観賞


観賞

著者
小野 大介


 その日、彼は友人と待ち合わせをしていた。場所はとある映画館。

 一緒に観ようと約束したのだが、どうやらまたすっぽかされたらしく、時間になっても彼女は現れなかった。毎度のことなので慣れていた彼は、携帯電話で現在の時刻を確認した後、メールを送った。

『もしかして まだ寝てる?』

 今時ならLINEだろうが、当時はまだスマートフォンすら無く、二つ折りタイプの携帯電話だった。

 彼はその携帯電話をパーカーのポケットにしまうと、代わりにチケットを二枚取り出した。一枚だけのつもりが、一緒に入れていたので分けて取り出せなかったのだ。なので、彼女の分はすぐに戻した。

 そのチケットは買ったものではない、彼女が別の友人から貰ったものだ。一緒に観ようと誘われた際に、今みたいに予定の時間に来られないかもしれないからと預かっていた。

 それもいつものこと。だから損はしないが、一緒には観られないので、懐はともかく心は寂しかった。

 彼女が来てくれるのを期待してギリギリの時刻まで待っていたので、彼は急いだ。まずはトイレに行って小便を済ませ、それからコーラとポップコーンを買った。それらとチケットを両手に持ち、受付を抜けた。

 案内表示に従って移動し、スクリーンに入場。指定された座席へ向かった。

 すでに予告が始まっていて室内は暗かった。

 通い慣れた映画館とはいえ、自分で指定したわけではないから座席の場所がわからず、少しもたついてしまった。

 普段なら、近くもなく遠くもない真ん中の辺りを指定するが、そのチケットの席は一番後ろ。しかも通路のすぐ横だった。そのスクリーンの座席は中央に通路があって、彼らの席はその左側の一つ目と二つ目だった。

 彼女は前のほうが好きだから、きっと嫌がっただろうなぁ。

 そんなことをふと思いながら、椅子に腰を沈めた彼は、まずコーラを手すりの先についている穴に入れて、空いた手にポップコーンを持たせ、肩から下げていたカバンを取って隣の席に置いた。それからあらためて姿勢を整えた、ポップコーンをこぼさないように気をつけて。

 ようやく一息つけたところでちょうど予告が終わり、早くも本編が始まったため、間に合ってよかったと安堵した。

 すると、お腹の携帯電話がふいに震えた。そういえば電源を切り忘れていたと気づき、急いで確認すると、メールが一件届いていた。

 彼女からで、件名は無く、

『ごめん いま おきた』

 そんなカタコトな一文だけが書かれていた。

 彼は予想通りの結果だと知ると、怒らず、飽きれもせずに微笑んだという。単なる寝坊だとわかって安心したのだ。

 画面の灯かりが周りの迷惑になるかもしれないのですぐに電源を切るも、その際に軽快なメロディが鳴ったので、ドギマギしてしまった。

 ごめんなさい……。

 他の客に心の中で謝りつつ携帯電話をしまい、スクリーンに目を向けたところ、タイミングよく派手な爆発が起きたので、身体を震わせてしまうほどに驚いた。

 そのときに観たのは洋画で、大人気アクションもののシリーズだった。前々からとても楽しみにしていて、一人でも観に来るつもりだった。

 内容は期待以上の面白さ。これは私も同感だが、シリーズ随一だ。

 最後尾の席でも迫力は申し分なく、後ろの人を気遣う必要が無いので、案外快適だったとか。

 これで隣に彼女がいれば最高だったと、彼は残念そうに言っていたよ。

 ちなみに二人の関係だが、そのときはまだ仲の良い友人、単なる幼なじみに過ぎなかった。マイペースな姉と気遣い屋の弟、親分子分、猫と子犬のような、そんな関係だった。

 猫に例えた彼女だが、彼いわく、眠ると熊に変わる。一度眠れば冬眠中のように起きないのだそうだ。

 冒頭のインパクトあるシーンが終わると、主人公の日常をたどる回想へと切り替わる。小説で言えばプロローグが終わり、第一章の始まりだ。

 物静かで、寂しげで、儚い雰囲気が流れる。それもそのはず、主人公は愛する家族を失い、孤独なのだ……というシーンがしばし続いた。

 決して退屈ではないものの、どうしても落ち着いてしまうので、彼は今のうちにと喉をうるおし、食欲を満たす。もちろん、目は常に字幕を追っている。

 新発売の味のポップコーンとコーラの相性が今一つだとか、彼女は今頃大慌てで準備をしているのかなぁ、といった映画とは関係の無いことを、意識の片隅でアレコレ考えていたところ、字幕の下、最前列の席で、なにか黒いものが現れた気がした。

 ちょうど場面が切り替わったので、字幕を追っていた目をそちらに向けて確認したところ、それは子供の顔だった。逆光になった上半分だけの顔が、背もたれ越しにこちらを覗いていた。

 派手なシーンが終わった後だから退屈しているのかな、自分も似たようなことをしたかもしれないなぁ、なんて自分の幼い頃を思い出して、つい、にやけた。

 すると子供の顔が引っ込んだ。タイミングが良かったので、見ていたことや、笑ったのに気づいたのかもしれないと、少しばつが悪くなった。だがすぐに、親に注意されただけかもしれないと思い直し、映画に集中した。

 それからしばらくすると、また視界の下のほうで黒いものが現れた気がしたので、つい見てしまう。

 また顔がある。多分、同じ子供だ。先ほどと同様に上半分だけ覗かせていた。

 二度目ともなるとさすがに、落ち着きの無い子だなぁ、と思い眉をしかめた。自分もたいがいだったから他人のことは言えないが、それにしてもマナーがなっていないと、親はなにをしているのだろうと気になった。

 こちらをじっと見つめる視線が鬱陶しかったが、まだ子供なのだからしょうがないと無視をしていた。

 だがそのとき、ふと、ある疑問が頭の片隅を過ぎった。

 あれ? あの子、二列目にいなかったか……?

