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【小説こぼれ噺】寧波の乱

 寧波の乱、非常に難しいですね。

  小説第三話のネタとして取り上げている訳ですが、おいそれと書き込めない。

  というのは、担当した僧侶たちの情報が少なすぎる上に、細かい日付がわからない……と思っていたら、「明実録」というものに、嘉靖帝(世宗)時代の記録があり、そこに「嘉靖二年六月甲寅」とあるんですね。

  この歳の甲寅が何日か?がとっても重要なので、調べようとして意外と苦戦していましたら、こんなものが。 

 

和暦から西暦変換(1ヶ月表示)指定された和暦年月の1ヶ月を西暦年月日に変換します。

keisan.casio.jp

  こちらのサイトによれば、六月甲寅は六月十五日ということになり、一応これで進めていこうと思っています!

  この歳の遣明船は大分遅い到着で、通常春か前年の秋に出発して夏の間に帰着する形なのが、晩夏に寧波で事件を起こしています。

  この寧波の乱というのは、教科書にさらっと載っていればいい方なんですが、この後、倭寇の勃興をもたらした原因であり、日本と明の対外政策の間で、民間交流によって、社会的変化が著しかった東アジア全体を見渡す歴史観を育てるのですが、教えないことによって、当時の海洋交易の広がりを認識する機会を損なわせている気がするのです。

  これは、室町後期(戦国前期)にも同様のことが言えます。あまりにも、サラッとしか教えない上に戦国時代といえば信長・秀吉・家康みたいな流れ。いや、それ戦国後期よりも安土桃山時代ですし。

 今回、利休の小説を書こうとして、細川政元あたりから調べ直していくと、今まで知っていたつもりだった戦国観がガラッと変わってきます。

  当時の人々も、戦争より経済優先であり、経済の範囲内で戦争しているんですよね。

  ザル勘定では、大名家も破綻する訳ですから、経済感覚に鋭い人たちが沢山いますし、商人たちがそれぞれの大名を支えています。

  いうなれば、大名が商人たちの代理戦争をしているようなものです。

  大内氏と細川氏の対立は、博多商人と堺商人の対立ですし、六角氏と細川氏の対立は堺商人と近江商人の対立です。

 更には、細川氏は堺から淡路島、阿波、土佐から南九州という南海航路から琉球経由で寧波へ。大内氏は瀬戸内航路で博多を経由して五島列島から支那海航路で寧波へ渡っています。

 このため、堺は外国情緒豊かな国際港として発展したわけです。

 支那海航路は70〜80日、南海航路は120〜130日ほど掛かったとか。

 次は大永三年の遣明船の日程を調べていきたいと思います。

 

 こうした別の面からの組み立て、大事です。

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