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だめライフの政治性と新自由主義

 だめライフの政治性に関する議論はTwitterを中心に数多くなされている。中大だめライフ(以下、中だめ)は「だめ連」や「法政の貧乏くささを守る会」の影響を受けているし、東大だめライフは自身の活動をアナキズムの実践であると明言している。そのため、一般的にはノンセクト系学生運動の一種だとされているようだ。

 だめライフは既存の政治セクトとは異なり面白いことの中にイデオロギーを込め、自由や自律を求めていく運動だという指摘があるが、自由や自律という点においてはその通りである。

 しかし、ここで重要なのは、中だめのスタンスに関してはいわゆる「ワン・イシュー」であるということだ。つまりキャンパスの自由・自律を追求していくが、それ以外の政治的イシューには基本的にノー・タッチのスタンスということを意味する。

 中だめはアナキストもしくはリバタリアンを自認しているが、正直なところ全ての政治的イシューに関心があるわけではない。「半径2メートル」の生活問題に関しては関心を持つが、その圏外にある事柄に関してはとりたてて関心はない。少なくとも、だめライフという範疇ではタッチする気はない。エゴイズムであるとかプチ・ブルであるというそしりは免れないだろうが、あえてここでは開き直ることにしたい。

 そもそも、だめライフは政治結社ではない。他の政治的イシューに関しては数多ある政治結社が立派に担ってくれている。各人ができることをやればいいのだ(役割分担)。したがって、だめライフへ過度な政治的期待はしないほうがいいだろう。

 これは他のだめライフが政治性を持つことを否定するものではない。だめライフとは「一人一派」なのだから他人の方針に口を挟む権利はないからだ。あくまでも中だめはそういう方針であるということである。

 このような中だめの方針は、宮台真司の言葉を借りれば「社会という荒野を仲間と生きる」ということであり、御田寺圭の言葉を借りれば「マイクロ共同体主義」ということになるのだろうか。

 これは、新自由主義社会を生きる昨今の若者の「社会の変革ではなく自分とその周囲の世界を豊かにしていくことに重きを置く」意識を反映していると言えるのではないだろうか。

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