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エッセイ:深層から遠く離れて、あるいは表層の哲学について

0.はじめに

まずは、このエッセイにおける(わたしの個人的で)基本的な問いを提示することから始めたいと思います。

それは、わたしたちは「表層」に対して、どのように接することができるだろうか、という問いです。

ようは「表層との接し方」への問いです。

表層のなかでは、意味は「ひとつの意味」から常に逃走しています。

さらに言えば、表層のなかでは、意味は、捉えるひとによって変わり、時代によっても変わり、わたしという個人においても時間とともに変わります。

意味は、山の天気のように、または空に浮かぶ雲の形のように、ころころと心変わりする。

ようは、表層のなかでは、意味は多面的であるということ。

その心変わりを目の当たりにしたわたしたちは、表層という世界をまるごと疑い始めるでしょう。

そして気がつきます。

表層の背後には、本当の意味(変わらない意味)が存在するための「深層」という場所があるのだ。

そして、わたしたちは深層に触れることができないのだ。

表層における意味は嘘っぱちで、深層における意味こそ本当であり、わたしたちは表層に騙されているのだ、と。

簡単に言ってしまえば、わたしたちは青空の美しさを目にしても、それは「表層のなかで」青空を見ているに過ぎないのであって、本当の青空を見ているのではない、ということ。

