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まず「観る」なら極楽浄土?

『人生観』という言葉は西洋哲学からの訳語であり、「観」には日本人独特の語感があるとみて、小林秀雄はいう。

この言葉に非常な価値をおいたのは、言う迄もなく仏教の思想でありましょう。

『私の人生観』

ここから、仏教における「観」の発想や知識の連鎖が、『私の人生観』全体のほぼ三分の一にわたって展開される。

宗教は、あくまでも「考え方」である。そのうちの一つである仏教も、一口でいえるほど単純ではない。それでも敢えて言うならば、仏教は、自分はなぜ苦しいのか。その苦しみに、どのように向き合うのかを考える宗教だ。そして、悟りを得た仏にとって理想の境地を浄土という。

まず小林秀雄は、「観というのは見るという意味である」と確かめたうえで、「極楽浄土が見えてこなければいけない」と観る先を定める。そして仏教における教えの記録である経典のひとつである『観無量寿経』について語り始める。

当麻曼荼羅(メトロポリタン美術館)

『観無量寿経』は『無量寿経』『阿弥陀経』と合わせて『浄土三部経』のひとつとされているお経だ。『観経』という略称もある。浄土宗をひらいた法然が、拠りどころとするお経として選んだ経典を『浄土三部経』という。『観無量寿経』は、法然の弟子である親鸞がひらいた浄土真宗、さらに連なる一遍がひらいた時宗においても、重要なお経とされている。

「観無量寿経」という御経に、十六観というものが説かれております。それによりますと極楽浄土というものは、空想するものではない。まざまざと観えて来るものだという。観るという事には順序があり、順序を踏んで観る修練を積めば当然観えてくるものだと説くのであります。

『私の人生観』

「十六観」というのは、浄土へ往生するための16段階の「禅定」だという。「禅定」は、心を集中させて、悟りに達するための瞑想のこと。具体的には、以下のとおりだ。

第一観:日想観
第二観:水想観
第三観:地想観
第四観:宝樹観
第五観:宝地観
第六観:宝楼観
第七観:華座観
第八観:像観
第九観:真身観
第十観:観音観
第十一観:勢至観
第十二観:普観
第十三観:雑観
第十四観:上輩観
第十五観:中輩観
第十六観:下輩観

これらを一つひとつ説明してもよいのだが、小林秀雄の要約があまりに見事なので、そのまま引くこととする。

先ず日想観とか水想観とかいうものから始める。日輪に想いを凝らせば、太陽が没しても心には太陽の姿が残るであろう。清冽珠の如き水を想えば、やがて極楽の宝の池の清涼な水が心に映じて来るであろう。水底にきらめく、色とりどりの砂の一粒一粒も見えて来る。池には七宝の蓮華が咲き乱れ、その数六十億、その一つ一つの葉を見れば、八万四千の葉脈が走り、八万四千の光を発しておる、という具合にやって行って、今度は、自分が蓮華の上に坐っていると想え、蓮華合する想を作し、蓮華開く想を作せ、すると虚空に仏菩薩が遍満する有様を観るだろう、というのです。

『私の人生観』

小林秀雄の文章にはリズムやメロディーがあると先日紹介したが、この引用部を音読するだけでも気持ちいい。とくに後半は落語か講談かというくらい、なめらかに流れていく。講演で実際に語ったことなのか、それとも後から加筆したものなのかは分からないが、『十六観』の要約としても、語って聞かせる名調子としても、見事である。

この『十六観』を、小林秀雄は「文学的に見てもなかなか美しいお経であります」と評している。

釈尊を教えを死後にまとめて記録したものが仏典や経典であり、それを解釈し説明したものを含めたすべての書物を『大蔵経』という。それらをすべて「お経」と考えるならば、その数はものすごく多い。

そのなかから、小林秀雄がまず『観無量寿経』を取り上げたのはなぜだろうか。ただ「観」の字がついている「お経」を思い浮かべただけなのだろうか。

(つづく)

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