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痛みを伴う回顧④

抗がん剤治療を終えて退院をした。
2012年の夏かその少し前の辺りだと思う。

抗がん剤は終わったけれど治療が終わったわけではない。細かいスケジュール感は覚えていないがしばらく数値やCTを見つつ、弱くなった癌細胞たちを取り除くために再度手術を行う。

そんなわけで継続的な就労はまだできない。治療がどう転ぶかもわからかい。
とはいえある程度は元気だし暇。何より収入もないのでその暇への対処も限られてくる。

仕事に悩んでいたのもあるし色々とやってみたいなというモチベーションもあった。特にそれまで触れてこなかった内容のものなどに興味が湧いた。

多分駅にあるタウンワークとかだと思う。それをパラパラと眺めていて東急ハンズの季節バイトを募集していた。ハンズメッセ。毎年夏の恒例セールみたいだ。販売だとか小売関係の仕事は触れたことがない。一応華やかそうだし雑貨も嫌いではないので軽い気持ちでやってみることにした。

レジ台のサッカー業務だったり品出しやご案内のようなことをしたと思う。細かく記憶はないが、そんなに嫌いなタイプの仕事ではなかった。
なんとなく接客とか客とのコミュニケーションが必要になる仕事は避けていた。喋るの苦手だし、と。
しかしどうやらそんなに抵抗がないらしい。加えて、おそらく僕は真面目だし初対面の愛想もなかなかよい。自分でいうとあれだけど、人目を気にしてしまうので無意識的にヒトに気を遣ってしまう習性が割とマッチしている仕事だなとも思った。
結構大きなセールのようで馬鹿みたいに混んでるし、大量購入のお客様が多かったのでレジ関係の業務が1番大変だった。

あとこの頃ハゲてた髪の毛が微妙に生え始めた頃で、中途半端な坊主みたいになってる自分がダサくて無理だった。似合わないんですよね短髪。
そんなこんなでなかなかに忙しいバイトをしていて、やっぱり働くこと自体は気持ちがよい。働いた日は充足感というのか、後ろめたいことがないような気持ちで快適な疲労感の中眠りにつけた。大した収入にはならなかった。ほんの1-2週間のバイトだったので仕方ない。

どこかのタイミングで珍しい治療をやったのを覚えている。いつもの愛知医大ではなくて、名古屋市の自由が丘らへんにあるがんセンター?みたいなところに行くことになった。母親が連れて行ってくれた。
何のために何をやっているのかはいまいたわからないかったが、なにやら物々しい施設だったような気がする。
何か薬?を投与したのか何をしたのかは覚えていない。でもその後にいわゆる放射線マークが付いている部屋に隔離された。
そのとき、何故か自分自身が放射線物質になっていたらしい。よくわからない。やばいじゃん。なんか薄暗い部屋だったような。いくつかスペースがあって漫画喫茶みたいだなと思った記憶。曖昧。
短くない時間だったと思う。何時間か安静にさていた。何をするわけでもなく。
母は待っていてくれた。ずっと施設内にいたのかはわからない。
何時間か経って解放されて、特に何事もなく帰宅した。マジであれなんだったんだろう。

とかやってる間に寒い季節になってきた。
この頃まだ元彼女と付き合っていた。退院後は一緒にいる時間も増えた。今回の病気を機にうちの実家家族とも打ち解けて、実家にいることがかなり増えていた。(連日居座り続けたせいで、彼女の親からうちの実家に電凸があった。まだ彼女は学生だったし、ずっと帰ってこないのはそりゃ不安だし不信感あるよな。)

まぁそれはよくて。
寒い時期になった。クリスマスが近い。
彼女には何か買ってあげたいなと、また短期バイトでもするかと思い立った。
前は販売をやってみたし次はまた全然違うことをやってみよう。大人の社会見学だ。というわけで某パン工場に行ってみることにした。工場で働いてる友人もいないし、単純作業と呼ばれるものにも興味があった。黙々と作業するのは好きだし、もしかすると適性もあるかもしれない。進路に迷っている自分にとって良い経験でもあった。

クリスマス前ということでまさにクリスマスケーキ製造の短期バイトがあった。ケーキ作ってる自分めっちゃおもろいじゃんとか思ってた。

食料品の工場ということでやはり衛生面は厳しかった。帽子もマスクも付けて、工場に入る前にはなんかいろいろな工程も必要だった。靴の裏をブラッシングされるのもなんか歯車って感じがしてよかった。

