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価値観の異なる同世代との交流が、学生を一番成長させるという話

2013年からの教員生活も11年目が終わろうとしている。なんという矢の如き光陰か。
そんな時の流れの中で、こんな仕事をしていると嫌で考えざるを得ないのが、「学生の成長」という課題である。

似たようなことを何度も書いているかもしれない。いつものことながらタイトル落ちなのだが、教員を10年以上やってきて一番効果があると確信しているのは「他者との交流」である。それも、異なる価値観を有する同世代の他者。一番身近で出会う可能性が高いのは、他大学に通う学生である。もちろん、エビデンスは?と問われれば、「あたし個人の経験」ということであり、それは「それってあなたの感想ですよね?」と突っ込まれてしまえば、「そうですね」という話になって、「はい論破」と終わってしまうだろう。これはあくまで個人的な経験論であるからして、一般化はできない。まぁそうは言いつつ何らかの理論によってそれをサポートすることはできるような気がする。教育心理学みたいな分野でそんな研究を見たことがあるような気もする。ただ残念ながらそういうエビデンスっぽいものにすぐアクセスできる状況でもないので、ここでは経験論だけを語ろう。

おそらく一番議論になるのは、「成長」の定義だ。何を以て「学生が成長した」とみなすのか。これにはみんな何かしら一家言ありそうで、そこのところで一致できなければどんな話も意味のあるものにはならない。というわけで、ここでの「成長」の定義について触れておこうと思う。

ここでは、「学生の成長」とは「学生もしくは学生の集団が自発性を発揮するようになること」とする。この定義はいささか奇妙だ。なぜなら、成長とは時間的な概念であり、去年よりも今年、今年よりも来年、、、というふうに時間が流れる中で変化が連続的に起こっていくイメージが伴う。

それに対して、「学生もしくは学生の集団が自発性を発揮するようになること」というのは非連続的な変化を想像させる。「きっかけ」のようなものだ。したがって、成長ということばがもつ通常のイメージと、ここでの「成長」ということばには少しズレがあるように思うが、それで構わない。

学生自身が持っている「成長」のイメージも、だいたいが非連続な変化である。「あれができるようになった、これができるようなった」みたいな。そして、そういう変化のおおもとを辿ると、自発性を発揮し始めた時のことを回顧するのである。大学で学生と関わっているとそういう場面があまりに多いので、「学生やその集団に変化をもたらしたきっかけ」そのものを成長と結びつけて考えてしまう。そういうわけで、上述のような成長の定義となっているわけだ。

さて。安心して欲しい。いやいや、20歳も過ぎたいい歳の学生が自主性を獲得するのが成長なの?レベル低過ぎじゃない?というあなたの声はすでに僕の耳に届いている。

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