見出し画像

制御不能な僕たちの日常 | 金原ひとみ『アタラクシア』を読んで

コロナ禍になってから、コントロールできないことが次々と目の前に現れ、戸惑うことが多くなった。仕事は止まり、旅には行けず、人には会えない。多くの人が同じように感じていることだろう。自分より悲痛な思いをしている人がたくさんいることもわかっている。だが、どんなにささやかでも制御不能なことが身に降りかかる不安な日々を長く過ごしていると、平穏な暮らしからは遠ざかっていると感じざるを得ない。

とはいえこの状況になる前から、制御不能なものは世の中にたくさんある。なかでも「恋愛」は、もっともコントロールが効かない感情のひとつだと思う。それは人に絶大な幸福を与え、その直後に絶望を与える。時として恋愛は、人々から平穏を奪い、戸惑わせ、混乱させる。

私たちの間にはなんの諍いも利害も邪推もない。ただ好きという気持ちだけで私たちはつながっている。その関係は信じられないほど単純で幸せで、皮膚から内臓まで気持ちがいい。彼と二人でいる間私は何も思い悩まない。彼のことと私のこと、二人のこと、今はそれだけが考えるに値するものであるという事実に目眩がしそうだった。

矢継ぎ早に挿し込まれる幸福な描写により幕を開ける、金原ひとみ『アタラクシア』。6人の男女を中心に、その周辺の人間関係を描き出す群像劇だ。「アタラクシア:外界からわずらわされない、激しい情熱や欲望から自由な、平静不動の心のさま(※)」という意味にふさわしい、まさに「平穏」な瞬間を過ごす主人公「由依」の視点から物語ははじまる。しかし、幸福な情景はこの初めの章のみだ。その後10の章から6人の視点で、大きく4つの物語が進み、恋愛によって複雑に人間関係がこじれ、苦悩する姿が描かれていく。

画像1

登場人物たちは、各々の「理想」を持ちつつも、生きていかねばならない(場合によっては死を意識せざるを得ない)「現実」を目の前に、矛盾や葛藤を抱えている。コントロールできない恋愛感情によって人間関係が拗れていく中で、平穏を掴むためにもがき続ける彼ら・彼女ら。たとえば、不倫をしている主人公(由依)に離婚を迫られた夫(桂)が、「俺は彼女を彼女の愛ごと握りつぶすだろう」と、暴力的な思考に至ってでも関係を保とうとする描写は印象的だ。自殺に思い至る人物(英美)もいれば、物語の中で一人称の視点では語られない、「荒木」という人物による若い女性への殺人事件が最終章で語られるなど、アンコントローラブルな関係や感情に対して、暴力や死をもって精神状態を維持させようとする姿も描き出される。

過剰なほど重苦しい物語で、多くの登場人物の気持ちに僕は共感ができない。だが『アタラクシア』を読んでいると、制御不能な感情で溢れるこの世界こそ、僕たちが生きている「日常」だよな、と思う。日々大量の情報に飲み込まれ、置かれた環境や人との関係性から生まれる多くの感情を、自分自身が受け止め切れていないことに気づく。コロナだけではなく、本来コントロールできないことだらけの世界で、人類は、思想で、科学で、経済で、ITで、ありとあらゆるものを制御可能にし続けてきた。怒りの感情すら”マネジメント”する方法が編み出されるほど、「なんでもコントロールできる」とあらゆる方向から刷り込まれた世の中で、自分がコントロールできないものなど見たくない。見たくないから、無意識に目を逸らし、無自覚に忘れている。しかし、この物語に出てくる登場人物たちは、苦しい現実から目を逸らすことはあっても、「現実から目を逸らしている意識」からは目を逸らさない。コントロールができない不快な体験や感情を、高い解像度を持って受け入れ、自覚し、咀嚼できなくとも「咀嚼する努力」をし、その結果苦しんでるように見える。それは現代の人々が忘れてしまった、現実を直視して思考する力のような気もする。

『アタラクシア』を読みはじめたころ、ふと思い立ち日記をつけるようになった。些細な出来事や感情の起伏を、1日の終わりに思い起こしながら書き綴る。上手くいかないことが毎日数多くあると再認識する機会にもなったし、生活の解像度をわずかでも上げられることに喜びを感じた。こんなに小さな工夫で日常の解像度が上がるのか、という驚きもある。僕にとっての日記は、この1か月で現実から目を逸らしてしまう自分自身の処方箋になった。それはもしかすると、ある人には写真だったり、ある人にはランニングだったりするのかもしれない。
コロナ禍になって、制御不能なことが目の前にむくむくと立ちあらわれるせいで、不安にかられ混乱している。けれど、そもそも何でもコントロールしようとすること自体が間違いだったと、この本を読んで思い直す。その事実に目を逸らさず、日々をじっと見つめ思考する。それが、遠ざかってしまった「平穏」な暮らしを取り戻すため、今僕にできることなのだと思う。

=====
(※)「アタラクシア」意味引用:コトバンク

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?