あるいは、その青空の美しさを表現しようとしても、わたしたちは深層に触れらないので、青空の本来の美しさを表現できない、ということ。

わたしたちは、表層のなかにいる限り、深層そのものを表現することは永遠に叶わない、ということ。

そして、わたしたちは、深層の「表現できなさ・・・・・・」に閉口することしかできず、表層の見せる不敵な笑みに騙されている、ということ。


さて、わたしたちはこの現実を前にしています。

「この現実」とは、つまり、わたしたちは深層から遠く離れていて、疑わしい表層の世界に騙されていて、ひとり踊りをしている、ということです。

この疑わしい表層の世界でわたしたちは生きているという現実。

この現実において、わたしたちは「疑わしい表層」とどのように接したらよいのでしょうか。

こうして、わたしたちは「表層との接し方の問い」に辿り着くのです。

このエッセイでは、この問いについて考えていきます。

表層と接し方、について。


1.哲学についての仮定義、表層についての思考実験

タイトルに、表層の「哲学」という言葉を使いました。

まずは、簡単に哲学という言葉の意味を仮定義しておきましょう。

というのも、わたしは、このエッセイでは仮に定義することを基本的な戦術にしようと考えているからです。

ではさっそく、(このエッセイにおいての)哲学を仮定義しましょう。

仮定義
哲学とは、思考によって「それ」がなにかを考えることである。

したがって、表層の哲学とは、表層とはなにか、ということを考えるということです。

ここでいう「考える」とは、ようは思弁のことで、言ってしまえば、頭のなかの推論だけで考えるということです。

一言で言えば、思考実験。

というわけで、表層の哲学とは、表層についての思考実験をする、ということなのです。


2.表層と深層

さて、表層との接し方について考える前に、まず最初に、表層と深層について、簡単に整理しておきましょう。

わたしは表層を、深層の対概念(=反対の概念)として考えています。

図1

どちらも「層」なわけですから、何かしらの場所であると考えてよいでしょう。

では、二つはそれぞれどのような場所なのか。

まず、表層というのは、文字通り、表面の層のことで、表にモノが現れるときに、それが現れる場所です。

「現れる」という動詞自体が、表層に関わる動詞と言えます。

具体例を挙げてみましょう。

表層とは、スクリーン、PCやスマホの画面、紙、絵を描くためのキャンバス、スライド、さらに言えば、網膜や視界、膚、網膜、感覚器官です。

いずれにしろ、何かが現れるところの、つまりは「面」が表層と言えます。

一旦、図2にまとめましょう。

図2

ここで、表層の例として、網膜などの感覚器官を含めたのは、表層にはわたしたちの感覚的な認識能力が大きく関係しているからです。

では、表層と認識能力が関係してる、とはどういうことか。

この問いに答えるために、先に深層とはどのような場所であるかを考えてみましょう。

深層は、論理的に言えば、表層の裏です。

つまり表層がモノの現れる場所であるなら、裏としての深層は、表に現れるモノの根源のようなものが潜んでいる場所です。

根源のようなものは、表層に現れることはありません。

なぜなら、その根源のようなものが潜む場所(=深層)は、わたしたちが認識できない場所だからです。

だからこそ、わたしはそれを「のようなもの」という言い方をせざるを得ません。

根源のようなものとは一体何なのか、わたしたちには分からないのです。

したがって、深層は、具体例を挙げることが出来ません。

もしも、深層の具体例を挙げられるのであれば、それは認識可能だということになりますし、また根源のようなものが認識可能ならば、そこは表層であることになります。

ですから、深層というのは「不明」であり、「謎」であり、わたしたちの認識が届かない「秘密」のような場所なのです。

図3

さて、わたしたちは、表層が認識能力と関わっているということを考えていたのでした。

また、表層の裏である深層は認識不可能な場所です。

ということは、ここから転じて、表層とは、わたしたちの認識が届く範囲と同じであり、その向こう側にあるのが深層である、と言えるでしょう。

この意味で、表層とわたしたちの認識能力が大きく関係しているのです。

つまり、表層とは何かが現れる場所であり、深層とはその現れる何かの根源が潜んでいる場所であるということ。

そして、わたしたちが、普段認識しているものは、すべて表層に現れているものであり、その現れているモノの根源は謎のまま、わたしたちは認識することができない場所にあるということ。

ここまでの議論を、以下、図4にまとめてみましょう。

図4

さて、このようにしてみると、次のような問いが浮かんでくるでしょう。

それは、表層が認識可能な範囲であり、深層は認識不可能な範囲であることを仮に受け入れたとして、なぜ認識不可能な深層があると言えるのだろうか、という問いです。

端的に、なぜわたしは「深層がある」と言えるのだろうか。


3.深層があると感じられるとき、「ない」の感覚

認識不可能にもかかわらず、深層があると言えるのは、なぜなのでしょうか。

「認識不可能な深層」は、一見、神秘的で非日常的な雰囲気を醸し出す言葉ですが、わたしには日常的に感じられます。

神秘的・非日常的ではなく、むしろ普通に生活しているときに、肌で感じるのです。

注意深いあなたは、ここでわたしに警告するでしょう。

日常的に感じるだって? さっきお前は深層とはそもそも認識可能範囲の外側にあると言ったばかりではないか、感じられるなら認識の範囲内にあることになるだろう、と。

おっしゃる通りです。

ここでわたしたちは、先ほど深層には「根源のようなもの」がある場所だ、と言ったことを思い出す必要があります。

ポイントは、わたしたちは、根源のようなものを「根源」と言い切ることは出来ず、「のようなもの」という形でしか言い表せないということです。

「不明」や「謎」や「秘密」という言葉使いも同様です。

ようは、認識不可能な深層を、わたしたちは直接に言い表すことが出来ず、何かが歯に挟まったような言い方しかできない、ということ。

さらに言えば、認識できない・・とか、言い表せない・・とか、明らかにできない・・(=不明)とか、隠れていてハッキリと分からない・・(=謎)とか、隠れていて見えない・・(=秘密)という風に、「ない・・」という表現を経由してしか、深層や根源のようなものを言い表せない、ということ。

