「恩寵の思想」

記憶装置としての脳は、計算機には及ばないことは恐らく自明であろう。しかし、人間は見識を持つことがしばしある。しばしある、とは、常にそうではない、という事実に注意すべきということである。見識とは、判断・識別の能力であり、その本質は価値の評価にある。数万冊の図書館の本を前にして、見識を持たない人物は、単に圧倒される。しかし、見識を持つ人物は、このような大量の本を前にしても、動じることなく、その全ての価値を識別していく。彼がその図書館の本を、正確に整理するまで、それほど多くの時間は掛からないことだろう。このような特別な知識は、しばし、英知と呼ばれるが、このような知識は、所謂神秘的な体験を通して、「与えられるもの」である。

哲学や思索の限界、という観念は、西欧社会においてはよく知られているはずである。ある種奇妙なほどに、正確性を追求しながら、人間の知覚や観念について記述した哲学者が無数にあるが、このような観察は、あくまでもサイエンスとして不完全であり、ある種の不満を読者に残すことが常である。思索の限界に達したと自認する愚者が、自らの観察に基づいた理論を拡張することにより、世界の根源を説明しようとする様はを見るのは、いつの時代でも滑稽である。このような者、自らの観察の積み重ねの末に、自らの手柄により真実に達すると思い込んでいる人々の思い上がりは、格好の喜劇の対象となるだろう。すなわち、このような人物は、哲学思索の限界に達することもなく、また、知識とはいかなるものか、に関する確信も持っていない。

「知識が与えられる」というコンセプトは、少なからず、多くの人々に知られていると言うことが安全にできるのではないか? 知識を欲しない人間は、凡そいないだろう。そして知識を得たことを自認する人間は、常にその知識の源泉について感謝を持って語る。それは、その人物が、知識を自らの手柄によって、自らの力によって獲得したものではない、という事実を明確に知っているからである。このような体験は、まさに神秘体験と呼ばれるものであり、それを経験した者、紛れも無い事実であり、世界の真実として記憶される。それは夏に積乱雲が盛り上がる様を眺め、大きな雨が通り過ぎ、地面を水が流れ、濡れた足の冷たさを感じるように、完全に自明な、自然の摂理と同じである。ここに、所謂、宗教の根幹がある。神の存在の是非についての議論は、このような神秘体験者には存在しない。むしろ、神の存在は自明のものとなる。その人物にも、神の描写は不確かにしかできないが、自らの知識が「神」から与えられた者であることは、明確に知っている。そしてこのように与えられた知識が齎す莫大な富に感謝し、その知識を誇るなどということは完全に否定され、謙虚にその人生を全うしようとする。

何故このような知識が与えられるのか、誰に与えられるのか、正確には人知の及ぶところではないが、それは各人の意思の強弱による、と思われる。真実に達しようと、勇敢に戦った者たちには、そのような知識が与えられるようである。少なくとも、所謂、神秘体験というものは、少数の特別な者たちだけに共有される性質のものではない、ということは言い切れるだろう。もし、現代において、真実を求める過程で、苦しんでいる若者がいるとしたら、その若者には希望を失わないこと、困難に屈せずに、真実を求めることを止めないこと、を書き添えておきたい。

さて、与えられた知識は、文学、芸術、法学、自然科学に至るまで、確固とした見識をその幸運な人物に与える。そして、自らの人間としての「完全な至らなさ」についての自覚までも。常に忘れ、間違え、絶望と恍惚の発作に苦しむ人間の本質を。

記憶、暗記の量は、人間の労力によって増加させることができる。図書館数万冊の本をすべて暗記することは、不可能でも、暗記能力を極限まで競わせることで、子供達の「学力」、はては「知能」を可視化する試みが長年行われてきた。例えば、中国の科挙の名残は、極東の国々の大学入学試験にいまだにその暗い影を残している。それらの既成事実の集合体から、論理的結論を導くことが、医学や法学を含めたエンジニアリングの基礎であり、このようなエンジニアリングの諸科目は、所謂学校制度により、好んで教育される。学校の卒業試験に合格すれば、ある程度の水準で、各自の仕事を成すことが可能になる。反対に、学校の卒業試験に合格しても、決してその卒業者に、その職業における成功を確約しない分野も存在する。それは第一に政治であり、またそれに準ずるものとして詩人がある。理論的には政治家学校、詩人学校を開設することも可能であろうが、その卒業試験の合格者は極めて少なく、学校としては成立しないだろう。その理由は、政治家も、はては詩人でさえも、彼らの仕事の根幹において、社会の所持に関する見識の有無が問われ、このような学校の教授は、自らの神秘的な知識を、不幸な学生たちに与えることは「できない」からである。ある程度の記憶力、文献的知識は重要であるだろうが、それよりも、圧倒的に重要なものは、このような神秘的な知識であり、そこから齎される見識である。

もし、このような神秘的知識を学びたいと願う者がいたら、その者には特に学校も、教師も、果ては導師などとよばれる存在も、根本的には必要はない。例えば、スーフィーと呼ばれる人々の集まり、その系譜などに細かな注意を払う必要はそれほどないだろう。真に知識を与えられた人々がいたことは確かであるが、その周りに集った人々の繋がりが、時代とともに形骸化することは多い。

着物、毛皮、ターバンの巻き方、、、形式主義の弊害は、所謂スーフィーだけにとどまらず、ウラマー、学者、はては詩人や芸術家にさえも及ぶ。エルサルムに入城したウマル・ビン・アルハッターブの姿を伝える文献があるが、この人物が持っていた知識、そして彼のものとして伝わるいくつかの言葉は、文学的にも真の価値を持っている。ウマルの所作、風貌、衣服は、彼の持っている知識から現れたものであり、安易な形式主義とは異なる。当然のことながら、伝えられる文献に基づき彼の服装を真似たところで、偉大な政治家も、また文学者も誕生することはない。

2023
D.I.

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