見出し画像

死にたいときに読む本|第1話|白と黒の感情に苦しんでいるあなたへ


 友人Pが死んでからもうすぐ7年という時間が経過しようとしている。Pのカラダとココロは風が強い日に歌とともに大きな橋の上から河に向かって落っこちた。Pは自ら命をたったのか、事故だったのかいまだに死因はわからない。

 ぼくはいまゴッホについて書かれた本や、ゴッホの弟テオや、ゴッホとゴーギャンの弟子であるベルナールに宛てた手紙を読み耽っている。ゴッホを生涯を残された言葉や少ない手がかりから推測すればするほど、Pはゴッホに似ている。Pはミュージシャンをしていて、いつも音楽に没頭できる環境を探して彷徨い続けていた。自分の表現で生計をたてることを何よりも望み、その願望はいつも打ち砕かれていた。人間関係やストレスが爆発すると新天地を求めて逃げるように旅に出る。人との衝突も絶えなかった。どこにも混ざりきれずに孤立していて、そのことの苛立ちや悲しみの感情を、作品に昇華することで何とか生きていた気がする。ゴッホもPも悲しみや美しいものといった強い刺激に魅せられで感情的に創作をする人だったと思う。彼らからは自分が信じる世界以外のものへの嫌悪も感じる。白と黒はハッキリ別れて混じり合うことがない。Pはよく自分のことを理解してくれない人物が現れると「あいつに死ねって言われてる気分になるねん」と妄想していた。実際には直接言われた訳ではないし、態度で示された訳でもない。Pは自分が敵だと思った人物をとことん嫌った。Pがまだ元気なころは、無理解や裏切られたと感じる人たちと突発的に喧嘩していた。精神病院に入院して退院してからの最後の半年ほどは、いつ会っても元気がなく

「あいつがボクを殺しにくる」

 と架空の敵に怯えていた。「Pを殺しにくる奴って誰なの?」ぼくがそう聞いても具体的な相手はいないときもあったし、いたとしてもほとんど思い込みだった。みんなが悪口を言っている。いまは誰とも会えないし、Pの新しい電話番号は「絶対に誰にも教えないでほしい」と言われていた。ぼくもひどく落ち込んでいるときには家族以外とは誰とも会えなくなるし、「おれは死んだほうがマシなクズ人間だ」と思い込み自身に攻撃をかける。そして世界中の人たちが自分の悪口を言ってるような妄想にかられる。いまは元気なので自分のことクズだとも悪口言われてるとは全く思わないが、人間の感情には波や揺れがあって、それは疲れと共にやってくる。ココロの波を内観しつづけてわかった。

 「死ね」と誰かから言われていると感じているときは、自身が他者を拒絶してむしろぼくがすべての人間に対して「死んでしまえ」と呪っている瞬間なのかもしれない。

 Pは感受性が豊かだったので、いろんなことに敏感になって、尖ったり同調したり、彼の精神はただ生きているだけで、白と黒に目まぐるしく振り回されて忙しかったんだと思う。だから晩年は自分に疲れ果ててしまって、深く落ち込んでいた。

 もちろん極端に世界を見ることは悪いことばかりではない。Pやゴッホの眼で観た白と黒の世界は特別だったと思う。批評家の小林秀雄がゴッホの絵を始めて観たとき

「僕が一枚の絵を鑑賞していたということは、あまり確かではない。むしろ、僕は、ある一つの巨きな眼に見据えられ、動けずにいたように思われる」

 この『カラスのいる麦畑』というゴッホの絵を観てそう感じたそうだ。絵に触れることとは描いた人間の眼を借りて世界を観ることなのかもしれない。その眼は絵のフレームから外れたときの世界の感じ取り方すら変えてしまう。ぼくはPの音楽をイヤフォンで聴いて自転車をこいで夜の大阪の街をドライブするのが好きだった。音楽の振動にひそんだPの精神は、ぼくの肉体を借りて車輪をこいているようだった。夜の街に点滅する赤やオレンジの光。それらの光は真っ黒なアスファルトに映し出される。チカチカした明滅はリズムボックスのコンカンという音と共に世界に跳ねあがった。