つまり、わたしは、この「ない・・」を日常的に感じることを通じて、深層があるのだと言うことができるのです。

では、どのようなときに、わたしたちは「ない・・」を感じるのでしょうか。

たとえば、あなたにも身に覚えがあると思いますが、何かを見て、筆舌しがたさを感じたことがあるでしょう。

筆舌しがたさゆえに、言語がつまずき、閉口してしまうとき、あるいは、巨大なものを見たとき。

際限のなさ、無限、あるいは自分ではコントロールできないという感覚を覚えるとき。

そういうときに、わたしは「ない・・」を感じるのです。

図5

分かりにくいですね、もっと具体化してみましょう。

具体的には、以下のようなことが挙げられます。

雄大な景色を見たり、台風のような巨大な自然現象を体験したり、あるいは、巨匠の絵画や映画などの作品を観たり。

小さなことに傷つき、心が痛み、塞ぎ込むときの途方もなく円環する感情、歩くこともできなくなるような巨大な感情、コントロールできない。

何かを永遠に失ってしまったときの感情。

目の前のすべての言葉の意味が崩壊してしまう感覚。

あるいは、何か新しいものに出会ったときの感情。

あなたの手を握り、肌のぬくもりを感じて、わたしの手とあなたの手の境目が融解してしまう感覚。

美味しい食事。

あなたの顔、表情、目の動きの向こう側にある何か。

言葉、言語、コミュニケーションの伝わらなさ。

星空を眺めたとき、月の明かり、夜の散歩道。

少し高台に上って見下ろす街並み、ビル群。

ホームに入ってくる電車、乗り込むたくさんのひとびと、群衆。

街中で肩と肩がぶつかり合うときの驚き。

夏の暑さ、冬の寒さ、春の温かさ、秋の涼しさ。

これらの日常的な経験を(一部非日常が含まれていることは認めますが)、わたしは上手く言葉で表現することができません。

たしかに、上記のように羅列することはできます。

でも、「あの経験のすべてを表現すること」はできない。

むしろ、そもそもわたしは、あの経験の背後にある深層をすべて取り溢している、とすら感じます。

このように、表現ができない・・こと、あるいは、認識ができない・・ことを通じて、わたしは「ない・・」を感じるのです。

そして、「ない・・」の感触は、一つの確信を導きます。

それは、そこに認識不可能な深層があるのだ、ということです。

分かりにくいですよね、以下に簡単な図6にまとめておきましょう。

図6


4.表層について、変化に晒される認識と意味

さて、わたしたちは、「ない・・」を通じて、「深層」があることに気がつきます。

本来は、深層は認識不可能な範囲にあるにもかかわらず、です。

すると、わたしたちは、ついに表層が全部うさん臭く感じ始めるでしょう。

だって、表層の世界に生起する物事は、じつは深層を取り溢しているのですから。

さて、ここでさらに一つ疑問が生じます。

それは、そもそも表層ってどんな世界なのか、ということ。

先ほどからわたしは「認識可能な範囲」という言葉で説明していますが、具体的にどういうことなのか。

ここからは、表層について少し掘り下げてみましょう。


さて、表層の世界とはどのような世界でしょうか。

表層の世界というところは、認識可能な何かが現れる場所、なのでした。

復習的に図4を再掲します。

図4 再掲

さて、ではここで言われる「認識可能な何か」とは一体どういうモノなのでしょうか。

こういう茫漠とした問いを考えるときは、いくつかのパターンに分けて考えてみるのが良いでしょう。

たとえば、わたしひとりが認識可能なのか、それとも他の人も認識可能なのか、というパターンが考えられるでしょう。

あるいは、その認識した内容、いわゆる「意味」は変わるのか、変わらないのか、というパターンも考えられます。

以下、図7に示しましょう。

図7

この図に当てはめながら考えてみましょう。

たとえば、椅子は、表層の世界ではどのように現れるでしょうか。

まず、わたしとあなたの前に、椅子があったとしましょう。

その場合、わたしとあなたは二人とも「ここに椅子がある」と感じられるでしょうから、「ここに椅子がある」ということは、どうやら、わたしとあなたのどちらも認識可能なようです。

※なお、錯覚や幻覚などは、ここでは棚上げします。

では、椅子に座った印象はどうでしょうか?

印象、つまりは、座り心地です。

たとえば、わたしがあなたよりも座高が高くて、体重も重くて、おしりの大きさも大きければ、わたしの感じる座り心地と、あなたの感じる座り心地は、異なっているでしょう。

あるいは、身体的な特徴以外にも、素材の好き嫌いや、形の好き嫌いなども含めると、(見た目の好みを含めて)座り心地は、全然違うものになるでしょう。

一旦、図8にまとめます。

では、これらの印象は、変わるものでしょうか?

