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1988年3月新婚旅行フランス 〜 グラン・ヴェフールでフレンチ、ラパン・アジルでシャンソン、パリを出たらエリック・サティ生誕の地オンフルールにてサン・シメオン泊

写真は 1988年3月18日の金曜、1784年営業開始というからこの時に既に200年以上の歴史を誇っていたパリの老舗フレンチ・レストラン、グラン・ヴェフールでディナーを楽しんだ後、左端の門番のおじさんとの記念写真に収まった拙者と、そして拙者の右隣はドミニク・サンダ、

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じゃなかった拙者の賢妻。美しさはほぼ同じです。

因みにドミニク・サンダ, つまり Dominique Sanda さんは現在73歳、拙者の妻は現在(というか常に)ドミニクさんより軽〜く軽〜く一回り以上若く、年齢は現在のところ、ドミニクさんのおおよそ半分くらい(と思われる)。

ロックとソウルの音楽づくしの結婚をして

遡ること 5日、1988年3月13日の拙者と拙者の賢妻、そのロックとソウルの音楽づくしの結婚式・披露宴、セトリは以下の通りで、

1. Love's in Need of Love Today (Stevie Wonder)
2. Just Like Starting Over (John Lennon)
3. All You Need is Love (The Beatles)
4. Woman (John Lennon)
5. Shining Star (The Manhattans)
6. 時空の旅人 (竹内まりや)
7. Just a Little Bit (サザンオールスターズ)
8. Strawberry Fields Forever (The Beatles)
9. In My Life (The Beatles)
10. Take Me to the Mardi Gras (Paul Simon)

11. Bridge Over Troubled Water (Simon & Garfunkel)

1~10 はオリジナル、名だたるミュージシャン達がレコーディングしたものをそのまま使ったのに対し、11 を歌ったのは Simon & Garfunkel じゃなくて拙者と拙者の賢妻、つまり当日の新郎新婦だったけど(伴奏してくれたのはミュージシャンしてる拙者の実兄と兄貴の奥さん!)

その翌日、フランスへ 〜 BGM は打って変わってフレンチ・ポップス懐かしのミッシェル・ポルナレフ ♫

というわけで、新婚旅行はフランスへ。流石に旅行は音楽づくしというわけにもいかないけれど、この note 投稿の中ではできるだけ音楽満載ムードにしようかと。

ミッシェル・ポルナレフは子どもの頃の思い出に繋がるから、こうやってカタカナで書いた方がピンと来る。

新婚旅行でフランスに行ったのは 1988年だから全然時代が違うけれど、この曲はフランスでは1969年にリリースされ、日本では同じ年に邦題「可愛いシェリーのために」でリリースされてヒットせず、その 2年後、1971年に「シェリーに口づけ」として再発され筆者世代ぐらいなら今でも誰でも憶えていそうな大ヒットとなった、ミッシェル・ポルナレフ, Michel Polnareff の "Tout, Tout Pour Ma Chérie" ♫

でもこれ、邦題は歌の内容から基本、相当かけ離れていて、そもそもシェリーという名の女性など、この歌の歌詞には登場しない。原題の意味は英語にするなら "Everything for My Love" もしくは "All, all for My Darling", 日本語だと「すべては愛する君の為に」ってところか。

要するに "Chérie" というのは英語で言うところの女性名 Sherry ではなく、英訳するなら "Darling" とか "Love", つまり「最愛の人」とか「愛しい人」。ところがですね(と言っては些か大袈裟か?)、こんな説明を見つけたんだけど、本当かな? まぁウソでもないんだろうけど。つまり、英語の女性名 Sherry も意味は "Darling" なんだと(しかもこの名前 Sherry 自体は American origin と書かれているんだが)。

The name Sherry means Darling and is of American origin. Sherry is a name that's been used primarily by parents who are considering baby names for girls.
form of Cherie. Also a fortified wine, first produced in Jerez (Spain).