 この文章を読んでいるあなたはいま死にたいかな? それとも誰かに死ねって言われている気分で生きているかな? ここにこれから刻んでいく言葉は死にたいような苦しみを抱えている人たちに向けて書こうと思っている。この連載を『死にたいときに読む本』と名付けた。あなたはなんだか疲れてしまって生きてる実感がもてないだろうか。過去にくらべればいまは幸せなはずなのに、どうしても悲しいことを思い出して辛くて死にたくなってしまってはないだろうか。体のなかに脈打つ生命が何も感じられない。そんなときはこの『死にたいときに読む本』を読んでほしい。だけどここには自分と向き合わなければいけない難しいことも書いている。だからいまはココロを休めてあげて、少し元気になったときにふたたび死にたくならないために読んでもらってもいい。

 河合隼雄という臨床心理学者であり哲学者でもある偉大な先生がいる。先生のことを敬愛の意を込めてハヤオセンセイと呼ばせてください。ハヤオセンセイはココロついて問いを深めた日本人の一人だ。ユング派の心理学を学んだハヤオセンセイは、ヨーロッパの心理学はある程度は日本人には適応できるが、根本的なココロの問題を読み解くことはできないのではないか? と疑念を抱き始めた。箱庭療法でクライアントの苦しんでいるココロを読み解きながら、ハヤオセンセイは日本神話に着目した。神話とは人間の生や日常を照らしてくれるために語り継がれた物語だ。古来から伝達される日本神話に日本人のココロの原型があるではないかとハヤオセンセイは研究をした。日本神話からココロの奥底を読むことは、ハヤオセンセイの偉大な仕事なのでここではそのことに触れたり、ましてやぼくが古い書物を研究はしない。ハヤオセンセイの哲学からの応答を別のカタチで思惟したい。ぼくは子どもたちの遊びからココロを読み解いていくつもりだ。子どもの遊びには彼らのや日常を照らしてくれる何かがある。

 2021年の夏。娘のユモちゃんは6歳。ユモちゃんはリカちゃん人形のオモチャ遊びに夢中だった。エアコンがないのでうだるような暑さの狭い部屋のなかで、二人で狂おしいほどに遊んだ。もうこんな夏はたぶん訪れないだろうと思わせる不思議な熱狂ぶりだった。ユモちゃんが好きな遊びのパターンがいくつかある。ユモちゃんが操るリカちゃんは素敵なお家と家族で住んでいて、それを羨ましがる友人バラ子ちゃんがいる。そのバラ子ちゃんが遊びにきて玄関先でピンポンしたりドンドンとノックをしてもリカちゃんは気がつかないし、たまに気がついてもいろいろ因縁をつけて家には入れてあげないという何とも残酷な遊び。遊びとは子どもたちの願いを叶えるための魔法だと直観している。でもこの残酷な遊びでユモちゃんがどんな願望を持っているのかわからずにいた。ぼくは虐げられるバラ子ちゃん役を演じつづけなきゃいけないので、正直苦痛ではあった。わはは。だけどユモちゃんの気持ちがしりたくてこの遊びをつづけた。ぼくは6歳のユモちゃんが求める素直な欲求とは

・まだ手にしていない(自分だけの家、家具など)がある充実した生活
・その充実を証明(うらやましがってくれる)する他者

 だと思った。なんともシンプルな欲求。こんな欲求を大人はカッコ悪いし、大人気ないと思って、妙にねじれたカタチで現してしまう。それこそが現代の息苦しさな根本なんではないだろうか。何も隠さずに、充実した生活を求めて、他者から認められてもいいのだ。承認欲求なんてある程度みたされれば、その後はどうでもよくなるのだから。子どもや若い人たちがある程度の承認を求めても何の問題もない。承認されたいだけで行動するのは良くないけど、だからと言って自分のためだけに行動できるほど人間は強くない。
 ユモちゃんの遊びは誰か一人を邪魔者扱いする傾向にあるのでそこは気になっていた。ユモちゃんに「なんでそんなに誰かを閉じ込めたり殺したり、意地悪な遊びをするの?」と聞いたら「幼稚園の友だちには、意地悪は絶対にしないし、これは遊びだからしてるの!」とちゃんと遊びの現実に境界が引かれて使い分けているようだ。

「みて!みて~!」

 とユモちゃんと同い年の友だちたちも素直に欲求してくる。ユモちゃんに「悩みってある?」って聞くと「まったくない!毎日たのし~」と即答する。素直に欲求することと、邪気の使い分け。ぼくたち大人は子どもになることはできないが「子どものように」素直に振る舞うことはできる。大人として子どものように振る舞うことが苦しみを軽減させるのかもしれない。

