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(9/16)ジェイムズ『純粋経験の哲学』ゼミレポート#2-第1章「「意識」は存在するのか」 @ソトのガクエン

こんにちは、ソトのガクエンの小林です。

ウィリアム・ジェイムズ『純粋経験の哲学』ゼミ、第2回目のレポートです。今回からいよいよ本文読解に突入いたしました。大体、1パラグラフほどを音読し、その内容を確認していく形で進めています。今回から読んでいくのは、第1章「「意識」は存在するのか」です。
まず、タイトルにある「意識」という語に、あえて括弧が付されていることに気がつきます。ジェイムズの意図は、意識というものがまったく存在しないと主張することにあるのではなく、私たちが常識的に、物や事物と対立させる「意識」というものの存在を否定することにあり、ある種の(機能としての)意識の存在は認めるということにある、そのための括弧であると考えられます。

さて、まずジェイムズは、従来、精神と物質、魂と身体という対比で理解されていた「思考」と「物」の関係は、カントが超越論的自我を導入してから、バランスを欠いた物になったと指摘します。新カント派に至っては、精神の原理は、人称的な形式も作用も失い、「ただ単に経験の「内容」が認識されている、という事実」の名前に成り下がり、まるで幽霊のような存在でしかありません。
ジェイムズもまた、従来の「意識」に代えて、ふたつの要素から成らない一種の「絶対的経験の概念」に訴え、存在者としての「意識」を無しにすべく取り組んできたと主張します。

とはいえ、「意識」の存在自体を否定することは難しい。なぜなら、意識を存在のリストから消し去ろうとする者は誰でも、あるいは、消し去ることができた者であればなおさら、そのような(消し去ろうとする、消し去ることができたという)意識が依然として続いていることをなおさら認めなくてはならないからです。(この箇所の原文は、"Whoever blots out the notion of consciousness from his list of first principles must still provide in some way for that functions being carried on."ですが、邦訳は「この機能が果たされることを説明しなければならない」と訳しています。おそらく、"that functions~"をforの補語としており、そのため、目的語が無くなってしまうので「説明しなければならない」と意訳されているように思います。"provide for~"で、"~であることを認める"という用法がありますので(The law provides for "direct review" by the Supreme Court."で、「その法律は最高裁が「直接再調査することを」認める」)、provide forは自動詞で取り、「その機能が続いていることを認めなければならない」と訳すべきかと思います。)
意識というものはどうしても機能や作用として残ります。ジェイムズはこの機能を「認識する」ということであるとして、その存在を認めることになります。

当日の参加者の方々との議論としては、超越論的自我に対する合理論、経験論、新カント派の違いがどうなっているのか、「ふたつの要素から成らない」絶対的経験というのきの「ふたつ」とは何と何なのか、ジェイムズの根本的経験論と彼のプラグマティズムの整合性はどうなのか、といったことが議論となりました。

次回は、9月23日(土)22時より、12頁~から読み進めていきます。


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