すれちがい_note_


すれちがい

著者
小野 大介


 耳障りに思えた蝉の鳴き声や、うだるような暑さがちょっぴり懐かしくなってきた昨今、いかがお過ごしでしょうか。

 すっかり涼しくなりまして、日課の散歩も面倒に思えなくなり、容赦なく肌を焼く太陽への憎しみもどこかへ行ってしまいました。これで鬱陶しい天敵の蚊さえいなければ、本当に暮らしやすい季節なのですが。

 さて、私は近頃、人間観察を始めまして、大事なお勤めのかたわら、退屈しのぎも兼ね、門前の道を行き交う人々の姿をこっそりと眺めております。これが案外面白いので、いっそ趣味にして本格的に楽しんでみようかと思っているのですが、そんな矢先のことでした、ある問題に直面してしまいました。

 “悩み”と言い換えてもいいでしょう。

 事の始まりは、夏休みが明けてしばらくのことでした。

 朝、お父上様、お嬢様、お坊ちゃまの順に慌ただしくご出勤なさいまして、お一人残られたお母上様が、私の朝食をご用意くださるまでのひとときの間に、門前の道を二人の男女がすれちがったのです。

 男性のほうはお坊ちゃまと同じ高校に通われていると思われます。昔ながらの黒い学生服、いわゆる学ランを着られていましたので、まず間違いありません。

 一方の女性ですが、これまた奇遇にもお嬢様と同じ制服を着られていまして、ですから女子高生でございましょう。ちなみに私学で、制服はブレザーでございます。ネイビーのジャケットにグレーのスカート、胸元には赤いリボンです。

 二つの学校は別々の方向にありまして、お坊ちゃまは門を出られると右手に、お嬢様は左手に曲がられます。そして件のお二人も、月曜から土曜日までの毎朝、門前の道を通られます。通り道なのでしょうね。それは夏休みの前からずっとそうで、明けた今も変わることはありません。ただ、いつしか通勤のお時間が同じになり、そのときのように門前でちょうどすれちがうようになっていました。

 おやおや、お二人さん、今日もお早いご出勤でございますね。うちのお坊ちゃまと違って規則正しいこと。ご立派、ご立派。

 そのとき私は、重ねた腕を枕にして横になり、大切なお勤めを怠けながら、今朝もまたすれちがうとは本当に規則正しいお二人だと、あくび交じりに感心していたのですが、お二人がすれちがった際に見せたある動きに気づいて、ハッとしました。息を飲みました。そして思わず立ち上がってしまいました。

 同時ではなく、わずかな時間差はありましたが、お二人とも少し振り返り、すれちがった相手を目で追ったのです。どちらもすぐに前を向きましたので、多分にお気づきではないでしょう。ですが、私は気づいてしまいました。この自慢のつぶらな瞳を誤魔化すことはできません。

 これはなにかあると感づいた私は、その日から毎朝、お二人の一挙一動に注目しました。するとなんと、お二人はまるで示し合わせたように、ほぼ同時刻に門前の道を通られているではありませんか。しかしいつもただすれちがっては、相手の後ろ姿を目で追うばかりです。

 傍観者に過ぎない私ですが、毎朝すれちがっては相手のことを気にかけるお二人の姿を見続けていますと、なんとも言えない気持ちになってしまい、食事も手がつかなくなりました。いつもならお代わりをせがむところなのに、最初に出された分だけで満足してしまいます。

 この妙な気持ち、どう表現したものでしょう。胸の辺りがこう、もやもや、ざわざわとするのです。でも、もやもやもざわざわも、表現として正しくないというか、なにかがちょっと違う気がします。もっとこう、これだと思える言葉があるような気がしてならないのです。

 例えるならば、そう、三丁目にお住いのサクラさんのことを思い浮かべると、似た気持ちになりますね。二つ隣のユキちゃんや、近所の豪邸にお住いのリリお嬢様、商店街を根城にされているアン姉さんのことを思い出しても、そんな気持ちになります。

 そのことから察するに、これはきっと“恋心”の類ではないでしょうか。

 恋心……それは、お坊ちゃまと共謀してつまみ食いをしたジャムのように甘酸っぱく、それでいてお嬢様が渡せずじまいだったチョコレートのようなほろ苦さがあるものでしょうか。なんて、実際はお砂糖が少なすぎて苦いばかりで、一舐めするのが精一杯でしたが。ビターにもほどがありますな。あれは渡さなくて正解だ。

 あとは、そうですね、チーズが持つ不思議な魅力でしょうか。お父上様の晩酌のお供をしたときに頂戴したのですが、なんでしょうね、あのかぐわしいまでの香りと濃厚なまでの旨味。あのときの味を思い浮かべると無性に食べたくなり、もやもやしてざわざわして、居ても立っても居られなくなります。

