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「アメリカの影」ジョン・カサヴェテス監督/人間の本質に迫るとは

1965年アメリカ映画。台本なしの「即興的演出」が評価されジャズ映画とも呼ばれる、あのカサヴェテス監督の長編第1作目。

ブレードランナー2049」や「最後のジェダイ(評を書くか迷い中)」の遊園地のアトラクションのような映画にすっかり疲れてしまい、心の渇きを癒したく藁をも掴む思いで選んだ。

「アメリカの影」は期待にしっかりと応えてくれた。

多くの映像作家が『もっとも影響力のある作家』としてカサヴェテスを挙げる事実に完全納得。(特にジャームッシュはこの作品を敬愛している気がする)

見終えた今、心の渇きを潤してくれただけでなく、自分の作家活動の方向性の指針も示してくれた気になっている。素晴らしい作品。

監督・編集:ジョン・カサヴェテス
出演:レリア・ゴルドーニ、ヒュー・ハード、ベン・カラザース
音楽 チャールズ・ミンガス
撮影:エリック・コルマー 製作補:シーモア・カッセル

あらすじ
ニューヨークに住む、ヒュー、ベン、レリアの兄弟には黒人の血が流れていた。兄のヒューは完全な黒人、2人の弟妹は、強く白人の血を受けていた。ヒューは歌手として高名であったが、今ではストリップ劇場に出演するほど落ちぶれていた。真ん中のベンは人種差別に絶えず苦しめられ、非行に走り、白人として通用する肌をもつレリアは、独立したい欲求を秘めて男を渡り歩く。兄弟の中に流れる血に反撥しながら、三人三様の道を求めて生きる姿を描いた作品である。ー参照:Movie Walker

<感動>の中身
主人公登場の姿が洗練されており、NYの街並みが美しい。
ジャームッシュを彷彿とさせる世界観はとにかくかっこいい。
が、それが「アメリカの影」の<素晴らしい>所ではない。

編集はやや雑で撮影の構図も<?>な部分もあり
「カサヴェテスも初心者だった頃があったんだなあ」
などと上から目線で見始めていた。

我ながらアホであるが、兄弟3人の肌の色が違うという作品の大前提を見落としていた。
3人の繋がりが分からず混乱しながら見ていたのだが、不思議と30分経過するころには兄弟の困難に感情移入をするようになっていた。

生きることは難しく、葛藤と対峙するのは孤独な作業。テーマの分かっていない自分でさえ哀れみを抱くと共に激しく共感してしまうパワーがあるのだ。

終盤で映画の大前提に気づき自分を恥じたが、この大前提がなくても心を動かされながら見入っていた事実に驚愕した。

<<面白い所以は物語にあるわけではないのか?>>
(作品の大前提を理解した方が深い洞察を持って楽しめたと思うが)
ということを証明された気がした。

カサヴェテスの作品の多くは主人公の感情を頼りに、物語を発見していく感覚があるが「アメリカの影」も同様、説明的なシーンが殆ど無いため人間関係や役者の演技だけを頼りに何が起きているのか探らなくてはならない。

特にこの作品はダイナミックな物語の動きは無いので、感情が顕著に浮き彫りになる。
普通、ダイナミックな物語がなければ感動などしない気がするのだが…この作品は極めて例外。そして、そこがカサヴェテスの凄さなのではないかと思う。

共感させる演出とは

正直なところ、カサヴェテスの演出は自分には謎だらけで魔法にさえ感じられる。
「いやーわからん」と言ってしまえばそれまでなので、頑張って考察を加えてみようと思う。

感情の動きだけで人を感動させるのは非常に難しいことである。
なのでカサヴェテスは天才的な演出力を持っていると思うのだが、感情の動きだけで感動させる、ということはどういうことか。

例えば、多くの“感動モノ”の構造を見てもらえると良くわかると思う。

大前提に<乗り越えられない壁>(例:難病、スポーツの大会�、シスの父)が提示され、主人公がその乗り越えられないはずの壁を乗り越えようとする姿に共感し、乗り越えた所で感動する、という仕組みになっているはずだ。そして大抵、この壁はわかりやすい物理的な葛藤であることが多く、誤解を恐れずに言えば、その方が観客は簡単に感動できるし作る方もアイデア勝負だけで感動を誘える。

大抵、この構造が透けて見えてしまうので感動モノの映画を見て泣くことは自分にとって困難である。

「アメリカの影」はいわゆる泣ける感動ものではないが、泣きたくなるエンディングであった。
何故か。
考察すると、作品の主軸に<アイデンティティ(=人種)>という、いわば誰もが持つ精神的な困難を持ってきているからではないか。

乗り越えられない現実ともがく姿からかつての(あるいは今も)自分を見出し、壁が乗り越える/乗り越えないで語れるような簡単なものではないと登場人物と共に実感していく。
だけど、人は生きていかなくちゃ行けない。
その当たり前のことを見せつけられ、生きることと対峙するしか方法はないと登場人物が納得する姿に、観客は光を見出すのである。

自分は己の生と向き合う姿は、その方法はどうであれすごく美しいのだと。

作ってみるとすぐに気づくと思うが
登場人物の内面を画面に映し出すのは、本当に難しい。<物語主導>にしてしまえば、観客は物語の展開に引っ張られ精神面は付属品としてしか取り扱われない。

<人は生きていかなくちゃ行けない>というテーマはという映画と肉薄していると思うが、例えば後者の映画は、例外をのぞいて現実の自分の生活の設定と離れている。現実で恋人はそうそう死なない。映画を見たその日は想像力が刺激され「私にはあなたがいてくれて幸せだわ」と実感するかもしれないが、一晩寝れば忘れてしまう。恋人が死んでも人生は続く>

「アメリカの影」は…逃げられない真実を語っている。かつて自分が感じていた葛藤。今日も乗り越えられていない葛藤を見せつけられるので感動は一日で終わらない。どこかでふと思い出してしまう、感動に持続性のある作品なのである。

音楽がCharles Mingus
映画を見るモチベーションの1つにミンガスがいたことを書いておきたい。

ミンガスは個性的な音楽を奏でるミュージシャン、ジャズベーシストである。つい先日、夫とも、ディジー・ガレスピーや、ソニー・シャロックは「アフリカ」の音がするけど、ミンガスは「アメリカ」の音がするのは何故かなどと真剣に語ってしまうほど、自分にとってミンガスはアメリカであり、その暗部を音楽で代弁してくれるような存在である。

この映画でミンガスは即興演奏をしているそうだ。
思ったよりもミンガス節が前面に出てはいなかったが、音楽を彼が担当しているという所に大きな意味があると感じた。

ミンガスの人生もまた奇異なものであり、その背景と共に彼の音楽はあると思うと一層楽しめるのだが、そんな彼にアメリカの影を表現させるという監督の意図に、やはり痺れてしまう。

まとめ

即興演出について語りたかったが、話が長くなるのと感動の根幹と結びつける能力が今の自分には無さそうだったので割愛させてもらった。

兎にも角にも多くの観客がカサヴェテスを『偉大なる映画監督』と認識する未来を夢想しながら作品を作る。

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