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【古典ゼミレポート】ウィトゲンシュタイン『哲学探究』#03「対象を指示する」から「ラベル張り」へ【ソトのガクエン】

こんにちは、ソトのガクエンの小林です。
先日、6月10日(土)に実施されました、古典読解ゼミのレポートです。今回は、ウィトゲンシュタイン『哲学探究』26頁「(c)「語の意味」という概念(8‐15)」から読み進めました。

今回はこれまでで一番困難な回となりました。困難というのは、書かれていることが難しい、何を言っているのかさっぱりわからないということではなく、書かれていることは分かるが、これが何に向けて書かれていることなのか、どこに向かっているのかが分からない、という形の理解しがたさだったかと思います。ですので、予習の段階でひとりで読んでいた時には、「はいはい、なるほど、そういうことね」という感じで読み進めて(読み飛ばして)いたものの、みなさんと一緒に読む段階になると、「はて、これは何が書かれている部分なのか?」という感覚に襲われ、みなさん一様に押し黙ってしまいました。

少なくとも、今回読んだ箇所で、個人的に読み取った論点としては、これまで論じられてきた、名前と対象を一対一対応させるアウグスティヌス的言語観に、「表す」(signify)という論点が加わり、「表す」ことは指し示すことに加えて、実際の使用が含まれているということから、名は対象を外延指示するという考えが一旦退けられ、ある対象にあるラベルを貼ることと解することができる、ということでした。
こうした議論は、ネルソン・グッドマンを読んでいると出てくる、外延指示(denotation)と例示(exemplification)の違い等で議論される点かなぁとは思うのですが、とはいえ、これが言語に関するウィトゲンシュタインの結論でもなければ仮説でもない、ただの一通過点に過ぎないので、とりあえず、そういうこととして先を読み進めるほかありません。

今回のゼミ内で話したことですが、本物の哲学者の思考の速度というか、格の違いというものを改めて体験できた回となりました。ウィトゲンシュタイン本人も自分の思考の速度に必死でしがみついていて、その速度を部分的に減速して書き留めることができた一部分が、私たちが読んでいるテキストであるわけで、文章が読みずらいのは当然のこと、それも折り込み済みである、そのような本物の哲学者の思考に立ち会っているという感覚を覚えました。

もちろん、このような難解な文章を前にすると、読みながら心が折れそうになるわけですが、とりあえずそういうものだとして、また、人生は有限であるとはいえ、同じ本を何度も読むことは可能ですので、これっきりではなく、今後も長い人生で何度も読むうちの一回だと思えば、そう辛くないと思えるのではないでしょうか。

さて、次回は、6月24日(土)22時からです。
よろしくお願いいたします!

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ソトのガクエンが実施しています、現代思想コース/哲学的思考養成ゼミでは、月定額で、基礎力向上ゼミ、古典読解ゼミ、サブゼミ、原書ゼミ、自主勉強会のすべてに自由にご参加いただけます。毎回のゼミの様子は録画しており、アーカイブとしていつでもご覧いただけます。現在、メンバーを募集しておりますので、興味・ご関心お持ちのかたは、ソトのガクエンのHPをご覧ください。

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