 そうだ、そうです、あのなんとも言えない気持ちの正体こそが恋心なんですね。きっとそうに違いない。

 おっと、話が横道に逸れてしまいましたね。申し訳ない。ついつい話が長くなってしまうのが私の悪い癖です。

 とにかく、恋心に疎い私ですが、それでも、お二人の行動を見た瞬間に気づいたわけです、二人は恋をしているのだと。

 毎朝、おはようの一言も交わせずにすれちがう、それだけの密やかな関係なのだと。

 雨の日には傘の下からそっと相手のことをうかがう。

 すれちがいざまに声をかけようとして立ち止まるも勇気が出ず、タイミングも合わなくて、また前を向いて歩き出してしまう。

 そんなプラトニックラブの行く末を、私はこっそりと見守っていたわけです。

 しかし、ある朝のことでした。お父上様たちをお見送りし、お母上様がいらっしゃるのを待ち焦がれつつ、私はいつものように門の外を眺めていたのですが、お二人は現れませんでした。

 どうしたのだろうと小首をかしげて待っていると、ようやくお二人が通られたのですが、やってきたのは別々の時間で、いつものようにすれちがうことはなかったのです。

 ええ、もちろん戸惑いましたとも、困惑しましたとも。これはどうしたことかと、まさかまさか、お二人の恋の炎は燃え尽きてしまったのかと愕然とし、人魚姫の如く水泡に帰してしまったのかと唖然とし、希望という名の芽は虹色の花を咲かせずに枯れてしまったのかと茫然となってしまいました。

 さすがの私も、そのときの衝撃には耐えられず、その日ばかりは日課の散歩も満足に楽しめず、食事も喉を通りませんでした。

 ですが大丈夫、翌日には気持ちも切り替わり、昨日の分までしっかりと平らげました。いつもなら食べ飽きているゴハンも、一食抜いただけで美味しいと感じるのですから、不思議なものですねぇ。

 で、それから数日後の朝のことです。

 私はすっかりお二人のことを忘れて、朝食後の満腹感と余韻に浸っておりました。行儀悪くも仰向けになって、清々しいまでの青空を眺めていたのです。

 するとそのときでした、門前の道を通る人影がありました。無論、大事なお勤めを忘れていない私は、顔だけでも向けて注目したわけですが、それはなんと件のお二人でした。

 私はすぐに飛び起きました。ええ、それはもう、そのまま空へと飛び上がってしまうのではないか、というほどの勢いで。それぐらいの驚きと衝撃でございました。だって、お二人はそっと寄り添って歩いていたのですよ、手まで繋いで。

 気恥ずかしいのでしょう、照れくさいのでしょう、お二人とも頬や耳を紅潮させておりました。

 おやおや、お二人さん、今日はすれちがわないのですね。これからデートですかな?

 私は嬉しくなり、ついついそんな野暮なことを聞いてしまいました。するとお二人は、なんとも愛らしい笑顔をこちらに向けて、小さく手を振ってくれました。

 幸せの見本のようなそのお姿はすぐに見えなくなって、私はまたごろりと横になりました。そして、より一層青く美しく見える天空を仰ぎました。

 いやはや、なんて良い天気なのだろう。こんな素晴らしい日には、ぜひとも散歩に出かけたいものだ。ねぇ、どなたか連れ出してはもらえませんか?

 なんて問いかけをしてみましたが、残念ながら、私の声は誰にも届きません。

 何故なら、その日は日曜日でした。ご家族の皆様は、せっかくの休日だからと朝も早くに出かけてしまわれたのです。

 私はまた、ひとり置いてけぼりでございますか。今日も今日とてお留守番でございますか。件のお二人はもうすれちがわないというのに、私の想いは日々すれちがうばかりでございますなぁ。

 大人げ無くも拗ねた私は、そんな不満をこぼしつつも、ご家族の皆様が無事に帰られることを祈っておりました。お土産にチーズを買ってきてはくれないかと、ささやかな願いもついでに抱いて。

 さて、前置きの近況報告はここまでにしまして、いい加減本題に入りましょう。

 いま私が抱える悩みですが、よりたくさんのチーズを食べるにはどうすればよいのでしょうか? 満足するまであの味を堪能したいのです。お父上様にもっと恵んでもらいたいのです。

 件のお二人をきっかけに、恋心について考えさせられてからというもの、チーズへの愛が、想いが、日増しに強まってしょうがないのです。

 ああ、恋しい。チーズが恋しい!

 ご近所にお住いの皆々様、私のこの切実な悩みを解決できる良案がもしもございましたら、お散歩の際にでも一吠えおかけいただけませんでしょうか。

 どうかどうか、宜しくお願い申し上げます。

 一丁目のしがない番犬より。


【完】


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