 リカちゃんのお家に強引に入ろうとしたバラ子が捕まえられて地下室に閉じ込められた。しばらく閉じ込めたあと、強引に家に押し入ったことを反省したバラ子をリカちゃんが許してあげて二人は友だちになる。二人は仲良く生活するがそれを邪魔する者が現れる。ユモちゃんの遊びには「閉じ込める」という排除と「新しい敵」が出てくることで成立している。ぼくは娘との遊びで「閉じ込めと新しい敵」という神話を発見した。

 つぎに流行ったリカちゃん遊びは、リカちゃん人形を使ってのドッチボールゴッコ。リカちゃんにはミキとマキというユモちゃんと同い年くらいの設定の妹がいる。ドッチゴッコの主人公はミキマキの二人だ。ミキマキはいたって非凡で才能もなく公園で遊んでいる普通の女の子。すると隣町の小学生が公園にきてドッチボールは始める。その小学生たちはドッチボールの邪魔だとミキマキを公園から追い出そうとする。怒ったミキマキはドッチの対決を小学生たちに申し込む。負けたほうが公園から出ていく約束をしてから。じつはこの小学生たちはドッチの県大会で優勝した強者だった。しかしミキマキたちはなんとも呆気なくこの小学生たちに勝ってしまう。この勝負でミキマキたち自身も気がつかなかった才能に気が付くことになる。ミキマキたちの噂を聞きつけて次ぐ次と強敵たちが現れる。世界大会で優勝したチーム、妖怪、銀河系で一番強い宇宙人ドッチボールチーム。新しい敵はユモちゃんの神話のなかで創造されていく。

「こんなチビのくそガキどもが強いワケない。余裕で倒せるな!」

 とイキがって現れた敵たちは、ミキマキたちの圧倒的な強さに感服して負ける。

「ミキマキさん!なんて強いんですか……。オレたちあなたたちのチームに入って修業したいです!」

 敵はミキマキの仲間になって、さらに現れる新しい敵と戦うことになる。

 この遊びからユモちゃんのココロを読み解いてみた。

・いまはまだ非力な子どもだけど自分には未知の可能性がある
・敵は敵ではなく自分の力(社会的才能)を証明するもの
・戦いのあと敵(非自己)を取り込み仲間(自己の一部)になる

 ユモちゃんのココロにある『閉じ込めと新しい敵』という神話は往年の少年ジャンプ漫画の王道パターンと似ている。『ドラゴンボール』『聖闘士星矢』『男塾』『キャプテン翼』。敵と戦って、勝つか殺す(物語からの排除)を一旦おこなう。殺された敵が蘇ったりする荒唐無稽な出来事がおこって、物語から排除(閉じ込め)された敵は仲間(自己同一)となりふたたび神話の世界に統合される。

 近年のジャンプ漫画『鬼滅の刃』はこのパターンから逸脱している気がする。戦って倒した敵と仲間になることはない。そして主人公の炭治郎は戦うことをつねに恐れて、鬼の蔓延る世界に葛藤している。ドラゴンボールの悟空とはまるでちがう。悟空はさらに強い敵が現れることにワクワクしていた。悟空がもっているような力への向上心は『鬼滅の刃』の世界では、むしろ鬼が持っているものだ。力の追求は少なくとも悩んでいる人やアイデンティティを確立できていない人にとっては排除されるべきものになってしまった。才能やクリエイティビティや向上心が敵になってしまった神話を現代人のココロが産んだのか。ぼくは鬼滅の刃を面白く読んだけど、強烈な息苦しさが漂う漫画だと思った。鬼を倒して世界は平和になったというラストだったが、ぼくは往年のジャンプ漫画のように鬼も自分たちの世界に取り込むべきだったと思う。何故なら新しい敵は現れ続けるのだから。スピノザは「自由とは自己決定のことでなく、強制的に現れた必然を受け入れること」だと説いた。鬼の存在を受け入れるという必然を、現代に生きる人間は否定したくなったのだろうか。

 美しいか醜いか、クリエイティブか怠惰か、正義か悪か、マイノリティかマジョリティか、右か左か、マルかバツか、話が合うか合わないか、好きか嫌いか、強者か弱者か。最近は

