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アンソニー・ボーディン『キッチン・コンフィデンシャル』感想

アンソニー・ボーディン。1956年ニューヨーク市生まれ。フランス人の血を引く父親はコロンビア・レコードの重役、母親はジャーナリストという恵まれた環境で育つ。温室で甘やかされ、苦労せずともそのまま上流階級の大人になるのだろうと純粋に信じていたボーディンは、少年時代にバカンスで訪れた父親の祖国フランスの地で、食の楽しみに目覚める。飛び級で高校を卒業し、ヴァッサー大学に入学。友人から紹介されて始めた皿洗いのアルバイトで起こったある出来事をきっかけに、シェフになろうと決心し、大学を中退。料理学校を卒業後、様々なレストランを渡り歩き、1998年、当時大人気だった、マンハッタンにある「ブラッスリー・レアール」のシェフとなる。
本著は、そんな彼が経験した料理業界のすべてを暴いた自伝的小説である。

何と美しく機知に富んだ文体なのだろう。滑らかに溢れ出す食材、調理器具、調理法、料理名は文学的としかいいようが無く、彼にとってコックという仕事がいかに“見知ったもの”であるかを思い知らされる。風景や人物の描写力も素晴らしく、フランスで初めて生牡蠣を食べた少年時代のきらきらと輝く夏の日々、野蛮な料理人たちが厨房で交わす会話の一つ一つが、まるでドキュメンタリー映画を観ているかのごとく鮮明に想像出来る。
語彙が豊かな上、文章を書くのがあまりに上手いので、読んでいる最中に何度もお腹がグーグーと鳴って困った。ニューヨークのレストランで供される料理は簡単に作れるものでは無いので(私はほぼ和食しか作れない)何とか我慢出来たが、「ミッション・トゥー・トーキョー」の章は気が狂いそうになった。その章で、ボーディンは「レアール」の東京支店で出される料理を本店レベルになるよう指導するべく、1週間東京に滞在することになる。彼は蕎麦や寿司、刺身、しゃぶしゃぶ、日本酒等を絶賛し、築地市場をテーマパークのように楽しみ、たった1週間の“ミッション”に何頁も費やし丹念に日本食の素晴らしさを説いている。そのせいで、ダイエット中にも拘らず我慢が臨界点に達し、思わず寿司をウーバーイーツで頼んでしまった。久し振りに食べる寿司は最高だった。
『YOUは何しに日本へ?』のような、外国人(というか白人)から日本文化を褒められるのを放送するテレビ番組はよくあるが、未だに西欧偏重主義的というか、白人コンプレックスを抱えているのが情けなくなる。白人から褒められないと自国の文化に自信を持てないのか?随分と屈折したナショナリズムだ。
私は日本の食文化に誇りを持っている。豊かな魚料理の品々、多層的な味わい、素材そのものの良さを引き出す調理法、油より水をよく使うところも独特だ。国内旅行で色んな土地を訪れたが、小さな島国でありながら各地に郷土料理があり、そのどれもが思わず笑みが溢れるほど美味しい。日本酒も大好きだ。それを、20年以上プロとして料理業界に携わり、美味しい料理を作り、食べてきた彼が絶賛してくれるのは、素直に喜ばしい。

若き日のボーディン青年が当時の同僚たちと行った悪行の数々は、度が過ぎているものばかりであるのに(しかし、これでも書けることに限っていると来た)、どうしてこんなに魅力的なのだろう。口も手癖も悪く、ジャンキーばかりで、エストステロンに溢れる「海賊のような」男たち。『アネット』の感想文でそんな男性社会を批判したにも拘らず、舌の根も乾かぬうちに褒めそやす自分はまったく信用ならない。
フォローになるかは分からないが、彼らは男同士であってもセクハラをするし、白人ですら「白んぼ」と呼ぶ。彼らにとってスラングは挨拶のようなものなのだ。その代わり、店にとって有益な人物であれば、性別も年齢も出自も人間性も一切問わない。寧ろ、ボーディンは料理業界以外ではとても受け入れられないような社会不適合者を心から愛していた。インテリでありながら、下品なスラングに満ちた会話を美しいとさえ感じていた。読者である私にも、それは十分に理解出来る。