わたしが感じる座り心地については、しばらくは変わらないでしょう。

でも、子どものころに座っていた椅子の座り心地は、大人になってからは、体の大きさの変化に伴い、変わってしまうと言えます。

では、記憶はどうでしょうか。

子どものころの椅子の座り心地の記憶は時間と共に変化するでしょうか。

これは非常に微妙なラインです。

わたしたちが記憶を想起するとき、おんなじ記憶が蘇ることもあれば、変わることもある。

したがって、ここではどっちつかずとしましょう。

次に、椅子があるということ、は変化するでしょうか。

もちろん、誰かがそこから椅子を持って行ってしまえば、そこに椅子はなくなるでしょう。

あるいは、個人の時間を越えて、何百年、何千年と経過すれば、必ず劣化・摩耗・風化するでしょう。

したがって、物質である椅子が「そこにあること」は変化します。

※ここで、椅子があることが変化する、とするのは意外に思うひとがいるかも知れません。敢えて言うとすれば、わたしは認識を静的なものではなく、動的なものであると前提しています。

さて、まとめましょう。

図9

ここでは、記憶は「変わったり?変わらなかったり?」としました。

なぜなら、わたしの経験では、変わる記憶もあれば、変わらない記憶もあるので、一概に言えないからです。

とは言え、すくなくとも、記憶は「変化に晒されている」と言うことはできるかもしれません。

※記憶は変わらないかもしれない、という可能性を残したくなってしまうのは、記憶(あるいは物語)というものに、わたしがロマンチックさを感じているからかもしれません。

話を戻しましょう。

表層の世界における椅子についての分析から、わたしたちは、以下のようなことが分かるでしょう。

物質としての椅子は、形が変わり意味も変わりゆく。

印象や記憶としての椅子もまた、変化に晒されている

したがって、表層の世界では、認識や意味は常に変化に晒されている、とここでは結論づけたいと思います。

この意味で、表層の世界は、意味は移ろっているのです。


5.表層は忌避される、画一化と絶対化

さて、わたしたちは、簡単な分析から、表層の世界は常に変化に晒されている、ということを見てきました。

ひとによって印象は違うし、またその印象も変化しうる。

一言で言えば、表層において意味は常に変わりうる、ということ。

つまり、わたしたちは、表層においては、本当の意味のようなもの(深層)を認識することはできないし、加えて、表層において何かを認識したとしても、その意味は変わってしまうのです。