 気になって注目するも、顔はもう無かった。

 見間違えたかな、とスクリーンに視線を戻してまもなく、また黒いものが。どうしても気になるので再度注目すると、やはりそこに子供の顔があった。しかしそれは、一列目でも二列目でもなく、三列目の、しかも右端の座席だった。

 これにはさすがに困惑した。席に座っていることもできずに歩き回っているじゃないか。まだ幼いとはいえ、マナー違反にもほどがある。誰かが注意しなければ。

 躾のなっていない親も含めて怒りを覚えた彼は、その子供を睨みつけた。すると、またすぐに引っ込んだ。睨まれたことに気づいたか、それともついに注意されたか。とにかくこれでやめてくれるといいけど、と不安に思いつつスクリーンに視線を戻すのだが、顔はまた現れる。今度は四列目、左端の座席に。

 傍若無人な振る舞いに呆れてしまった。きっと、将来ろくな大人にならないだろうと憐み、今度こそ無視しようと視線を逸らしたのだが、そこである疑問が生じた。

 なにかがおかしい……とすぐに視線を戻したが、その途端に顔は引っ込んでしまう。だがすぐに別のところから現れた。次は五列目の、中央付近。

 やっぱりおかしい。いくらなんでも早過ぎる、あんなにすぐ移動できるはずがない。それにどうして誰も注意しないのか……。おかしい、絶対におかしい……。

 そう考えている間にも、子供は、六列目、七列目と移動を繰り返して、八列目から顔を覗かせたときには全身が震えた。あれは生きている人間じゃないと気づいて、戦慄を覚えたのだ。背筋に氷の塊を押しつけられた気分だった。

 九列目。

 十列目。

 いつしか、その子から目が離せなくなっていた。

 身体が、腕が、足が、椅子や手すりや床に張りついて動かせない。

 金縛りだ。

 十一列目。

 十二列目。

 十三列目。

 もう、すぐそこまで来ている。

 嫌だ、怖い、来るな、逃げたい、動け、動いてくれ!

 切なる願いは虚しく、顔は消えてもすぐに現れる。十四列目、すぐ目の前にある座席の背もたれの向こうに。

 上半分だけの子供の顔は半透明で、前の席に座っている人の頭に重なっていた。後頭部にも顔があるかのような光景で、ひどく不気味に見えた。その顔は無表情で、なんの感情も見られない。血の気も感じられない。何故なら色が無いのだ、モノクロだ。だから眼も黒い。インクで満たされたかのような小さな穴が二つあるだけだった。それが、覗き込むようにこちらを見つめていたのだ。

 怖くてたまらなかった。目を瞑りたかった。顔を逸らしなかった。逃げたかった。

 しかし身体は言うことを聞かない。一切動かない。なにもできず、あっちへ行けと、消えてくれと懇願することしかできなかった。

 するとまた、子供の顔が引っ込んだ。消えるように、すーっと……。

 願いを聞き入れてくれたのだと、いなくなってくれたのだと喜ぶも、身体は動かないままだった。そのことに気づき、どうしてかと苛立ちを覚えたところ、まっすぐ前を見つめるように固定されていた視線が勝手に下を向き、開いた足の間から浮き上がるように現れた、子供の生首を見た。

 それは、腹から胸へ滑るように登ってきて、お互いの目の高さが同じになると止まり、にやぁ、と笑った。昔を思い出して、ついにやけてしまったかのように。

 そして、消えた……。


 彼は悲鳴を上げた。絶叫して、泣き喚いた。

 それは無自覚だった。気づいたときには大声を発していて、その瞬間に声が出せることや、いつの間にか金縛りが解けていることを知った。

 当然、慌てて逃げ出そうとするも、それは叶わなかった。何故なら、周りの観客たちも一斉に悲鳴を上げ、彼よりも先に席を立ち、出口へと押し寄せたからだ。

 皆、我先にと強引に出て行ってしまった。

 耳をつんざかんばかりの悲鳴の嵐と、自分以外の観客全員が一斉に立ち上がった光景に驚いた彼は、咄嗟にその身を硬直させてしまった。そのために逃げ遅れて、気づいたときには独り取り残されていた。

 そのことを理解した彼は、思い出したようにまた悲鳴を上げた。大慌てで席を立ち、出口へと走った。途中で足がもつれて転んでしまったので、這うようにして外へ出た。

 受付のあるホールに行ってみれば、彼よりも先に飛び出していった大勢の人々が、数人の係員を取り囲んでいた。皆、一様に青ざめた顔をして、子供の顔が、生首が、と口々に訴えていた。


 どうやら、あれは、全員を観ていたらしい……。


【完】


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