本著の日本語訳が出版されたのは2015年のこと。そして2018年、61歳の若さでアンソニー・ボーディンは亡くなった。死因は首吊り自殺。
ボーディンを知ったきっかけは本著だった。彼が亡くなったニュースもリアルタイムで知った。となると、2015年から2018年の初めのあいだに彼の存在を知ったことになる。
私に本著を薦めた人間は、最低最悪のクソ男だった。女と下ネタが大好きで、180センチ以上あるがっちりした体躯に、生粋の日本人だが南米人のような堀の深い顔立ち、眼窩の奥に沈む暗い瞳。千代田区に林立する高層ビルのどこかにオフィスを構える大企業の社員である彼は、文章を書くのが趣味で、いくつか自作の本を出版していた。それが偶然、何人かのそれなりに知名度のあるミュージシャンに読まれ、宣伝され、多数の読者を得た。彼の作品が一部のインディーズミュージシャン界隈で有名になっていく過渡期に、ファンの一人だった私は、どういう経緯だったか定かではないが、ツイッターのDMを介して彼と会うことになった。その晩に、私たちはセックスをした。それ以降、毎日のようにLINEでやり取りし、ウェブ上で交換日記(ウケる)もしていた。仕事がとにかく多忙な彼の呼び出しは、いつも突然だった。「今日会える?」どころでは無い。「今から会える?」が彼の誘い文句だ。彼は所帯を持っていた。だから付き合うことは無かった。かといって、たとえ独身だったとしても、面食いで巨乳好きの彼が、そのどちらでも無い私と付き合うとは到底思えない。そして強がりでは無く、私も彼と付き合いたいと思うことは無かっただろう。彼の人間性は本当に最低だった。好き嫌い以前に、最低だなと常々軽蔑していた。
しかし、彼の書く作品は美しかった。詩とも小説とも呼べないような粗野な言葉遊びをすることもあれば、セックスと暴力に満ちた、しかし途轍もなく情緒の溢れる、繊細で美しい散文を書くこともあった。単語を羅列させる私の散文的な文体は、明らかに彼の影響を受けている。

料理業界との思い出。最初のアルバイトは高校生の頃。校則で禁止されていたが、部活に所属しておらず、暇を持て余していたので、こっそり始めた。場所は、東京ドームの近くにあるデニーズ(昨年閉店したらしい)。当時、高校生では破格の時給(1000円)に惹かれ、ウェイトレスとして働くことになった。これがもう、とにかく大変だった。今まで経験したアルバイトの中で一番多忙で、体力を消耗した。「東京ドームの近くにある」と書けば察しのつく通り、野球やライブ後の店内は常に満席だった。団体客が来ることも多い。
席は左右2つのセクションで分けられるのだが、それぞれ30席ほどあり、どんな繁忙時だろうとウェイター/ウェイトレスは割り当てられたセクションをたった一人で受け持たなくてはならなかった。ボーディンが働いていたレストランのように、ウェイター/ウェイトレス(注文を受ける係)、ランナー(出来上がった料理を提供する係)、バスボーイ(皿を片付けたりテーブルを整える係)と業務が分かれているわけでは無い。すべての業務を自分一人でこなさなければならない。団体客の雑多な注文を受けた後、急いで厨房へ向かい出来上がった熱々の料理を家族連れのテーブルへ運び、奥のテーブルに残された食器を片付け、コーヒーポットや水のピッチャーを片手に空いているグラスやカップが無いか巡回し、その上(今は知らないが)、デニーズはドリンクバーが無いので飲み物も作らないといけない。ジャイアンツファンのジジイたちが一斉に生ビールを頼む。焦ってビールの半分近くが泡になってしまったら二度手間だ。てんてこ舞いのさなかにビールサーバーが空になり、裏手から金属製の重たいビール樽を引き摺り出し、四苦八苦しながら交換する。別のテーブルから注文する声が聞こえる……。
要領が悪く、無愛想で、すぐパニックになる私はいつも、ホンジャマカの恵俊彰似の雇われ店長に怒鳴られ、泣きながら仕事をしていた。唯一得意だといえる仕事はビラ配りだった。平日の午前中やランチタイムの後など、暇な時間帯はよくビラ配りをやらされた。デニーズの制服に身を包んだ女子高生パワー恐るべしといったところだが、ポケットティッシュ付きでも無い本当にただのチラシに過ぎないのに、ほぼ断られること無く受け取って貰えた。中には、「それちょうだいよ」とわざわざ声を掛けてくる人も居た。
しかし、ストレスが酷く、自分が居ることでかえって迷惑を掛けている自覚もあったので、半年で辞めた。