さて、しかしながら、もし意味がコロコロと変わってしまうのであれば、わたしたちは生きていくのがとても大変でしょう。

どういうことか。

たしかに表層の世界では、意味は変わるけれど、わたしたちは「意味が変わること」ではなく「意味が変わらないこと」を前提にして生活しているということ。

そうしなければ、色々大変になってしまうからです。

やや極端な例ですが、印象が変わるからと言って、突然に信号の色の意味が変わったり、電車の乗り方が変わったり、買い物の仕方が変わったりするわけではありません。

あるいは、言葉の意味が変わりうるからと言って、日常で仕事のメールを打つときに、意味の変化を考慮していられません。

この生活における、意味が変わらないことを前提とすることを、わたしは「画一化」と呼びたいと思います。

画一化という言葉には、いろんなイメージがあると思いますが、ようするに、生活の知恵的な意味でわたしは使いたいと思います。

ようは、生活の上ではとりあえず、意味は変わらないし、わたしは昨日も今日も明日もわたしのままだし、この家はわたしの家だし、このPCはわたしのPCであるということ。

このエッセイで最初に提示した「仮定義」を思い出してください。

とりあえず、仮にそういうことにする、ということ。

実態として、わたしたちは、意味が移ろう表層の世界では、この「画一化」によって、日々の生活を営んでいると言えます。

しかしながら、ときどき、この画一化が「絶対化」することがあります。

絶対化とはなにか。

画一化とは仮定義ですが、絶対化は「変化しないと決めつけること」です。

つまり、一つの意味しか受け付けない、ということ。

意味を絶対化するとき、わたしたちは暴力性を感じ取ります。

なぜなら、意味が絶対化されれば、絶対化された意味以外は「悪」とみなされるからです。

わたしたちは、意味の移ろう表層の世界で、たびたびこの「絶対化の暴力」を目にすることがあります。

これしかないという決めつけ。

この決めつけを目にしたとき、わたしたちは、表層に対する忌避感を強めることになるでしょう。

図10


6.表層の病、身体が硬くなっている

さて、わたしたちはこのエッセイで、表層との接し方について考えてきました。

そして、これまでの話は以下の四点に要約できるでしょう。

① 表層とは言葉や感じる物事が現れている場所であり、深層とは認識できない根源のようなモノがある場所である、ということ。(表層と深層)

② 表層というのは、あくまでわたしたちの認識可能な世界であり、また認識・言語化の躓き(=「ない・・」)によって、「深層がある」と感じる、ということ。(「ない」から想起される深層)

③ 躓きによって、わたしたちは表層・言葉というものが、疑わしく、偽物であって、さらに言えば、わたしたちは表層によって騙されているのだ、と感じるということ。(表層の不完全性)

④ 表層の世界における認識や意味は移ろうにもかかわらず、ときに意味が絶対化され、その暴力性によって、わたしたちは表層への忌避感を募らせるということ。(絶対化による表層への忌避感)