「自分と価値観の合わない人、嫌いな人、自分の価値を理解しない人はどんどん切っていってほうがいい」

 みたいな考え方をよく聞く。たしかに嫌いな人と深くかかわる必要はない。だがいま人間関係にココロを苦しめている人たちの問題は、排除しすぎて、他者だけではなく自分にも向き合うことを放置してしまったことから起こっているように感じる。ちょと厳しい意見だけど人間関係を切る(閉じ込め)だけではあなた個人が抱えている問題も短期的にしか解決しない。敵は現れ続ける。ぼくたちのココロがその敵をつくり続けるかぎりは。

「味方にももちろん信頼できない部分はあるし、敵とも手を組むべきところがある」

 これはある臨床心理の先生が仰っていた言葉だ。ピッコロ大魔王はサイヤ人という地球外からやってきた手強い敵が現れたときに、ライバルの悟空の息子である悟飯を連れ去り、戦い方を教えた。悟飯はピッコロが想像した以上に才能があった。サイヤ人と戦うためとはいえいずれ自分にとって最大の敵になるかもしれない悟飯を育てているのだ。もしかすると敵とは人間が成長するために自己に取り込み生成変化するための何かなのかもしれない。躁鬱や統合失調症など、その他様々な特性を抱える人たちには、マルかバツか、敵か味方かで、極端にものごとを判断して感情を爆発させてコントロールが効かなくなる人が多い。他者に対して潔癖すぎるところもある。もっとユルくいい加減に敵とも手を組んで気楽にこの社会を生き延びてほしい。

 スピノザという哲学者が17世紀のオランダにいた。スピノザは全宇宙すべての存在や存在しえぬものまでを神だと感じた。科学的にいうと素粒子や原子の粒ということなんだろうか。それとも科学でも知り得ないもっとミクロな何かなのか。とにかくすべてが等しく神だと捉えた。ただし猫は神ではない。もちろん人間も神ではない。ウイルスや菌も神ではありません。森の木々や岩も神ではない。スピノザの神は八百万式ともちがう。八百万の神とは自然物に宿る精霊のこと。概念としては自然物よりも上位の存在として精霊がいるということになる。人間はいるかいないかわからないものに対して、自分たちより上位の存在を「ある」と断定して宗教や共同体をつくった。スピノザの神はすべてが神なので人間や森羅万象よりも上位の概念ではない。あなたというカタチを持った有機体は神ではありません。ただし、あなたのからだは神で構成されている。スピノザの神はとても平等だ。概念や現像に上下や縦横もつくらない。白と黒もない。敵は神でも悪魔でもないし、あなた自身も神でも何者でもありません。ですがあなたもあなたの敵も、宇宙のすべては神で構成されている。

 最近ぼくはいままで苦手だったり嫌いだと思い込んでた人となるべく話すようにしている。その場合はうわべの会話ではダメだ。なるべく相手の確信に迫ること、僕自身ずっと疑問に思っていたことを素直に聞くことにした。するとその苦手だった相手は大体、いい人だった。わはは。同じようなことに悩んでいたし、少しタイプは違うけど自分なりの希望を持って生きていた。いま社会の生きづらさはハラスメントや人間関係の不和を恐れすぎて他者の核心部分を素直に聞けなくなってしまったから起こっていると感じている。もちろん他者への気遣いからそっとしておくことも必要だが、配慮が過剰になると結局は無視することになる。ドゥルーズは「動きすぎてはいけない」と哲学した。そして静止して待ちすぎてもいけない。自然はたえずどちらかに偏らずに平衡を保っている。 

