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完全な日々、それは


先週、ヴィム・ヴェンダース監督の「PERFECT DAYS」を観てきた。

記事の中には映画の内容に詳しく触れている箇所もあると思うので、これから映画をご覧になるかも知れない人は気をつけてください。
伏線だとかネタバレだとか、そういったものとは対極の位置にある映画な気もするが、一切前情報なしに観たい方もいるだろうと思うので。




私はヴェンダース監督の作品をこれまで観たことがなかった。noteでいつも記事を読んでいるあの人やこの人が、感想を記事に上げられていたこと。そして、職場で休憩時間によく話をしてくれる年上の同僚が観に行ってきたと教えてくれたことで、私も混ざって、私も観てきました!と言いたくなった。それがきっかけ。ミーハーなのだ。


スクリーン8にお客さんは五人。
スクリーン1の「ハイキュー」は朝から物販コーナーに行列が出来ていたのに、「パーフェクト・デイズ」は私がチケットを買った時は一人でほぼ貸切状態、席も選び放題だったので、席を立つ時には人が増えていて少しホッとする。(ちなみに私が観た席はいちばん後ろのど真ん中だった。当たり前だが前も横も誰もいなくて得した気持ち。)

観終わった後、ふーっと一息吐いて、何故かしらにこにこしてしまう。
いい時間だったな。ラストシーン、美しい太陽の光とほんの少し残るもやもやと。

他の人にも感想を聞きたい。でも何だか、五人とも満足していたような気がした。勝手な印象だけど。
斜め前に座ってらした女性の二人のうちお一人が「良かったわ」「私、2回目だけど2回来てほんと良かった、今日全部分かった気がするわ」「1回目はあのところとかあの辺がよく分からなかったけど、2回目はすんなり分かったわ、良かったわー」と力説してらした。
帰り際パンフを買おうと、相変わらず若い人でいっぱいの売り場に並ぶと、私のすぐ後ろにいた年上の男性も、店員さんに小さな声で「あ、自分もパーフェクトデイズのパンフを」と言っていて、またにこにこしてしまった。


これは、ファンタジーなのだと思う。平山さんという人の。もしくは平山さんそのものが。
スマホのアラームでも、目覚まし時計でさえもなく、自然と朝に目が覚める生活をしている彼。
起きて布団をたたむ。歯を磨く。洗った顔をふくのも、仕事場に携えていくのも、決まった白くて薄べったいタオル。朝はいつも同じ缶コーヒー、隣に人が居れば同じものをもう一缶。
‥愚直にも思える姿勢で自分のシンプルなルーティンを繰り返し、毎日毎日お仕事でトイレを磨く。余計な説明も内省も、あらすじさえほとんど(意図的に)省かれている、ドキュメンタリー以上に静かな作品。
映画を観た人は、大なり小なり主人公かれの生き方や暮らしそのものに憧れを抱くのではないだろうか。物や情報に囲まれすぎている自分の生活が恥ずかしくなってしまうほど、平山さんは必要最低限のものしか持っていないように見える。
一方で、小さな盆栽やカセットテープなど、好きなものはきちんと大切に愛している平山さんは、極端にミニマムな生き方をしている訳ではなく、ちゃんと人間らしい日々を送っているのだと見ていて安心もする。撮った写真を選り分ける時にもその判断にはブレがなくて、違うと思えばベリっとその場で破り捨てるその迷いのなさにも憧れる。
かと思えば、同僚が急に仕事をすっぽかして辞めてしまい、一人で全部のシフトを埋める羽目になった時にはちゃんと怒るし、女の子から急にキスされたら、ドギマギするけど嬉しそうだ。それが決して下卑て見えず微笑ましく可愛らしく見えるのは役所広司の力なのかも知れない。もちろん柄本さんだって良いけれど。
‥でも、それも全部ひっくるめて、ファンタジーなのではと思うのだ。一人暮らしの中年男性が、若い姪っ子と公衆浴場に行っても、ギョッとならない(近所のおじいちゃんたちが、「お?!」とはなる)。トイレは常に美しい。平山さんが磨く前から。映画では、公衆トイレの目を背けたくなるような汚い部分は映さない(セリフには出てくる)。この辺りのことはパンフレットの中の対談で作家の川上未映子氏も触れていた。川上氏はこの映画、主人公の造形について手放しで賞賛はしていなくて(と私は感じた)、それが逆に説得力があって心地いい。映画も小説も解釈はつねに人それぞれ。これも川上氏の言葉。確かに。
この映画は、まるでドキュメンタリーのように、精巧に「どこかにいる平山さん」のほんの一部を切り取っただけのように作られている。だが、平山さんを見ている私たちは、実際には現代の中で、自分はタカシか、それとも妹のケイコかも知れないと思いながら生きている。「ほんとにトイレ掃除してるの」と言ってしまうかも知れない自分を自覚しながら、必死で自分のパーフェクトデイズを探して生きている。私は、自分の日々の生活に何も不満はないし、幸せだと思って生きているけれど、それをパーフェクトだと言い切ることはまだ出来ない。平山さんだって自分の過去の選択や今の境遇に、満足こそしていても「完璧」だと常々感じながら暮らしているわけではないだろう。他の人が見てどう思ったとしても。
でもラストシーンは神々しい。あのシーン、スクリーンを見つめていると、ああ、この映画を観に来て良かったなぁと思えた。セリフなんて要らないのだ、本当は映画に、伏線とか、全米が号泣とか、ラスト5分であなたはまさか!と言うとか、なくたっていい。ファンタジーは必要だ。それを生きている人間として体現した役所広司は素晴らしかったと思う。
付け加えるなら、映画に入らなかったという田中泯のシーンは見てみたかったな。(「Some Body Comes into the Light」という短編フィルムとして編集されたらしい。)


最後に。木漏れ日が英語(に限らず他国の言語)にないことば だとは知らなかった。そんな特別で素敵なものを私たちは日常的に目にしていたのか。
朝、自然と目が覚めた時の喜びや、外で昼食を食べる時の解放感、仕事終わりにいつもの一杯をやる時の心地よい疲れ、その時は自分では見ることができなくても浮かんでいるであろう穏やかな表情。そして木漏れ日。それらは私たちだっていつでも手にしているものだ。

いろいろ書き殴ったけれど、劇場にいたあの女性のように、ニ回観たらまた印象が変わるかも知れないとも思っている。観終わった後も映画のタイトルがもたらしてくれたものについて反芻する日々。昨日は、同僚と映画について「あのシーンはどういう意味だと思った?」なんて盛り上がって楽しんだ。受け取り方が全然違った。今は、単純でミーハーな私は、幸田文の本を探して読もうと思っている。しばらくは家のトイレもピカピカにして毎日過ごそう。


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