引用は、こういうウェブサイトからですけどね(笑)。

ではでは、とりあえず、賢妻との新婚旅行から遡ること 5年ほど前、ユーラシア大陸ほぼ(!)一周バックパッカー「放浪」もどき旅(*1, 2)をしていた拙者がパリに 1週間ほど居た時、1983年6月9日のシャンゼリゼ, フランス語(は拙者全くの音痴なんだけど)では Avenue des Champs-Élysées もしくは Les Champs-Élysées で撮った写真を見ながら、 

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なんて書くと、日本では1971年にヒットしたダニエル・ビダルのヴァージョンが有名な「オー・シャンゼリゼ」(これは邦題で、フランス語タイトルは単にシャンゼリゼ, つまり シャンゼリゼ通り を意味する "Les Champs-Élysées")を思い出す向きがおられると思うけれど、そして拙者もその世代なのでアレも載せたくなる気持ちはヤマヤマながら、脱線するとキリなくなるかもしれないので、ここは先に決めた通りで、

ミッシェル・ポルナレフ ♫ 邦題「シェリーに口づけ」は歌詞と(あまり!)関係ないですよの "Tout, Tout Pour Ma Chérie" ♫

因みにこのヴィデオ、本当に美女づくし。歌詞はオリジナルのフランス語の下に英訳、そして更に日本語訳。

Tout, Tout Pour Ma Chérie 〜 Michel Polnareff 

*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた フランス語の歌詞・原詞を削除 して, 歌詞の 英訳と和訳のみの掲載 に改めました。歌詞・原詞に関心のある方は, 公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.9.1 加筆/削除/編集)。

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(フランス語歌詞・原詞の 英訳

Everything, everything for my love, my love
Everything, everything for my love, my love
Everything, everything for my love, my love
Everything, everything for my love, my love

Baby come with me
Hang on to my arm
I feel so lonely
Without your voice, your body
When you're not here
So come for me
Come near to me
I don't know anything about you
Neither your name, nor your age
And even so, you won't have regrets
Because I'm giving

Everything, everything for my love, my love
Everything, everything for my love, my love
Everything, everything for my love, my love
Everything, everything for my love, my love

I'm standing on a pedestal of crystal
And I'm afraid of falling one day
Without anybody by my side
But if you come
Come with me
I know there will be
Someone to walk along with me
To put an end to my confusion

Everything, everything for my love, my love
Everything, everything for my love, my love
Everything, everything for my love, my love
Everything, everything for my love, my love

Baby come with me
I really need you
I have tons of love to give you
Let me, let me hold you close to me
So yes, come with me
And don't leave me
I've been waiting for you for so long
My love, for many years of tears

Everything, everything for my love, my love
Everything, everything for my love, my love
Everything, everything for my love, my love
Everything, everything for my love, my love

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(フランス語歌詞・原詞の 和訳

すべては愛する君の為に
すべては愛する君の為に

すべては愛する君の為に
すべては愛する君の為に

ねえ、僕のとこにおいでよ
僕の腕にしがみついて
僕はとても寂しいんだ
君の声が聞こえないと
この目で君を見れないとね
だから、おいでよ
僕の隣にさあおいで
僕はまだ君の名前や
歳さえ知らないけれど
後悔させはしないよ
だって僕の

すべては愛する君の為に
すべては愛する君の為に
すべては愛する君の為に
すべては愛する君の為に

クリスタルの台座の上に立っている
僕の傍に誰もいなくて
いつかそこから落ちるのが怖いんだ
だけど、もし君が
君が来てくれたら
確信できるよ
君は僕の隣を歩き
僕はようやく全ての悩みを振り解けるんだ

すべては愛する君の為に
すべては愛する君の為に
すべては愛する君の為に
すべては愛する君の為に

ねえ、僕のとこにおいでよ
僕は君が欲しいんだ
ありったけの愛をあげるよ
だから、僕に抱きしめられていて
さあ、僕と一緒においで
二度と離れたりしないで
僕はずっと君を待っていたんだ
時に涙で目を潤わせながら

すべては愛する君の為に
すべては愛する君の為に
すべては愛する君の為に
すべては愛する君の為に

*1

*2

行ったところは .. BGM は Rod Stewart (イギリスじゃん), Héloïse de Jenlis (フランス生まれのハープ弾き), そして Shocking Blue (オランダじゃん) ♫ 

前章の最後にリンク貼ったバックパッカー「放浪」もどき旅をした経験もあって、パッケージのツアーに入る気はせず、とはいえ新婚旅行なんだから滞在地とホテルぐらいは決めておこうということでパリとオンフルールを決め、宿とフライトだけ予約して出発。年度末で仕事が忙しかったこともあり、期間は短かったけどね!

拙者は 2度目のフランス、賢妻の方は香港やマレーシアに行ったことはあったけれどフランスは初めてだった。新婚旅行のフランスで行ったところ、時系列的にざくっと書くと、「音楽づくしの結婚」のあと、翌1988年3月14日の月曜に日本を発って、泊まるはパリのホテル、アンバサドール・コンコルド。その翌日3月15日、まずはパリをぐるっと観て廻ろうかと東京の「はとバス」のような Paris Vision という周遊バスに乗って、凱旋門・エッフェル塔・モンマルトル・セーヌ川・シテ島のノートルダムなど見物、

そう、残念なことに一昨年、2019年4月15日に大規模火災が発生して尖塔などを焼失した、シテ島のノートルダム大聖堂。がんばれ再建!