さて、このように、表層と深層の関係から、表層や言葉を疑い、表層を忌み嫌うことを、わたしは「表層の病」と呼びたいと思います。

病、と言うのは大袈裟かもしれません。

ようは、表層を疑い、また絶対化を嫌うわたしたちは、たとえるなら「身体が硬くなっている状態である」ということです。

たしかに、表層は深層を覆い隠しているかもしれないし、絶対化は暴力かも知れない。

だけれど、「表層はダメだ」という風に固執してしまうのであれば、わたしたちは身体は硬くなってしまう。

だから、身体を伸ばすことが、つまりはストレッチが必要なのだ、ということ。

ここにきて、表層との接し方の問いは、身体のストレッチの必要性へと展開されます。

つまり、表層の世界で、わたしたちはストレッチをして、身体をほぐして、のびのびと踊ろうではないか、ということ。


7.準備運動、表層の世界で踊るための

じつは、これはわたし自身の話なのです。

表層が疑うのも、深層を渇望して身動きが取れなくなってしまったのも、絶対化を恐れてしまうのも、すべてわたし自身の経験です。

わたしは時々、目の前の物事の意味が崩壊してしまうことがあります。

簡単に言えば、分からなくなるんです。

表層にいる自分が分からなくなって、周りの表層も分からなくなって、何を言っても無意味に感じてしまう。

そういうときがあります。

わたしの問題にあなたを巻き込んでしまって大変申し訳ありませんが、きっと、あなたもわたしと似た経験をお持ちなのではないか、そう祈っています。


さて、わたしは表層の病によって身体が凝り固まってしまっているのでした。

それはまるで、舞台本番ですべての振付が記憶から飛んでしまったダンサーのよう。

舞台に立ち、曲が始まり、スポットライトが当たって、仲間はみんな踊り出している。

そんななかで、わたしは踊り方が分からずに、ぼーっと立っているような状態。

身体が硬くなってしまって、上手く動かない。

もしかすると、立っているだけでもいいのかもしれません、それは否定しません。

だけれど、それでもわたしは踊りたい

当初の振付を忘れてしまったけれど、仲間を無視して、曲に合わせて好き勝手に踊りだせるように、身体を柔らかくしておきたい。

そのためには準備運動が大事です。

ここからは、この準備運動について考えてみたいと思います。

そのための戦略は明らかです。

わたしたちは、絶対化の暴力性や、言葉のままならなさによって、表層を疑い嫌うようになったのでした。

ならば、それ以外のやり方を考えること、これがわたしの戦略です。


8.過剰という方法

表層の世界で、閉口してしまったらどうしたらよいだろうか。

そんなときに備えて、わたしは「過剰という方法」を普段から試しています。

この方法は、複雑な方法ではありません。

ようは、目の前の事物について言葉を出しまくる方法です。

表現のウマいヘタを度外視して、目の前の事象について、言葉を出し続けるのです。

途中で矛盾してしまっても良いでしょう。

それをメモしておくと、なお面白いです。

もし、途中で矛盾してしまったら、その前後を確かめてみると、発見があります。

最初のほうの文脈では、良いイメージの言葉が続いていたのに、途中から文脈が変わって悪いイメージが出てくるところが出てくることがあります。

言葉を出し続けていると、確かに表層というのは浮気者で、途中でがらりとイメージが変わったりします。

しかし、その変遷は、まるで小説の物語のように思えることがあります。

というか、小説や映画やマンガの「物語」というのは、そういう言葉の過剰によって、最初と最後で意味が変わってしまうことを言うのかもしれません。

弱虫だった主人公が、最後は逞しい勇者になる、というような。

あるいは、気の強い登場人物が、実は儚く脆いひとだった、というような。

その変化は一種のスペクタクルです。

言葉の過剰によって、表層での運動(=物語)を楽しむことが、凝り固まった身体を解きほぐしてくれるのではないか。

言葉の変遷を楽しむことで、絶対化と距離を置きながら、また、ままならなさを過剰によって埋め尽くす。

言葉の過剰とはそういう準備運動です。


9.捨象という方法

さきほどは言葉の過剰について考えてみました。

次はその逆、言葉の捨象、つまり言葉を減らしていくこと、を考えてみます。

言葉をたくさん書けば書くほど、詳細に書こうとすればするほど、上手くいかなくなっていくことがあります。

そういう時は、言葉を減らしてみる。

つまり、一言で表現しようとしてみる、ということ。

美しい景色の前で、「美しい」の一言で終えてみる。

もはや言葉は必要ない、「美しい」の一言ですら、というひともいるかもしれません。

それはそれでよいでしょう。

言葉をどんどん減らしていきます。

目の前の事物の表現を徹底的にソリッドにしていく、ということ。

これには、一種の集中が必要です。

遊び半分でやってみてください、目の前の事物をたった一言で表現しようと集中してみる。

あるいは、言葉にせずとも、それが何であるかを、シンプルに受け止めてみる。

どれだけ時間を掛けてもいい、二時間でも三時間でも、一日でも一か月でも。

ただ見つめるだけでいい。

そうして掴んだシンプルなイメージは、もうそれがそうでしかあり得ないと思えるような気がしてきます。

そして次は待つのです、そのイメージが突き崩される瞬間が訪れるのを。