その次は、大学に入学して間も無い頃。自宅の近くにあるバーでアルバイトをすることになった。40代後半くらいの雇われ店長の補佐といったところか。店長は主に料理や複雑なカクテル作りを担当し、私はビールやワイン、サワー、簡単なカクテル作り、皿洗い等を任された。カクテルの種類は2、30種類近くあり、ジントニックやカシスオレンジといったそのままなものはすぐ覚えられるが、モスコミュール、チャイナブルー、スクリュードライバー等の凝った名前のものになると、どのリキュールを何で割るのかまったく覚えられない(なんせ種類が多いので、たまにしか注文されないものも多くある)。メジャーカップの配分もカクテルによって様々だ。
バーと聞くと、チェット・ベイカーの甘い歌声をBGMに、大人の男女が静かに知的な愛の言葉を囁き合うような、都会的で洗練されたイメージがある。少なくとも18歳の私はそうだった。しかし、アルバイト先に選んだそのバーは、地元の常連客が我が物顔でどんちゃん騒ぎする、大衆居酒屋でもなかなか見掛けないような低俗極まる店だった。客から酒を奢られる場合は、必ずテキーラのショットグラス一気飲みと決まっていた。30〜40代のサラリーマンを中心とした客層は最悪だったが、ラルク・アン・シエルのkenに似ている店長は温厚な人柄だったので、何とか続けられていた。
働き始めて数ヶ月後、駅の反対側に姉妹店が出来た。新しいスタッフも雇われたが、元々本店に居た私たちは両方の店を兼務することになった。姉妹店はワインを売りにしており、赤、白、スパークリングとそれぞれ10種類くらいずつのワインの銘柄と年代、味の特徴を数日で完璧に頭に叩き込まねばならなかった。カクテルすらまともに作れない私は、スタッフの中で一番覚えが悪かった。指導をするのはオーナーで、恰幅がよく、見るからに体育会系。どんなに些細なミスであっても、さっきまで穏やかだったのが瞬間湯沸かし器のように顔を真っ赤にしてヒステリックな怒声を浴びせてくる。仕事も出来ず、その上なよなよした根性無しの私は格好の的になり、書き入れ時のクリスマス直前に電話で「もう辞めさせてください」と泣きながら伝え、未払いの給料を取りに行くことも無くその店から去った。
それ以来、飲食業界では働いていない。接客が苦手で、体力も無く、忙しいとすぐ頭が真っ白になる私にこの業界は向いていない。『キッチン・コンフィデンシャル』を読みながら、この考えはより強まった。飲食業界は心身ともにタフじゃないと務まらない。

アンソニー・ボーディンは、当時のロンドンパンクやヴェルヴェッツなどを愛聴し、ありとあらゆるドラッグに手を染めた。訳者のあとがきによれば、「料理界のルー・リード」とも呼ばれていたとか。
かつての友人の一人に、家業を継いでオーナー兼料理長を勤めている男が居た。こぢんまりとした家庭料理の店だ。彼はクソ男では無かったが、アル中のジャンキーではあった。いつもジンの酒瓶を持っていて、定休日は店にジャンキー仲間を集め、爆音で音楽を鳴らしながら(時にはDJ機材を持ち込んで)ジョイントを回し吸いし、アシッドでトリップした。
彼は長身で体つきもよく、髭を生やし、“ワイルドな男性”らしい見た目だった。一度二人で飲みに行って以来、何故かは分からないが私に心を開いてくれ、幼少期の思い出や経営方針についての悩みなどを電話でよく聞くようになった。見た目に反し、彼は非常に繊細な心の持ち主だった。特に家族との関係は複雑で、両親に対し、それぞれ異なるコンプレックスを抱いていた。少しずつ、私は彼に惹かれていった。毎週どこかへ遊びに行き、彼の子供のように傷つきやすい心に触れ、セックスをしたが、ついぞ彼は私を恋人として好きになることは無かった。彼は「人を好きになるということが分からない。俺は人を好きになることが無い。みんなが当然のようにやっていること、当たり前のように抱く感情が理解出来ない」と言った。私はそれでも構わなかったが、彼は私の存在をプレッシャーに感じていた。最後は拒絶される形で関係は終了した。私も愛とドラッグとでボロボロだった。

マッチョで痛烈な言葉を刻み込むボーディンが行間に潜ませるセンシティブさは、どこか彼と重なる。本著を上梓した2000年、ボーディンにはまだ高校生以来の妻であるナンシーが居た。しかし、2005年に離婚する。間も無く再婚し一児を授かるも、2016年に離婚。同年に出演したテレビ番組で、彼は抑鬱状態にあり、孤独を感じるとセラピストに語っていたそうだ(Anthony Bourdain opened up about battle with depression on Parts Unknown: ‘I feel isolated’)。
本著のなかで、友人のシェフが、使えない上に手を焼かせてばかりの部下をクビにしたところ、部下がその晩のうちに首を縊って自殺してしまったというショッキングなエピソードが登場する。ボーディンは、そんなのはよくあることだ、珍しいことでは無い、「やつには当然の報いさ」とにべもなくのたまう。しかし、その後にこう続く。

はい、はい、そうですか、タフガイだね、そう、あんたなら間違いなくそうするだろうね、という声が聞こえそうだ。しかし、そんな声に私はいいたい。「きみたちは本当の俺を知らない」。

『キッチン・コンフィデンシャル』284頁

アンソニー・ボーディンは料理業界をこよなく愛し、コックであることに誇りとプライドを持っていた。その一方で、競争の激しい業界で生き残り、のし上がっていく為には、心を押し殺し、冷酷かつタフであらねばならなかった。
娘が生まれ、冷血なタフガイだったボーディンは随分穏やかな性格になったそうだ。晩年は、「家庭でとる食事が一番」だと説いていたという。キッチンでどんな扱いを受けようと、自分がどんな酷いことを部下にしようと耐えてきた彼が、家族を失った悲しみと孤独には耐えられなかった。頭痛と不眠から解放され、どうか安らかに眠れるよう心から祈っている。

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