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デレラの読書録:東浩紀『訂正可能性の哲学』

『訂正可能性の哲学』
東浩紀,2023年,ゲンロン


「訂正可能性」という概念を提示する本書。

ルールや規則、あらゆるものは訂正されうる。

むしろ、訂正されることで逆説的にルールやそれを守るひとたちがいたのだと意識される。

本書を読む間、ずっと訂正とは何か考えさせられた。

訂正とは何か。

最初わたしは、訂正とは「わたしが何かを変えること」というイメージでいた。

つまり、主体がわたしで、対象は社会のルールや規則だ。

子どもが遊びをコロコロと変えてしまうように、わたしにも何かを訂正できる。

それはどこかポジティブで改善的なニュアンスがあった。

しかし、そのイメージは一面でしかなかった。

読み進めると、訂正の主体はわたしである、というイメージは一変する。

逆に、わたしもまた「訂正可能性に晒されている」のだ。

わたしが何かを訂正しうるように、わたしもまた他者に常に訂正されうる。

むしろ、生活実感としては、わたしはすでに訂正させられていることを強く意識した。

どういうことか。

それは、わたしに子どもが出来たという個人的な出来事と大きく関わっている。

子どもという他者が現れ、わたしは生活習慣の訂正を迫られた。

食事、就寝時間、ショッピング、散歩、観るテレビ番組、あらゆる生活習慣が訂正されていく。

しかも、わたしにとっては、その訂正はあまりに自然に行われた。

気がつけばNHKのEテレばかりを観ていた、保育園を探して見学に行き、スーパーでは子ども用の食材を探し、成分表を見てネットで知った添加物が含まれてないことを確認した。

生命保険を検討し、電動アシスト自転車を検索し、自家用車の購入を検討した。

わたしは気がつけば「親ゲーム」に参加していたのだ。

それ以前のわたしは「子どもゲーム」あるいは「青年ゲーム」に参加していたことを知った。

わたしは子どもの立場で親や親族に接していた。

また会社や友人の集まりでは青年であるという立場で過ごしていたのだ、と遡行的に発見する。

わたしは子どもで青年だったのだ。

それが良いとか悪いとかではない。

わたしが言いたいのは、単に参加するゲームが「特に意識することなく自然と変わっていた」のである。

ようは、わたしはルソーの言う「一般意志」に特に意識することなく従っていたのだ。

本書の第6章では、「無意識」と「統計の整備」という観点からルソーの「一般意志」を捉え返している。

ひとは自然に遡行的に、無意識に統計的に一般意志に従う。

あるいはビッグデータとアルゴリズムの問題だ。

わたしのAmazonアカウントには子ども関連商品のサジェストで溢れかえっている。

確かにわたしは「親のゲーム」に参加している。

サジェストされるものを選べば効率的にそのゲームをプレイすることが出来るだろう。

しかし、それだけでは何かが引っかかる。

これ以外の生き方は無いのだろうか。

わたしは子どもに対して、一般意志にサジェストされる親ゲームに参加する以外の仕方で関わることはできないのだろうか。

本書では訂正の方法として、喧騒、呪詛、懐疑が描かれていた。

ならばわたしは妻と二人で、サジェストされる商品にいちいちケチをつけてやろう。

わたしはそんなことを考えながら、Amazonのブラックフライデーでセール価格になっている子どものオムツをまとめ買いするのである。

結局一般意志に抗えない、親ゲームの外に出られない。

一般意志の外はない。

わたし自身ではこのゲームから出られない気がする。

ならばきっと、わたしを今の親ゲームの外側に連れ出してくれるのもまた子どもだろう。

もしかしたら、友人になれるかもしれない、あるいは、子どもに蹴出されるのかもしれない。

そう考えるとなんだか、訂正されるのが楽しみになってきた。

いつかわたしが不要になるまで、わたしは訂正可能性に晒され続けるだろう。

それはきっと悪いことではないのかもしれない、と思った。

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