時間を掛けてシンプルにしたイメージが崩れ去るとき、その瞬間をわたしたちは、新たな発見の瞬間と呼んでいいのではないでしょうか。

あえて言葉・イメージの崩壊を誘発する。

崩壊を待ってみるということ。

言葉の捨象という作戦は、一見、意味を絶対化するように思えるけれど、でも実際には崩壊の誘発を目的としている点で、絶対化とは一線を画しています。


10.接続の体験

以上に紹介した言葉の過剰も、言葉の捨象も、どちらも言葉の意味が移ろうことを前提にしていて、その移ろいに慣れるための準備運動という意味では一緒です。

最後に、もうひとつのエクササイズを紹介させてください。

それは、感想文を書くということです。

感想文と言っても、堅苦しく考える必要はありません。

なぜなら、これはあくまで準備運動なのだから。

たとえば小説の一節を取り出してみる、書き出してみる、眺めてみる。

取り出した一節が、小説の中で重要かどうかは関係がありません。

好きな一節を取り出せばよいのです。

それについて、言葉の過剰を実行する、あるいは、言葉の捨象を実行する。

そして次に、その言葉を作者がなぜ使ったのかを考えてみる。

そうすることで、ただ読むだけとは違う読書体験ができるでしょう。

取り出した一節が、小説の筆者と感想文を書く読者をつなぐ蝶番になる、ということ。

それは、小説家と読者の接続です。

その接点から、読者はたくさんの言葉の意味を、移ろいを、変化を楽しむことができるでしょう。

言葉が表層のなかで移ろうことを確かめるようにして、あるいは、言葉の意味が動いていることを体験するようにして、筆者という他者を導き入れるのです。

これは、小説に限った話ではありません。

映画やマンガ、詩など様々な作品に対して行うことができます。

つまりは、他者(別の人間、作者)を体験することです。


さて、先に紹介した、言葉の過剰や言葉の捨象は、作者無しで行うことができます。

つまり、ただ自分一人いれば良いのであって、目に映った何かについて考えれば良い。

その意味で、言葉の過剰と言葉の捨象は、世界との素朴な接続と言えるでしょう。

そして、ここで新たに紹介した準備運動は、他者との接続です。

世界との素朴な接続と、他者との接続。

どちらが優れているという話ではありません。

これらを通じて、わたしたちは、表層への疑いではなく、表層が移ろい、何かを隠していて、いつも何かを取り溢してしまっていることを実感することができ、また、その移ろいに慣れることができるでしょう。

図11

この準備運動は、表層の世界で踊るための柔軟性をわたしたちに与えてくれるのではないでしょうか。

※他者について。「世界」も他者ではないか、と思われるかもしれません。しかしわたしはここでは、あえて人間中心的に、人称があるものを他者としています。わたしは、いわゆる作者の死ではなく、生きられた作者を想定しています。


11.深層から遠く離れて

このエッセイは、論述が錯綜していて、厳密性はありません。

思いつきや、アイデアを書き出す形になり、飛躍を多く含んでいます。

それでも、最後までお付き合いいただき大変ありがとうございました。

ここまで読んでいただき、とても嬉しいです。

さて最後に、これまでの話を簡単に要約して、このエッセイを終えましょう。

わたしたちは、表層と深層について考えてきたのでした。

わたしたちは、表層の世界にいて、深層からは遠く離れています。

表層を信じられないわたしは、身体が硬くなり上手く踊れないのでした。

かといって、わたしは、深層を否定したいのではありません。

また、表層を現状肯定的に肯定したいのでもありません。

わたしは、認識不可能な深層というものが、そこにあると信じています。

また同時に、深層は決して到来しないとも思っています。

わたしは、いつの日か深層に到達できる、いつの日にか深層がやってくる、という風に無邪気に信じることはできません。

深層は信じているけれど、決してその到来を信じない。

そうこうしている内に、わたしは表層での踊り方を忘れて、身体がこわばってしまったのでした。

ただわたしは、この硬くなった身体に辟易してしまったのです。

一方で、noteでは、様々な方たちが、のびのびと文章を書いている。

つまり、わたしは、みなさんが踊っているように思うのです。

noteでは様々な方たちが、様々な記事を書いている。

徹底的に表層への猜疑心に貫かれた鋭い詩作もあれば、言葉の手触りを丁寧に優しく包み込むようにして書かれた詩作もある。

ビジネス的で、処世的な、表層の世界を上手く波乗りするような記事もある。

個人の内情を吐露する記事もあれば、素晴らしいファンタジーの世界に連れ出してくれる小説もある。

日常生活での些細な気づきを紡ぐエッセイもあれば、専門的な研究の成果を共有してくれる記事もある。

表層の世界はかくも多様であると感じつつ、どこか言葉への猜疑心を残したまま、それでも果敢に仮定義し、絶対化から逃れながら、表層の世界のなかでわたしも踊りたい。

わたしは、noteで見かけるたくさんの記事が、それぞれの筆者の踊りのように思えてなりません。

皆さんの踊りに、そのリズムに促され、わたしもまた踊りたいと欲望するのです。

そして、実際に踊ってみました。

それがこの記事です。

深層から遠く離れて、あるいは表層の哲学について。


おわり


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