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(9/19)『公共哲学入門』ゼミレポート#3-第3章「公共哲学の歴史Ⅱ」(アーレント編) @ソトのガクエン

みなさん、こんにちは。ソトのガクエンの小林です。
9月19日(火)『公共哲学入門』ゼミのレポートです。今回は、第三章「公共哲学の歴史Ⅱ」を、Mさんをリーダーに読み進めました。今回は、前半部分のアーレントの公共哲学の箇所を読み終えました。

アーレントの議論のポイントは、公共領域について理解するには、意見を交換し相互に吟味し合う複数性が不可欠であるというところにあります。これは、ナチズムやスターリニズムの経験や、アーレント自身が1933年のナチスによる政権掌握から1951年のアメリカ市民権の取得まで、無国籍者として生きざるをえなかったことなどが起因しているとテキストでは言われています。

さらに、アーレントは、権力(power)というものを、物理的暴力(violence)や制裁などの強制力(force)から区別したうえで、それは「人びとが(欺瞞的ではない)言葉によって相互の了解をはかり、協調して行為するときに」(58)生じると指摘します。そのような「語り合い」の場で生じる政治的な権力を、誰が占有するのか、何の目的で利用するのかといった問題はありますが、アーレントは政治的権力自体はポジティブなものとして捉えている。では、そのような、あくまでも公共の関心事をめぐって人々が自発的に議論する場などがはたして実際にありうるのか、ということが参加者の方々との間で議論になりましたが、たとえば、自治会の活動(区民運動会や祭りの相談)などは、個人的な利益ではなく、人々が公共的な関心事に取り組む事例としてあるのではないかという話をしていました。

また、今回、多くの時間を費やして議論されたのは、アーレントの言う事実と意見の区別についての議論です。アーレントは、意見の複数性を擁護する一方で、「事実の真理」については一義性を強調します。すなわち、事実については「いろいろな見方がある」という主張は斥けねばならず、事実を担保したうえで、様々なエヴィデンスや証言等の情報の整合性を判断するしかないとアーレントは述べます。
しかし、テキストに書かれているように、まさに「ポスト真理」を生きる私たちにとって、事実と意見を切り離し、事実の客観性や独立性を前提にするアーレントの議論はとてもナイーブなものに見えます。科学的な事実であったとしても、それもまた研究者集団内の関係性で規定される事実であり(ブリュノ・ラトゥール)、あるいは、強大な権力や資金力をもってすれば、客観的な事実すらも隠蔽・変更可能であり、歴史的に見ても、それが実際に行われていることは明らかだからです。

しかし、参加者の方が、アーレントの仕事(work)と活動(action)の区別をこの議論に用いて、事実を何かしらの手段として使用する(仕事)ことをアーレントは否定しているのであり、事実は事実として、それ自体を目的として、意見の妥当性を測る参照項として位置づけることができるのではないかとご指摘いただきました。たしかに、手段としてではなく目的として事実を措定することで、あらゆる政治的対立や議論からこれを区別することができるかもしれません。
また、事実というものの実在性や客観性をそれ自体として担保できるかという存在論的議論、懐疑論的な議論は措くとして、あくまでも政治的な領域においては、ある事実が事実であるかどうかの判断は、さまざまな資料や証言から判断できると言えるかもしれません。コロナの問題、あるいは汚染水の海洋放出問題など、現代を生きる私たちを取り巻く様々な問題について、アーレントの議論を参照・吟味することで、参加者の皆さんとさまざまな議論をすることができました。

次回は、9月26日(火)22時からです。今回は、64頁まで読み進めましたので、次回はその続き、第二節「ハーバーマスの公共哲学」を読んでいきたいと思います。

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