仕事内容はというと流れてくるケーキ入りの箱にプラテープを撒き続ける仕事や什器の移動、大型機械の上の投入口に重いカスタードクリームを補充し続ける仕事など。クリーム補充が一番しんどかった。マジで重いし肩も上げっぱなしだし変な姿勢になるから腰も痛い。
でもやっぱり作業は真面目にしちゃうタイプなのでどれも全力で取り組んだ自信がある。

そんな姿を見てなのか、それとも若い男性が季節バイトをやってるのが珍しかったからなのか、若い男性社員さんがよく目にかけてくれた。
季節物が少し落ち着いたタイミングで声をかけてくれて、機械の移動だとか他の期間バイトのヒトと全然違うこと一緒にやらせてもらった。時にはおそらく季節物でもない通常ラインの仕事を手伝わせてくれるなどもした。通常のスタッフさんと一緒にパン生地に捻ったり。工場内を連れ回してくれて。当然どれも一生懸命やった。出来立てのパンを少し食べさせてくれたりもした。なんかこうやって後輩に優しく構ってくれる地元の先輩っていたよな、なんて懐かしい気持ちにもなった。元気かなああの人。多分彼は工場内で出世するタイプに見える。

同じ季節バイトの人はこういってしまうとあれだけど、ちょっとダメな人が多かった。変な人もいた。仕事を一生懸命やってるわけでもないし、ちゃんとやろうという意志さえ見えなかった。ダラダラ動くし。ぶっちゃけバイトだからなんでもいいんだけど、同僚とか部下だったらぶっ飛ばしてやりたい。

そんなわけでしばらくの期間バイトを終えて、これまた多くはないがバイト代を得た僕は、その足でささやかながらクリスマスプレゼントを買って彼女とクリスマスを過ごした。(確か最終日が12/24だった。)

この辺りはまた記憶が曖昧なんだけど、2013年の年明けしてすぐには手術があったと思う。年末を病院で過ごしたのかは不明。リンパなどに転移してしまった癌細胞などを取り除く手術。

事前に医師から色々と説明もされたんだと思うけど、一つだけ「はいはい了解ー」と済ませられない内容もあった。

「射精機能がなくなるかもしれない。」

患部の箇所の問題なのか、手術後に射精障害になる可能性があるとのことであった。しかも可能性として低くないらしく、事前に名古屋の大手レディースクリニックを紹介された。そこで予め精子の凍結保存をされることをオススメします、と。
当時23歳。結婚も仕事もしていない自分にとって子供だなんて正直あまりイメージできなかった。将来子供がいるかいらないか論争においても積極的に「欲しい!」側に参戦することもなかった。
でも、なんとなく30-40年後の妄想をしたときにいつもそこには自分の家族がいた。妻がいて、子供が複数人いて、戸建てに住んでいる。
具体的なイメージ理想があるわけではないけれど、そのビジョンがいつも現れるのであれば本心(まだ自分が気付いていない気持ち含めて)ではきっと子供を望んでいるのだろう。
凍結保存することを選んだし、なんとなくこれは近い将来その時の彼女に使うのかななんて思ってた。

当たり前だけどそれだけで金はかかる。
最初の措置料もあるし、保存代金も年間で約6.5万払っていた。いつ使うのかも、果たして本当に使うのかもわかりかねる中ではなかなか負担に思うこともあった。

今となっては、当時の若き俺よありがとう。でしかない。
今は妻の協力もあって子供が2人いる。
12年経って今年ついに凍結保存を解約した。寂しい気持ちもあったけれど、可愛すぎる子供が2人いて充分幸せだと思えるのと、先行き不安定な世の中で何人も子供を作る勇気もなかった。
ちなみにいまだに射精機能は戻っていない。行為自体は可能だし射精感はあるのだが、精子が全く出ない。もうずっと精子を見ていない。変なの。いっそ性欲も消えろよ。

時系列が入り乱れてしまった。
とりあえずそんな説明を受けたりしながら、手術のための入院生活が始まる。

ここからが人生の中で最も暗い1年であったんだなと今になって思う。

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