写真が 3.16 になってしまってるのは日本時間のままだった、ご愛敬(笑)。

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因みに、以下は、拙者「ユーラシア大陸ほぼ(!)一周『放浪』もどき旅バックパッカー」時代に撮ったノートルダム大聖堂。なんか、色が違うな(笑)。上は曇り空、下は古くてセピア系の色濃く。

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1983年初夏の方の写真の左下に写っている女性は、拙者が当時、パリにいた時につき合っていたパリジェンヌ, Parisienne .. 拙者も実は何を隠そう、パリ生まれ・パリ育ちのパリジャン, Parisien なのだ ♫

......

しょうもない冗談に "I Was Only Joking" ♫ を使わせてもらったロッドへのお詫びを兼ねて、この際またまた脱線して拙者の拙訳ならぬ良薬ならぬ良訳の宣伝を .. 同じロッド・スチュワートの "You're in My Heart (The Final Acclaim)" ♫

こちらも同じくロッドの "Every Picture Tells a Story" ♫ .. これってタイトル通りなので、前章でもリンク貼ったけれど!

さて、話を戻すと、同日(っていつだっけ、1988年3月15日)、夕刻になってあらためて二人でエッフェル塔へ。

ここで何とナンと、ナンはインドの美味しいパン、拙者、インドも含めて海外20ヶ国以上を旅し、旅慣れていたはずだったのが、スリに遭っていたことが発覚。ホテルを出て地下鉄乗車の際に財布を持っていたことは間違いなく、しかしエッフェル塔に入る時に「ここはオレの財布から」と、肩からしっかり交差させて掛けていたショルダーバッグのチャックを開けて財布を出そうとしたら、さ、さ、財布が無い。何度引っ掻き回して探しても、財布が無い。

バッグはちゃんと閉まっていたわけで、どうやら、確かに思い切り混んでいた地下鉄の車両内、犯人は拙者のバッグをこっそり開けて財布を取り出し、ご丁寧にもしっかりまたチャックを閉めていた、それしか考えられないシテ島に行った後だったからか「シテやられた」(なんてくだらない駄洒落なんだ、笑)拙者の失態。ま、そこには大金入れてなかったのがナンタラ中の幸い。新婚旅行中でね、不幸なんかあり得ないから、「ナンタラ」で十分。

写真が 3.16 になってしまってるのは日本時間、しつこいけど(笑)。

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で、翌日、3月16日の水曜は、パリを出てヴェルサイユへ。ヴェルサイユ宮殿、プチ・トリアノン、庭園、ルイ14世の騎馬像。夕食はヴェルサイユのレストランにて、言うまでもなく、美味なるフレンチ(日本では「フレンチ」と言っただけで「フランス料理」を指したりすると思うけれど、あれって日本語の中だけの話かな)。で、夜、パリに戻る。写真全部スキャンするの大変だし、まぁこれらは割愛して、

3月17日の木曜は、パリを出て、次の滞在地、オンフルールへ。宿は麗しのサン・シメオン。写真は次章。

3月18日の金曜は、オンフルールの街を見物、街中のブティックに入って妻のTシャツドレスの買い物、その後もカフェに入ったり、旧港を見物したり、路地をぶらついたり、そこで(アルバムの写真を見ると)どうもビー玉遊びのようなことをしていたらしい(何だったかは当時の日記見れば分かるんだけれど、まいいや今は)子どもたちを眺めたり .. そんなふうに過ごしてから、電車でパリに戻る。

パリでは、サンラザール駅近くの果物屋のおやじを冷やかす(アルバムの写真を見ると「冷やか」してた感じなんだけど、これも日記でも読み返さないと正確には?)。

で、ホテル(アンバサドール・コンコルド)近くのクレープ屋で、道ゆくパリジェンヌ、パリジャンを眺めながら二人してクレープ・ド・ポム(クラピオ・ド・ポムと言うんだったかな?)を頬張る。

