読んだ本:安岡章太郎「アメリカ感情旅行」

フラッと立ち寄った古書店で購入。

著者の安岡に関しては、恥ずかしながら「第三の新人」の一人なんでしょ、ぐらいのことしか知らない(当然著書は一冊も読んでいない)、まあつまり何も知らない状態で、しかしそのような状況にも関わらずなぜ本書を購入したのかといえば、本書が評判の高い本らしいということが頭の片隅にあったからで、本書を読み通した今思えば、その評判は全く正当なものだった。

1960年、まだ1964年公民権法も制定される前のアメリカ南部・ナッシュヴィルを、安岡はロックフェラー財団の留学生として訪問する。

安岡は、日毎に黒人運動の盛り上がりが増していくアメリカ南部の様子を「見る」(「なんでも見てやろう」の影響があったことは序文で明言されている)ことを目的としており、事実その目的は半ばまで達成される。人種差別に反対し、黒人差別反対運動の座り込みに参加する我が子を応援するP夫人の発言の生々しさは凄まじい。

「セグリゲーション(人種差別)をする人たちは結局、インターマリッジ(引用者注:人種間結婚)を怖れているのですよ…(中略)馬鹿なことを心配する人たちですよ。子供をシッカリしつけておけば、親の許可なしで結婚したいなんて言い出すはずがありませんもの。うちのゲールやロビンが黒人の坐り込みに応援に出かけたんだって、何も彼等に結婚を申し込みに行ったわけじゃないんですものね」(pp.96-97)

しかし彼は、単に第三者的、中立的な地平からアメリカの差別の状況を見つめるにとどまらない。「私は見ていると同時に、自分が見られているという意識から、ほとんどはなれられなかった」(はしがき)という記述からも明らかなように、吉岡は自らもまた眼差しの対象であることに自覚的であった。本書の魅力の一つは、吉岡がそうした「見つめられる」経験を見事に活写しているところにあるだろう。

例えば、次のような記述は「差別的な視線を感じること」のもたらす当惑の記述として非常に優れている。

…偏見がはなはだティピカルなかたちであらわれているといわれるこの街は、私にとって興味ぶかい所であるはずなのだ。——しかし、こんなことは頭の中で考えたことにすぎなかった。いざ自分が「偏見をもって見られているのかもしれない」と思っただけで、もう眼をふさがれてしまったような気持になる。分厚い壁の前に立たされて、あらゆるものを遠隔操作でながめさせられているようなイラ立たしさを感じるのである。ところでこの壁も、果たして向う側からもうけられたものか、あるいは私が想像しているだけのものなのか、またハッキリしないというもどかしさも、このイラ立ちに混っている(p.43)

安岡は徹底して主観的な地平からアメリカの「広大」さ、現実の実感を語ろうとし、そしてそれに見事に成功している。ひょっとしたらこれは、被差別経験の現象学の系譜の上に置くことができる仕事かもしれない。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?