の人が一人もいないことだった。
私の水泳教室は週に一回で、曜日や時間帯が選べた。
同じ小学校の子は、たまたま、私の時間帯にいなかった。
周りには他の小学校の子しかいない。

 
学校では、水泳が得意な子とみなされた。
水泳教室の時は、なかなか進級できない落ちこぼれだった。

 
学校の人は知らない。
私が毎週のように屈辱を味わっていたことは知らない。 
それでも私が水泳教室に通えたのは、私と同じように運動神経が悪い姉も、同じように進級に手こずっていたことと
水泳教室終わりに買ってもらえるアイスだった。
近所のお店では売っていない、水泳教室にしか売っていないアイス。

これが、美味しいのなんの!

私は特にチョコ味を好んで食べた。
全身運動の後に食べるアイスは最高だった。

 
 
私は小学生の頃、いくつか親に言われて習い事をしていたが、その際に親と約束していたことがある。
各習い事ごとに、目標が設定され、それが達成されるまではやめてはいけないのだ。
逆に、「目標を達成してからも継続したい場合は、月謝は出す。」と親が言ってくれた。
目標があり、選択肢が用意されているのは、私にとってはありがたかった。

水泳教室の目標は

「クロール、背泳ぎ、平泳ぎまでをマスターする」

とのこと。
私の水泳教室はランクに合わせて、水泳帽子の色が変わった。
最初はピンク(幼稚園クラス)で始まり、オレンジ(小学校低学年クラス)、青(クロール)、白(背泳ぎ)、緑(平泳ぎ)と変わっていく。

その先はバタフライコースだった。
バタフライコースは集団練習から個人強化練習に切り替わり、タイムを競う上級者向けだ。
ピンク~緑は合同で行っていた上、曜日や時間帯もバラバラだったが(振替制度もあったので、別曜日別時間帯に行くこともあった)
バタフライコースは曜日や時間帯が指定されて行われていたみたいだ。

だから両親が、「平泳ぎまでで終わり。」と目標を設けたのも分かる気がする。

 
 
小学校2~3年時は進級に手こずっていたが
その後は比較的順調に進級をしていった。
水泳の先生はシフト制だったらしく、毎週どの先生が指導に入るかは当日に知った。
先生ごとに指導はまた異なるし、おそらく相性の良い悪いもあったろうが、私はメキメキと力をつけた。

水泳教室で他の小学校の子と友達になり、のちに宿泊学習(他校生同士でグループを作り、塩作り体験などを泊まりで行う)で、たまたま同室になり、更に仲を深めたりと
学校や家とはまた違う楽しみを感じた。


   
毎年、年に一回の水泳記録大会では入賞し続けたし
姉や同級生よりも私はタイムが速かった。
それは確かに私の自信に繋がった。
運動ができなくても水泳があるからと、水泳が私に光を与えたのだ。

あれは小学校6年生、最後の水泳記録大会だ。

私はなんと、クラス代表でリレー選手に選ばれた。
リレー選手に選ばれるのは女子は僅か二名。
一人は、クラスで一番水泳が得意な子で
私含め残りの上位の女子は僅差のタイムだった。

だからこそ私は選ばれた時が嬉しくて嬉しくてたまらなかった。
持久走がブービー賞の私が、水泳では代表選手なんて。

小学校最後の年だから、と私は全員参加のタイムを競う競技の他に、種目別のタイム競技にも出ることにした。こちらは6年生しか出られない。
もう水泳教室では平泳ぎまでをマスターし、水泳教室はやめていた。
バタフライ以外ならどんな泳ぎでも、他の人と戦える自信があったのだ。 
 
 
 
そしていよいよ水泳記録大会の日、私は水着に着替える前にトイレに行き、そして愕然としてしまう。

生理が始まったのだ。

私は赤い血を見ながら、顔面蒼白してしまった。
予定日は今日じゃなかったのに。
あと少しで水泳記録大会が始まるというのに、なんでこのタイミングで、なんで…。
水泳記録大会に燃えていた気持ちが、悲しいぐらいに沈んでいった。

終わった、と思った。

私は担任の先生に「生理になってしまいました。リレー選手、他の子に頼んでください……。」と小さな声で伝えた。
かろうじて、伝えられた。
自分で事実を言いながら、その現実に打ちのめされた。
担任の先生は男性だ。男性の先生にこれを告げなければいけないことだけで、顔から火が出そうなくらい恥ずかしかった。