夜は確か月曜にチェックインした時に予約してあった「世界最高峰の」フレンチ・レストランの一つ、グラン・ヴェフールへ行ってディナー・タイム(ル・グラン・ヴェフール とか ル・グラン・ヴュフォー とか表記した方がいいのかな、Le Grand Véfour)。このグラン・ヴェフール、現在はミシュラン 2つ星になっているようだけど、当時は 3つ星だった。まぁね、愛があれば星の差なんて(笑)。ってかミシュランの「星」自体は当時の方が上なんだけど。しかし拙者、そもそも日本では高級フレンチというと横浜の霧笛楼(結婚前の 1986年と結婚30周年の 2018年、つごう 2回だけ食べたことがある、もちろん美味!)しか味わった経験ないし、2つ星だぁ 3つ星だぁ 言えるようなグルメ評論など柄じゃないんで。この件、後の章でまた繰り返し。

3月19日の土曜は、パリの街をもっと味わおうということで、朝食もホテルを出てカフェにて。その後、地下鉄の駅でハープ弾きのおばさんを眺める、見入る、聴き入る ♫ (写真はアルバムの中にあります!)

さて、Héloïse de Jenlis はフランス生まれのハープ弾き(その後ベルギー、フランス人なのかベルギー人なのか拙者よく分かってない)、1994年生まれだから、ハープ弾きのお嬢さんです。

で、地下鉄に乗って、ルーヴル美術館へ。サモトラケの勝利の女神像、モナリザ、ミロのヴィーナス .. などなど、たっぷり堪能して、

ヴィーナス? はいはい、拙者が初めて聴いた「洋楽」ロック・バンドの一つ、Shocking Blue, 1969年のヒット曲 "Venus" ♫ .. オランダのバンドですが!

その後、セーヌ河岸(右岸)にて絵やポスターなど売る店を眺める。写真は後の章で。美術館に入る前も後も感じたけど、あの辺り、つまりルーヴル周辺の風景も綺麗だったなぁ。

その日の夜は、モンマルトルへ。サクレクール寺院の夜景を楽しんで、その後、シャンソニエ(日本語化したカタカナのフランス語だと「シャンソニエ」だけれどフランス語の "Chansonnier" は歌を作り歌う人あるいはシャンソン歌手を意味する言葉)、ラパン・アジル(オ・ラパン・アジル, Au Lapin Agile)へ。写真は後の章にて。

あのですね、年度末で仕事が忙しかったんですよ(ってかカネもあまり無かったからかな、笑)、翌日、1988年3月20日の日曜日、土産物の買い物に精を出し、凱旋門を眺めつつ(写真は後の章で)、シャルル・ド・ゴール空港へ。で、行きと同じ、エールフランスの飛行機で、我らが祖国・日本に帰ったのさ。

オンフルールは、エリック・サティ生誕の地 〜 BGM はもちろん Érik Satie ♫

ってなわけで、3月17日・18日の木金、オンフルールに 1泊2日。ホテルはほんと、素晴らしかったなぁ、ラ・フェルム・サン・シメオン。フランス語の綴りは La Ferme Saint Siméon かな。

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こちらは、1988年3月18日のオンフルールの旧港。

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エリック・サティは 1866年のオンフルール生まれ。オンフルールとパリとの間を往き来しながら育ったらしい。

グラン・ヴェフールの夜 〜 BGM はまたまた Érik Satie ♫

今日のこの note 投稿、その冒頭に書いた通りで、1988年3月18日の金曜の夜は、1784年から営業というからこの時に既に200年以上の歴史を誇っていた、パリでも最も老舗のフレンチ・レストラン、グラン・ヴェフールへ行ってディナー。フランス語で書くと Le Grand Véfour, カタカナはル・グラン・ヴェフールがいいのか、ル・グラン・ヴュフォーの方がいいのか、大抵は前者だと思うけれど。

ホテルにチェックインした月曜の晩、フロントから予約していたもの。「世界最高峰の」フレンチ・レストランの一つ、と形容していいんだろうけれど、ググったりして調べるとこのグラン・ヴェフール、現在はミシュラン 2つ星になっているもよう。当時は 3つ星だった。

前の前の章でも書いたけれど、まぁね、愛があれば星の差なんて(歳の差もどうでもいいけれど、星の差もこの際どうでもいい、笑)。ってかミシュランの「星」は当時の方が上だったわけだけど、そもそも拙者、これも既に書いたように日本では高級フレンチというと横浜の霧笛楼(結婚前の 1986年と結婚30周年の 2018年、つごう 2回だけ食べたことがある、もちろん美味!)しか味わった経験ないし、2つ星だぁ 3つ星だぁ 言えるようなグルメ評論など柄じゃない。

