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地域とアートと情報の濃度の話(9/4)

脊髄の手術も無事終わりまして、今は暇を持て余しています。暇なので、適当に本読んだりしてます。幸いにも考える時間は無尽蔵にあります。

また、ただでさえ限られているインプット量が激減しているので、存分に脳内で泳ぎ回っている状況です

ロラン・バルトが、ヨーロッパ的な言語の解釈〜言葉の全ての意味をはぎ取り、表に露出させる方向〜では無く、「俳句」のような言葉の解釈を自制する者がその美的価値を開示する〜と言いました。今もその考えに従い、多くのアーティストは解釈を拒み、理解を拒むような作品の制作に邁進してきました。いっぽうで、すでにその「自制的な態度」での作品が世の中に溢れ出してしまい、その反動で新しい捉え方をベースにしている人たちも増えているように思います。自覚があるのかないのかわからないですが。

俳句は言語の解釈を自制する〜と言われても、よくわからないですよ。我々日本人にはそれが長い年月かけて染み付いている。そもそも日本の美意識は、宗教観の違いもあってヨーロッパよりずっと内省的でドライだった。「幻の動物を探しに世界中を探し回った結果、家の庭に毎日遊びに来てた”たぬき”がそれだった」みたいな話なわけです。例えが上手くないな。この辺りの例えはスーパーフラットの解説でも見てみたらいいんじゃないでしょうか。

たぬき狩りに行ったはずが、自分たちがたぬきだったわけですね。

ほんで、話はまた次のステップに進んでいるはずで、

「自分が”たぬき”だと理解した”たぬき”は、何をするのか?」ということかなと。

結局、ヨーロッパ人がローマ時代から続く歴史を背負うし、アメリカ人がポップアートの文脈を背負う。そして「それがすごいものだと順序立てて説明する力」については、やはりヨーロッパ系の社会の方が優れている部分が多い。私たちは”たぬき”である自覚を背負わないといけないわけです(もしくは留学するか国籍取って、人間に化けるしかない)。

そんなたぬき……もとい、日本人が、次に何をするんだろう?というと、(正直言って、肌感覚が近すぎてよくわからないんですが)頑張って捻り出してみるなら、そのものが置かれている環境や状況、ということになるのかな?すごい自信ないけど。どうでしょう?構造主義的に環境や構造が実在を定義する〜という話ではなくて、環境に潜む情報が全てを定義していくという考え方。日本人ぽくない?

幻の獣 たぬき
たぬきを探すひとたちに対して、たぬき自身はどう向き合うのか?

例えば、光があって土があって水があれば特定の草が育つし、土の成分が変われば他の種が育つ(もしくは育たない)。

同じように、僕も今「インスタレーション」という形式が歴史上生み出された後に創作活動をしているから空間を使った作品を作っているけど、その形式を知らなければ多分ずっとキャンバスに絵を描いていたと思う。もっと昔に別の場所に生まれていたら、「アート」すらしていなかった可能性が高い。

ほんで、なんでこんなことが起こるんやろう?って考えてみたら、多分この地球のあらゆる空間には”情報濃度”みたいなものがあると思うんですよ。もちろん概念上のね?

VR空間の座標みたいに

「この空間のこの辺りには、アート情報濃度が高いです。こっちの地域はアート情報濃度が薄いです。代わりに農業情報濃度がクソみたいに高いです。こっちはヤンキー情報濃度がすごく高いですね。」

みたいな情報の濃度があるんじゃないかな?って、最近すごく思う。

情報の濃度は何が決めていくかというと、それは人とものの両方。人は当然それ自身が知識を蓄えているし、施設や社会システムも、濃度の高いものに合わせてカスタマイズされていくから、情報の濃度が高いと、周辺環境に自然に成長バフがかかって、同時にコストも抑えられる。みたいな。

そしてそこで人が成長すると「情報濃度が高い場所で育った個体」みたいなものが出来上がって、その場所でより濃度を高めるか、別の場所に移動して情報を拡散するか選ぶようになる……みたいな感じ。で、多分これは人だけじゃなくて、モノも同様に言えるはずだよね。

じゃあ、そういう場所で作られる美的なものってどうなるかというと、これもまた厄介なことになるんじゃないかな?と思うんですよ。なんてったって。現代では「情報の濃度が高い場所」と「情報の濃度が低い場所」は、かなり隣接した場所でも成り立ってしまう(グラデーションじゃない)はずなんですよ。体感的に。隣り合ったビル同士とか、部屋毎にでも濃度が大きく変わることが往々にしてある。

おそらく「情報濃度」の高い場所と低い場所では、別の美的な基準がつくられる。つまり、今の基準で語られる「レベルの高いアート」「大衆的なアート」みたいな区切りそれ自体が特定のコミューン内だけでの記号になってしまい、優劣を語ることができなくなってくるんじゃないかな?という想像をしてる(というか今すでにそんな感じじゃない?)。

すごく荒っぽく言ってしまえば「美的な価値なんてあんたのいる場所で決まるんだから、自分のレベルに合った好きなもの見たら?」という話以上のことができなくなるんじゃないかな?って思ってる。その上で「あっちのコミューンではこんなのが流行ってるよ?」みたいになる。めちゃくちゃ乱暴だけど。

けどさ、これって別に不思議なことじゃないと思う実際、今のSNS界隈はこんな感じだと思う。インスタの流行とか追っかけてらんないし、インスタで流行ってる展覧会があったとしても「隣の出来事」としていったん置いておく。そこに関与するかの判断は別にある感じ。

あとは、美術界隈も同じだと思ってる。(歴史的に評価の定まった作品は別にしても)もはや作品を”優劣”で語ることはできなくて、「この部分はこうすごい」とか「こういう構造です」と提示する以上のことは難しい。最終的には「判断はあなたに委ねます(あなたのコミューンでの判断に委ねます)」以上のことは言えない感じ。もしくは疑問形にして相手に質問投げかけて終わったりする。

あとは、地方文化行政に多少でも携わった人も、この感じはわかると思う。最新のアート展は議会から嫌われて、市民クラブの発表会にたくさんの人が来て、血涙を流した学芸員の皆さん。あなたは悪くない。たぶん

しいていうなら、そういう情報濃度の違う複数のコミューンを「どのように移動していくか」ということがポイントになりそうな気がしてる。

ただそれがどこまでクリティカルで、核心をついているかは正直自信がない。誰か答え知ってたら教えて欲しい。。

こんな感じで、思いつくままに勝手に色々書いてみたけど、結局は情報資本主義の一側面のような気もするし、どうなんだろうね。勝手に「情報主義」とか「環境情報主義」とか名付けて啓蒙してみようかな。しらんけど


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