 ぼくは0円ハウスというプロジェクトとしている。将来に悩んでいたり不安を抱えている若い人たちに、家賃を無料で住んでもらって楽しいことをやってもらったり、もしやりたいことや情熱を持てることがなくても、ここで探してもらいたくて作った場所だ。社会から孤立していると思い込んでいたり、頑なに何かを拒絶したり、ココロの問題を抱えている子もいる。個室やドミトリーもあり1月15日から5人の若者が住んでいる。それぞれがそれぞれの時間を楽しむ。そういう場所にしたかったが、そうはなり切らない部分もあった。そして、ある程度は予想してはしていたが0円ハウス内の人間関係のトラブルが多発している。Pのように隣人に「死ね」と言われていると妄想する子も現れた。それぞれがそれぞれの時間を楽しむ、そうイメージするとさも楽しそうな空間に思えるが、実際はそこには他の住人もいるわけで、いくら個室に篭ろうと気配だけは感じ続ける。同じ屋根の下でコミュニケーションが成り立たない人と住むと妄想は爆発する。ここにいる隣人を愛するまではいかないが、許すことができたら、なにげないコミュニケーションが取れたら、その隣人は恐怖の対象ではなくなっていたはずだ。自分が黒を抱えているのに、隣人が白を軽々と持っていることを許しがたくなって起きる衝突があとをたえない。ぼくは隣人とのコミュニケーションが建前でもいいからするべきだよと伝えた。その思いは受け入れられることなく、敵は敵のまま一人の住人は出ていくことになった。ここでも白と黒による「閉じ込めと新しい敵」が姿を現してしまった。それにぼくが気が付くのが遅すぎた。もう少し早い段階で対処できたら、出ていくことにはならなかったはずだ。その子にも申し訳ないことをしたと思っている。

 解決するかどうかはわからないが、ぼくが気がつかないまま問題を放置したくない。そう強く思った。0円ハウスは住人のみんなのココロの声をぼくが聴き逃さないために、少しでもモヤモヤしたときは、どんな些細なことであってもすぐに連絡してもらうことにした。住人たちの声を聞き続けることで、若い人たちが抱えている問題を感じることができた。


言いたいことを直接伝えられない

 みんな自分の悩みをその悩みを起こしている当人に直接伝えることができない。ぼくを通して伝言ゲームのように伝え合っても、表面的には解決する。だけどモヤモヤしている本人の根深い「直接伝えられない」という問題は何も解決しない。そうして解決したはずの問題は度々起こってしまう。そこでぼく抜きで月に一度、住人全員でミーテングをしてもらうことにした。主に話すのは、家の掃除や草刈りなどを平等に分担するためのミーティングだ。分担が不平等に感じる住人がいたので話合ってもらった。悩んでいることは直接本人に相談するのが一番だ。怒って激しく伝えるではなく、自分の感じていることを素直に相談する。相談されて嫌な気分になる人はいない。相手の特性を知ろうとすること。苦手なこと、得意なこと。それらを理解しつつ優しく話し合いがおこなわれたそうだ。人間関係は、閉じ込め(排除)ではなく対話(境界を曖昧にする)ことによってより良いものになる。気分の浮き沈みや体調不良など、どうしても言えないときはメールのグループメッセージで伝え合うことにしたそうだ。ミーティングのあと、あきらかに0円ハウスの人間関係はよくなった。

 0円ハウスに一つだけルールがあった。それは「週3以上のバイトは禁止」というものだった。バイトをしすぎるとやりたいことができなくなってしまう。ぼく自身の経験から作ったんたが、もうそのルールはどうでもよくなった。そしてぼくからはルールというか住人のみんなに新たな3つの提案をした。


・悩みは直接本人に伝える

・お互いがお互いに厳しくしない

・自分にも他人にもユルく

 人間関係に苦しむまえに「自分にも他人にもユルく」「悩みは直接本人に伝える」という神話を自分のなかに編んでいってほしい。もちろんいま死にたくて苦しい人は自分に無理な神話を課す必要はないよ。ダラダラして休んでいる自分を最高に褒めてあげてください。少し気が楽になったら、また死にたくならないように、ココロに邪悪なものがあってもいい、それを無理に追い出そうとせずに、黒いままに人に対してユルくなってみてください。

 住人のユキちゃんは、腹が立ったり相手に厳しく思っていたのはココロの波の問題だと自身で気がついた。ユキちゃんは、相手のこと理解しようとしていなかったと、本人に直接あやまった。ぼくはユキちゃんの成長に感動している。

 ユキちゃんは「0円ハウスに住みたい」という友だちについてきて何故かユキちゃんのほうが住むことになった。見た目が若かったので、年齢も聞かずに0円ハウスに住んでもらうことになった。住み始めてしばらくしてから、年齢を聞いてビックリした。年齢は40歳を越えていた。その瞬間に

「でていけ!」

 と冗談で言った。わはは。だけど彼女自身がどうやったら自活できるかにすごく悩んでいるので、年齢は関係ないと思いそのまま住んでもらっている。バイト週3以上は禁止だったけど、ユキちゃんは割りとバイトしている。柑橘農家でミカンを収穫するバイトだ。家にいるより、太陽と光のもと、カラダを動かしているほうがユキちゃんの精神を豊かにする。彼女は双極性障害(通院先の精神科は病名を教えない方針なので正式な病名はわからない)だと自分では自覚している。若いときは重い症状だったので、自分やまわりの家族も大変だったそうだ。

