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玉の秋桜(#シロクマ文芸部)

 秋桜がうすい秋の空に群れて揺れていた。
「まあ、ほんに、みごとに咲いてますこと」
 モスグリーンのタフタ地のドレスに身をつつんだ婦人は、小脇にスケッチブックを抱え、目を細める。
「あの日、ヴィンと植えたのは、たった五株でしたのに」
 秋風が時をひるがえすように吹き抜けた。

「ターマサーン」
 妙な抑揚をつけて呼ぶ声が庭先からする。
 江戸が東京と改まって十二年。西洋文化が堰を切ってあふれるように流れこみ、往来を外国人が闊歩する姿も日常風景となっていた。

 ――あたくしの名は多世でしたが、ヴィンは『タヨ』と発音できず何度言い直しても『ターマ』になります。その度に、二十も年嵩としかさというのに、大きな体を縮こまらせて叱られた子どものようにしょげます。名なんぞ、ただの符丁にすぎません。あの時分は、まだ、幼名を改めるいうならいもありました。もう『玉』でええかと思いましたの。玉のほうが多世よりも幼名のようですけど。あたくしも『ヴィンチェンツォ』とは、舌がもつれて発音できなくて、あの人のことをヴィンと呼んでました。おあいこです。
 玉と名乗った婦人は、風にふくらむドレスのスカートを押さえる。いちめんの秋桜畑は、薄紅やら桃色や白の点描を波立たせていた。

「コレ、植エル、イイね」
 テラスから庭をのぞくと、ヴィンが植木鉢を五鉢用意して汗をぬぐっていた。立派なあご髭の先に土をつけ、にこにこと笑っている。イタリア人のヴィンは気持ちの根っこが明るい。
「まあ、庭仕事でしたら、あたしが」
 芝金杉の植木屋の次女である玉のほうが、庭仕事は手慣れている。ヴィンは粘土で人型をこしらえたり絵を描くのは上手いが、その他はまるで不器用であった。ヴィンの手は芸術を生み出すためだけに、神から与えられたのだと玉は思っている。

 ヴィンことヴィンチェンツォ・ラグーザは、三年前に虎ノ門にできた工部美術学校の彫刻科教師としてイタリアから招聘された。幼いころから絵を描くことが好きで日本画を師について学んでいた玉は、工部美術学校の門戸が女子にも開かれたことを知り入学を希求した。
「西洋画を習いたいだと、寝言もたいがいにしろ。おまえも十五だ。嫁にいく算段でもせんか」
 父の定吉は、取りつくしまもなかった。
 だが、それであきらめる玉ではなかった。
 日本画は紙や絹布に描くが、西洋画ではカンバスに描くという。カンバスとは何であろうか。覗き見るくらいはできぬものかと、毎日のように工部美術学校の塀の周りをうろついていた。ある日、門から中をうかがっていると、背後から声がした。
「ドウシマシタカー」
 振り返ると、顔の下半分が髭でおおわれた碧眼の男がにこにこしながら立っていた。身の丈は高い。金髪や紅毛の異人が多かったが、この男は髭も髪も黒かった。そのことが玉の警戒心をゆるめたのだと思う。西洋画を学びたいのだと告げると、応接室に案内された。

「それが、ヴィンとの出会いでした」
 老婦人はこちらを振り返り、遠い目をして微笑む。

 通訳の青年を伴ってきたヴィンチェンツォに、親に反対されているがどうしても西洋画を習いたいのだと玉は訴え、脇に抱えていた画帖を広げた。日本画の師匠のもとで描いた画だ。それをぱらぱらとめくり、時に腕組みをしながら真剣に見つめていたヴィンチェンツォは画帖を閉じると玉に向き直り、大きな身振りで異国の言葉をまくしたてた。皆目わからず玉がきょとんとしていると、通訳の青年が「先生は、こうおっしゃっています」と語ってくれた。
 親の許可がなく学費が用意できないと入学は認められない。だが、君には画才がある。どうだろう、私の彫刻のモデルにならないか。その代わりに私が西洋画を手ほどきしよう。私もかつては絵を描いていたんだよ、と。

「それで、築地の居留地のヴィンの家に通うことになりました」
 若いころの玉は、金杉小町と噂されるほどの美人だった。ヴィンチェンツォは門の前で玉を見かけ、強く惹かれたという。玉をモデルにした塑像はたちまち評判を呼んだ。

「ターマサーン。コレ、プレゼントね」
 昨日、イタリアから届いたという。泥だらけの手で額の汗をぬぐい、シャツの胸ポケットから何かを取り出す。額もシャツも土で汚れたが、そんなことはおかまいなしに玉に油紙を手渡す。
 出会ってから二年。『プレゼント』とは贈り物のことだと、玉は知っている。この薄い油紙がプレゼント? 薬包紙ほどの厚さしかない。ヴィンはにこにこしながら、早く開けろという。
 なかには、ほっそりとした猫の爪のような種が五粒入っていた。
「これは?」
 玉はひと粒つまんで問う。
「コスモス、タネね」
「こすもす?」
 ヴィンによると、メキシコの高い山に咲いているのを見つけたスペイン人が持ち帰り、八枚の花びらが整然とバランスよく並んでいるところから、ギリシャ語で調和を表す『コスモス』と名付けたそうだ。
「だから、デッサンする、イイね」
 コスモスを正確に美しく写生できれば、西洋画のデッサンの真髄が体得できる。玉のために本国イタリアから取り寄せたのだという。

「ヴィンと植えたコスモスが咲いた日のことを忘れたことはありません」
 薄紅の花びらはヴィンがいったように、黄色いめしべとおしべの円をきっちりと等分するように並んで開き、風に揺れていた。
 玉は花が枯れるまでデッサンを続けた。基本を極めるたいせつさをヴィンは教えてくれたのだった。

 翌年にヴィンチェンツォと結婚しラグーザ玉となった玉は、二年後にヴィンの故郷であるイタリアのパレルモに夫婦で渡航する。パレルモにヴィンチェンツォが工芸学校を開くと、玉は絵画科の教師を務めた。画家としてもヨーロッパ画壇で認められた玉は、ヴィンが亡くなっても日本に帰らず、帰国したのは渡伊から五十一年を経ていたという。

「日本に帰るつもりはなかったのよ」
 モスグリーンのドレスの背を伸ばして、老婦人は群れて揺れる秋桜を眺める。
「でも、こうして、あの日の種が、こんなにみごとに咲いているのを目にすると」
 秋風に消えそうな声がふるえる。
「‥‥ヴィンはここにもいるのね」

<了>

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この作品は、実在の人物であるラグーザ・玉(エレオノーラ・ラグーザ)の生涯を下敷きにしていますが、あくまでも小説であり、学術的な裏付けに基づいてはいないことをご了承ください。玉の夫である、ヴィンチェンツォ・ラグーザが1879年に持ち込んだコスモスの種が、日本におけるコスモス伝播の始まりという説から着想を得たものです。


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今週も締め切りに滑り込みですが、シロクマ文芸部に参加いたします。
よろしくお願いいたします。


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