周りには、まだ生理が始まっている子はいなかった。
そして私も、周りには誰にも生理が始まっているとは告げていなかった。

水泳記録大会に張り切っていたはずの私が、大会直前に辞退するのは異常だ。
何人かに理由を聞かれるのが辛かった。
みんなが水着に着替える中、私は体操着に着替える。
ブルマという、およそ生理向きではないスタイルで、私は体育座りをしながらじっと周りを見ていた。

 
みんなは実に楽しそうに見えた。
準備運動さえ、私には参加資格がない。
合図に従い、思い思いにみんなが泳いでいく。
予定通りに水泳記録大会が着々と進んでいく。

私も泳ぎたい。私も今すぐ泳ぎたい。
なんでこんな時に生理が。
なんでこんな時に生理が。

女であることを、人生で一番悔やんだことがこの日だった。

 
私は何も言えず、ギュッと唇を噛みしめた。
涙がポタポタと溢れ出す。
みんなが楽しそうに笑ってはしゃぐ中、私はプールサイドの隅で一人こっそり泣いた。

泳ぎたかったけど、泳げなかった。

 
私の小学校最後の水泳記録大会は、こうして幕を閉じた。

 
  
 
 
高校時代になると、生理と嘘をついて体育を休む子がいた。
水着姿を見せたくない、水泳が嫌い等理由は様々だった。
私からしたら、あり得ない理由だった。
その生理じゃない体を、小6の私に貸してあげたいと思った。

中学校も高校も水泳記録大会はなかった。
タイムを測ることさえなかった。

私はそれが少し物足りなかった。

 
 
のちに、生理で体育を休むことで先生からのパワハラやセクハラがあった、というニュースがあったが
女子の生理問題とプールの授業の関連はなかなかに難しい。

「タンポン使えばいいじゃん。」
「ピル使えばいいじゃん。」

そう軽々しく言われた時は、分かち合えない大きな壁を感じた。

 
男と女の違いは、お互いに分かりきることはできない。
生理は個人差があるから、一概には言えない。
そして確かに、嘘をついて授業をサボる人も中にはいるのだ。

 
 
 
 
大人になり、私は時々一人で泳ぎに行くようになった。
全盛期の頃には100m泳げたはずが、久しぶりに泳ぐと、25mさえも息が上がる。

こんなに衰えるとは。

小まめに泳ぎに行くと、段々と体が勘を取り戻し、100m泳げるまでに戻った。
習慣とは大切だ。

仕事が忙しく、プールに行けない期間が延びるほど、また息がすぐに上がるようになる。

 
 
「プールに行きたい。」
「海に行きたい。」
「また学校の時のように泳ぎたい。」 

施設で働いていた時、身体障がい者の方々が口にしていた。
特別支援学校では、障がい者向けのプールがあったようだが、大人になるとそういったプールはなかなかない。
バリアフリーの海も、まず見つからない。

 

障がい児の施設でボランティアをした時、一緒にプールに行ったことがある。
彼女らは、身体障がい者ではなかった。
だから職員やボランティアがいれば、家族がいれば、こうしてプールにでも遊びに行ける。

でも。

私に必死に「プールに行きたい。」と訴える利用者の人達は車椅子で、また施設と学校の様々な違いもあり、私はそれを叶えてあげられなかった。

 
 
仕事の後、一人プールで泳ぎながら、私は世界が狭かったと思う。

小学6年生の時に水泳記録大会に出られなかったことがなんだというのだろう。

大人になった私は、自分の好きなタイミングで、好きなだけ泳げる。
だけど利用者の人達は大人になったことで、プールの設備や授業を失い、泳ぐ機会を失ったのだ。

子ども時代より大人として生きる時代の方がもっともっと長いのに。

 
数年前、車椅子のまま海辺に行ける取り組みを、他県が行っていたニュースを見た。
私はそれをじっと見た。
いいなぁと思った。
遠いから行けないけど、利用者の方々と一緒にこの海に行けたら、きっとみんな楽しんでくれて、笑顔なんだろうなぁと夢を見た。

  

 
 
 
6月からついにプールの営業が再開した。
久しぶりに一人泳ぎに行こう。

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