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誰がいつどのように死ぬかわからない、だから私はヒトの歴史を味わおう ―エッセイマガジン「ホモ・サピエンスとしての皺」はじめます

咀嚼され吸収され、しっかり本人の血と肉となった人生経験は、その人の見る世界の解像度を上げる。私はそう思っている。

コロナ禍のステイホームで、ふと思い立って聖書を通読した。聖書に描かれているのは、ありていに言って「ヘブライ民族の民族史」だ。ヘブライ民族の民族史という、ひとつの血と泥の臭いのするストーリーが人類史の一部をズドーンと串刺しにして見せてくれたおかげで、世界の歴史が体感的に理解しうるものとして入ってくるようになった。

先日、未明にふと目が覚めてつけたテレビで、ひたすらドローンでギリシャの島々の遺跡をめぐるだけの番組を見ていて、身体が震えて涙がにじんでくるぐらい感激してしまった。なんのナレーションもない淡々とした映像なのに、頭の中で、何千年前の人々が働いたり戦ったり生活したりしている映像がありありと再生されたのだ。

今後、世界や自分の人生がどんなふうになっていくかはわからない。けれど、もし、誰かがたとえば木の枝一本だけ渡されたときに頭の中でどれだけ楽しめるかが、その人の持っている教養や人生経験の量にかかっているのだったら、私はもっともっと世界と人間のことを勉強しておきたい、と思った。

世の中がどうなっていくか、私のような人間が今後どんな人生を送るのか、本当にわからない。いろいろなことがあまりにきな臭いので、私はときどき、自分や自分の大事な人がガス室に送り込まれたり、紛争地に生きざるをえなくなったりすることさえ想像する。

人が理不尽にも人生から多くのことを奪われるとき、その人に残るのはその人の頭の中にある記憶だけだ。隠れキリシタンが聖画や祈りの道具を奪われても心の中で祈りを暗唱していたように、誰かの内心の自由、そして記憶は誰にも奪えない(脳みそに手を出されたらそりゃ終わりなのだが)。

アウシュヴィッツの強制収容所を奇跡的に生き延びたV・E・フランクルを支えたのは、彼の頭の中に残った愛や希望、喜びの記憶、そして世界に対する哲学的な理解だったそうだ。

だから私もそんなふうに、ヒトの世界の美しいことや喜ばしいこと、歴史が証明してきたヒトの過ちや正しさや理想、創造主の作った世界の姿について、存分に学んで味わって、脳みそに刻みつけていきたいと思う。私の感覚器が加齢や病気で衰えてしまう前に、身体が思うように動かなくなる前に、できるだけ多くのことに手を伸ばして。

どうせいつか死ぬのであっても、あるいはこの脳みそが衰えてほとんどの記憶が消えていってしまうのであっても、一度脳に与えられた刺激は、なんらかの痕跡を残すはずだ。それはいまわのきわの表情であったり、一瞬に見せる目の輝きだったりするかもしれない。

そんなわけで、高校生用の世界史の図録を購入した。中高生のころに世界史を単なる暗記科目とだけ捉えていてロクに勉強しなかったことを、ずっと悔いていたからだ。

年表を眺めているだけで楽しい。何かとぱらぱらめくって、ヒトの歴史をたどっていくつもりだ。そして何かキーワードに行き当たるたび、それについて思うままにエッセイを書きつける、それが今回始めるエッセイマガジン「ホモ・サピエンスとしての皺」だ。

どれくらいの分量のものがどれくらいの期間続くのか、さっぱりわからない。私はわりとなんでも途中で飽きたり放り出したりしてしまうタイプなので、今回も途中でポイと投げ捨ててしまうかもしれない。でもひょっとすると一生ものにもなりえる。そういう、どう展開するかも自分自身で楽しみにしながら始めていこうと思う。


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