「いままで働きたくなかったし働けなかった」

 そんなユキちゃんがいまは家賃0円の生活をしながら、みかんバイトをして、ほんの少しだけど野菜を育て、生ごみで肥料をつくりコンポストトイレにも取り組んでいる。ゆっくりなペースでユキちゃんは自活できている。人の成長の速度はそれぞれに特別な宇宙だ。ぼくはユキちゃんの姿やゆっくりした成長を感じるとココロが豊かになる。ぼくのココロに「バイト=悪」みたいな極端な白黒はなくなって、新しい何色なのかもわからない神話が誕生した。そしてこの神話はぼくが0円ハウスを構想していたときには夢想すらしなかったこと。0円ハウスの住人たちはぼくに新しい風を運んでくれる豊かな詩(うた)なんだと思う。人生には予想を超えた出来事や偶然に満ちている。計画通りいかないことに苛立つよりも、ぼくは目の前に起こった、偶然という完璧を気ままに楽しんで生きたい。

 ゴッホは芸術家の共同体をつくろうとしていた。一軒家を借りて「黄色い家」と名付けた。アーティストたちと一緒に生活をしたい。南仏のアルルに共同アトリエをつくった。そこにゴーギャンがやってきて共同生活が始まった。ゴーギャンは弟テオに滞在中の生活費と、黄色い家で描いた絵を買い取るという条件に乗ってやってきた。ゴーギャンとの共同生活は二ヶ月ほどで破局になった。ゴッホの共同体の夢は儚く消えた。Pもアーティストが集うマンションに住んでたけど数ヶ月で破局してたなぁ。ぼくはゴッホやPの果たせなかった何かを、自分なりにやろうとしている。ゴッホやPのように苦しみ不安を抱えながら、芽になる前の種のような存在の子たち。彼らにとって育ちやすい土がある大地のような場所を0円ハウスはしたい。まだまだこれからだけど、いま4ヶ月近く運営していて、とりあえずは黄色い家よりも存続させることができている。親鸞というお坊さんは

「人生には行きと還りがある」

 と説いた。人は「行き」の時期には、自分のことに集中して一心不乱になってよいと親鸞は考えた。たとえ隣に窮地に追い込めれたり、どん底で困っている人がいても無視して、自分のことだけをしなさいと。そのかわり「還り」の時期がきたときには、どんな悪人や人殺しであっても迷える者を自分のことはさておき全力で救いなさいと説いた。親鸞はこんな考えのもと行動した。橋がかかっていない河の向こう岸に行きたいと困っている女性がいた。出家したお坊さんは戒律で女性に触れてはいけない。しかし親鸞は女性を抱きかかえて向こう岸までつれていった。それを観た弟子は親鸞の行動にモヤモヤして道中ずっとそのことを考えていた。

「親鸞さま!失望しました戒律をやぶって女性に触れるなんて、やっぱりダメだと思います」

 弟子は旅の最後のほうで親鸞にそう告げた。親鸞は弟子に怒った。

「わしはもう女性を抱いておらん。あの河で彼女が困っているときだけ抱いたのだ。しかしお前は今もココロに女性を抱いておるじゃないか」

 弟子はハッとした。親鸞の説く「行き還り」とは年齢を重ねて行きから還りに到達することではないと思っている。還りとは、河で困っている女性に出会し助けたその瞬間だけのことで、また行きの時期がやってきたら、還りにやったことは忘れて思い返さない。人生はずっと誰かを背負って生きていくものではないのだと。いま苦しいあなたは存分に誰かにあまえてほしい。それがあなたの出来る善業なんだ。そしてモヤのように覆っていた不安が、青い空に変わったとき。誰かを助けてもいいんじゃないかな。「行きと還り」「白と黒」などアンビバレントな二つを混ぜ合わせるのではなく、使い分けることができたときに人はココロに平衡が訪れる気がしている。