当時の日記を引っ張り出せば、きっとメニューとかワインは何を飲んだかとか書いてあると思うけれど、まぁ今日はそこはいいや。日記を見なくてもはっきり記憶しているのは、当たり前ながら美味かったこと、それと、途中出てきたチーズの盛り合わせみたいなメニュー、各種チーズの味がよいのは当然としてそのヴォリュームがすごくて、妻はとてもじゃないが食べきれなかった。チーズだけでなく、おそらく殆どの日本のフレンチ・レストランのコースとはとにかく出てくる料理のヴォリュームからして既に違う。フランス人(まぁ正確に言うと「平均的フランス人」ってとこだろうけど)の胃袋、日本人の平均とはだいぶ違うなぁと思い至った次第。

写真は、ディナーをゆっくり楽しんだ後、左端の門番のおじさんとの記念写真に収まった拙者と拙者の賢妻。

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BGM はやっぱ、前章に続いて、エリック・サティだなぁ。オンフルールからパリに戻ってきた後だったし、オンフルール生まれのサティは幼い頃からオンフルールとパリとの間を往き来していたってことだから、これでよいのだ。

ルーヴル美術館の近く、セーヌ河岸(右岸)にて絵やポスターなど売る店を眺める 〜 BGM は Ella Fitzgerald "I Love Paris" ♫

ルーヴル美術館は拙者は 1983年6月のバックパッカー海外「放浪」もどき旅の時の 2回以来、3回目だった。妻は初めて。いったい何回行ったら観切れるのかという、その質と量のとんでもなさ。

写真は、ルーヴルを楽しんだ後、美術館の近くで撮った、1988年3月19日土曜のパリのひとコマ。

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I Love Paris 〜 Ella Fitzgerald

Ella Fitzgerald は、この人です。

ラパン・アジルでシャンソンを楽しんだモンマルトルの夜 〜 BGM は エディット・ピアフ, Édith Piaf "La Vie En Rose" ♫

オ・ラパン・アジル, Au Lapin Agile は、モンマルトルにあるキャバレー(フランスではキャバレーの部類に入る)またはシャンソニエ(日本的に言うと「シャンソニエ」、ただしフランス語の "Chansonnier" は歌を作り歌う人あるいはシャンソン歌手を意味する言葉)。

1825年に現在の建物が建てられたようで、19世紀中頃からキャバレーとして知られるようになった。ウィキペディアによればだけど、1875~1880年に風刺画家アンドレ・ジルが描いた看板から「ラパン・アジル」と呼ばれるようになったとか。

以降、ゴッホやルノワールらの画家、シャンソン歌手、詩人、作家などのたまり場に。さらに 1903年に「フレデ爺さん」ことフレデリック・ジェラールが経営者になって以降はパブロ・ピカソ、アメデオ・モディリアーニ、モーリス・ユトリロなどのモンマルトルのボヘミアン画家や詩人が集まるようになって(ユトリロは何枚も「オ・ラパン・アジル」というタイトルの絵を描いているようで)、まぁ確かに店内は彼らの絵でいっぱい。

シャンソンのライヴハウスということで言えば、エディット・ピアフ、シャルル・アズナヴールなどの超大物シャンソン歌手たちも、ここで歌ってきたそうで。

拙者はシャンソンには疎いんだけど、あの晩のライヴは気取りなど全くなく、まるでアメリカのブルーズを聴くような感じだったことを憶えている。「シャンソン」というと正直、日本では何か洒落た、あるいは気取った印象が伝わる、そういう偏見を持ってしまったいたわけだけれど、ここで聴いたパリのシャンソンは、それまでのイメージとは全然違うものだった。で、えらく気に入ったのだった ♫

オ・ラパン・アジルでフランスの歌、つまりは「シャンソン」を楽しんだ、1988年3月19日土曜の夜。

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たっぷり楽しんで、店を出てからまた一枚。

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"La Vie En Rose" 〜 Édith Piaf

パリを発つ日の凱旋門 〜 BGM はまたまた Érik Satie ♫

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Trois heures de cette unique pièce d'art. はい、フランス語分かる人、手を挙げて!

Érik Satie - Gymnopédie No.1 ♫

Les Gymnopédies, publiés à Paris à partir de 1888, sont trois compositions pour piano écrites par le compositeur et pianiste français Érik Satie.

Les peintures d'Édouard Cortès. これは画家の名前!

さて、最後にもう一度、"I Love Paris" 〜 歌うは Tatiana Eva-Marie with her band, Avalon Jazz Band ♫

Tatiana Eva-Marie はスイス生まれのフランス人。今はアメリカ合州国、ニューヨーク、ブルックリンに住み、1930年代風のスイング、ジプシー・ジャズを歌う。


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