 ゴーギャンはアトリエに並ぶ、ゴッホが描いたひまわりの連作を観てココロを奪われた。しかし純真にアートに向かうゴッホと、時流やニーズに敏感で打算的なゴーギャンとの意見は白と黒との対決になった。共同生活を終えたわずか2年後にゴッホは死んだ。自ら命をたったのか、それとも事故か他殺という説もある。死因がはっきりわからないまま37歳でこの世を去った。これもPとの共通点だ。ゴッホは熱心なクリスチャンだったそうだ。ゴーギャンは無神論者のはずなのに、ゴッホの死後、キリストを思わせる人物の絵を何枚も描いた。ゴーギャンはゴッホの回顧展を阻止しようとしたり、死後にも確執をあらわにした。それなのにゴーギャン自身が死ぬ少し前に、ゴッホが描いて最も嫉妬したひまわりの絵を描いたそうだ。肘掛けのついた椅子の上に置かれたひまわり。その椅子の後ろに一本だけ枯れたような色の異質なひまわりがある。そのひまわりには大きな眼があり部屋や絵の外の世界を眺めているようにも見える。ゴーギャンは何を想いこの絵を描いたのだろうか。

 最後にテオへの手紙の中で語られているゴッホが編んだ神話について書きたいと思う。

「人は絵を描くことで画家になるのだ」

 この言葉はゴッホが信じた神話そのものだと感じている。アルルの精神病院で発作に苦しみながらも、1年で200点もの絵を残した。27歳で画家として生きることを覚悟して、10年で生涯2000点ほどの絵と推定1000通以上もの手紙を書いた。言葉とビジョンという神話がゴッホの精神と肉体を支えていたんだろう。

「狂気も他の病気と同様にひとつの病気なのだと考えられるようになってくる」

「気がふれた病気になりながらも自然を愛する人間がいる。それこそ画家というものです」

 ゴッホはサン・レミ精神病院から死ぬ2ヶ月前に弟テオに宛てた手紙でそう書いた。ゴッホは画家を決意してから死ぬまでにたった一枚しか絵は売れなかったそうだ。それでもゴッホはココロの眼で絵を描き、絵を描くこという運動を続けた。ゴッホの手紙を読むと絵を描くことで社会と関わることに苦しみは多々あったが、描く喜びにあふれていた。テオの援助なしでは創作活動は続けれてなかったゴッホは自分の絵を「習作」だと言い続けたが、それでも死ぬ間際や絵を描いている瞬間、描きたいとココロから思える風景に出会えたときは紛れまない真の画家になっていた。

 人は絵を描き続けることで画家になる

 ぼくは運良く、作家であることがぎりぎりだけど経済的になりたってはいるが、それと死ぬまで書き続けられるかは別の問題だ。パッションがなくなり書かなくなれば、作品が売れててもそれももう作家でも画家でもない。画家になるってことは、描くという運動に覚悟を持つこと。火を灯して描き続けることだ。いまの時代に覚悟なんて言葉はダサいことになっている。だけど社会から排除されそうなものことこそ、ぼくは取り込みたいと緩やかに感じている。それは絵だけではなく、詩や文学、料理や建築、物作りのすべてに通底する神話だと感じている。ハヤオセンセイは、現代人の神話は自己実現とかお金とか小さなものになっていると嘆いていた。どうせ持つなら大きな神話をイメージしなさいと。ネイティブアメリカンたちは「オレが祈ったら風が巻き起こるんだ」という神話を本気で信じていた。竜巻のような強い風でなくてもいい。つむじ風を世界に吹かせよう。風に白も黒もない。ボブディランは「答えは風の中さ」と歌ったが、ゴッホの絵はぼくのココロに風を吹かせ続けてくれている。

 ゴッホは日本に憧れていたそうだ。南仏アルルの風景を観たときに「ここは日本だ!」とゴッホは感動した。ぼくも南仏を旅したときに何とも懐かしい感じがした。あの南仏の冬に感じた冷たい風。日本の小さな西の島で今日も吹く風はフランスのことを思い出させてくれる。この風はゴッホや絵、Pの音楽、スピノザやハヤオセンセイや親鸞の哲学、白と黒、閉じ込めと新しい敵、ぼくの絵や言葉、森羅万象、宇宙、もしくは、いまこの神話を読むあなた自身が巻き起こしている。


つづく


※この連載『死にたいときに読む本』は次回から下記のリンクのオンラインサロンでのみ全文読むことができます。ぜひご参加ください〜。


サポートしていただいたお気持ちは生きるために使います!あなたの気持ちがダイレクトにぼくの世界を支えてくれて、書き続けることができます。