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『オールド・クロック・カフェ』5杯め「糺の天秤」(2)

前話(「糺の天秤」1)は、こちらから、どうぞ。

<あらすじ>
宇治市役所市民税課係長の正孝は、京都市役所での会議に出席後、遅めのランチをとろうと『オールド・クロック・カフェ』をめざす。その途中で、八坂の塔の階段下でうずくまっている老女を見つける。熱中症かもしれない。老女をおぶってカフェへと運ぶ。

<登場人物>
桂子‥‥‥‥カフェ店主
時任正孝‥‥宇治市役所市民税課係長
原田澄‥‥‥正孝が助けた老女
伊藤直美‥‥澄の孫 

 カラ、ガラガラ……ガラ。
 格子戸の音がおかしい。建付けが悪くなったのだろうか。カウンターに腰かけ文庫本を読んでいた桂子は、いぶかしげに顔をあげる。のっぺりとした風が隙をついて滑り込み、カウンターの上にさげているガラスの風鈴が、ちりん、とひとつ声をたてた。近くの茶わん坂で工房をかまえる常連の泰郎さんの作品だ。もう暦の上では秋なのでしまわないといけないが、清澄な音色が気にいっていて、もう少しもう少しと架けたままにしている。
 ぼーん、ぼーん、ぼーん。
 くるっぽー、くるっぽー。
 店の壁に所狭しと掛けてある三十二台の柱時計が、時間でもないのに騒ぎたてたとたん。
 ガタ、ガシャン。
 派手な音をたて半分だけ開いた格子戸にぶつかりながら、小山のような塊が無理やり押し入って来た。開いた戸口から射しこむ光がまぶしく、桂子はちょっと目をすがめる。白い光を背負って浮かびあがった輪郭で、きもの姿の人が負ぶわれているのだとわかった。二歩三歩とゆらゆら左右に揺れる。慌てて駆け寄ったがまにあわず、ガクンと小山が沈む。かろうじて負ぶわれている老女だけは支えた。
「だいじょうぶですか」
 とっさにふだんより半音階高いキーの声が出た。
 老女を負ぶっていた男性は土間に片膝をついていた。手はまだ後ろで組んで老女の尻を支えている。
「桂‥‥子さん‥‥すみません。おばあさんを‥‥支え、て、くれはりますか」
 喘ぎ声で顔をあげたのは、正孝だった。桂子が驚く、平日のこんな時間やのに。
「正孝さん。どないしはったんですか」
「説明は、あ、あとで。熱中症‥‥かもしれへん。水を」
 桂子はカウンターの内に走り、冷蔵庫から作り置きのレモン水を取り出し塩をひと匙まぜる。そのあいだに正孝は老女を前庭側のテーブル席の椅子に座らせていた。正孝の背も汗でカッターシャツが貼りついている。桂子はクーラーの温度を下げた。
「桂子さん、帯のほどきかた、わかりはりますか」
 正孝が老女の背を支えて水を飲ませながら尋ねる。
 桂子は盆をテーブルに置き、すばやく帯締めと帯揚げをほどく。
 正孝は冷やしたお手拭きを老女の首にあてながら少しずつ水を飲ませていた。
 帯をはずし胸の締め付けをゆるめたからだろうか、老女の顔にいくぶん生気がもどってきていた。
「そや!」
 正孝が急に素っ頓狂な声をあげ、桂子も老女もびくっとする。
「八坂の塔の階段でぐったりしてはったんです。あそこで待ち合わせしてたんかもしれん。探してはったらあかんから、ちょっとメモ残してきますわ。ガムテープかなんかありませんか」
 言いながら戸口に向かおうとした正孝は、急に手をつかまれぎょっと立ち止まる。
「行かんといて、ただすさん」
 老女が両手で正孝の右手をつかみ、また、はらはらと涙をこぼしている。
「行かんとって」
 正孝と桂子は顔を見合わせる。
「うちが行ってきます。八坂の塔の階段ですね」
 桂子は広告の裏紙にささっと走り書きをすると、黒のカフェエプロンのポケットにガムテープを突っこんで駆け出す。
 また、さっと風が入って、ちりん、と風鈴が鳴る。
 老女は正孝の手を両手で握りしめ額に押し付けている。正孝はあいている左手で老女の背をぽんぽんと撫でるようにたたきながら、
「だいじょうぶ。どこにも行きませんよ」と、その耳にささやきかけた。
「ほんまに?」
 握る力をゆるめて見あげた老女に、正孝はうなずいてみせる。
「いややわ。はしたないこと、してしもて」
 老女はあわてて正孝の手をはなし、いたずらが見つかったみたいに両手を背中に隠す。正孝は向かいの席に腰をおろした。
「ご自宅の電話番号はわかりますか」
「ここに」
 老女は斜めがけにしていた布製のショルダーバッグの蓋をあげる。フラップの内側に白い布が縫い付けられていて、そこに「原田澄 090-24××-××××(伊藤直美)」と赤い糸で刺繍されていた。
「原田澄さんですか」
 尋ねると、こくんとうなずく。
「直美さんは、娘さんですか」
「孫どす」
「直美さんに、澄さんはここにいらっしゃると連絡してもかまいませんか」
 また、こくんとうなずく。
 スマホに番号を入力して正孝は立ち上がる。スピーカーをオンにして澄にも聞こえるように話すほうが誠実かとも思ったが、確かめたいこともあって正孝は席をたった。
 スマホから聞こえたのは明るい娘の声だった。事情を話すと何度も「すみません、すみません」「えらいご迷惑をかけて」とあやまる。「すぐに迎えに行きます」とせきこんだが、熱中症ぎみであることを話し、しばらく様子をみてからまた連絡すると伝えた。直美によると、やはり澄は軽い認知症らしく、ときどきふらりと出かけて迷子になるそうだ。
 電話を切って澄の前に座る。顔色がずいぶんよくなっている。
「ただすさん、柱時計がこんなにぎょうさん……」
 なぜじぶんが「ただすさん」と呼ばれるのか気になってはいる。だが、いつものように名刺を渡してまちがいを正す気にはなれなかった。
「ぜんぶで三十二台もあるんですよ。先代のオーナーが集めたそうです」
 まあ、と澄は目を輝かせる。目尻にも額にも頬にも幾重にもしわが波打っているのに、窓から差しこむ陽に照らされたその顔は童女のようにみえて正孝は目をこする。
 外から戻ってきた桂子が、盆にグラスと湯呑をのせてきた。
「桂子さん、すみませんでした」
 正孝は立ち上がって直角に頭をさげる。
「もう、正孝さん、すぐそこなんやから。それより、きょうはまた有休でもとらはったんですか」
「京都市役所で出張会議やったんです」
 答えながら正孝は腰をおろす。
「せっかくやからランチはオールド・クロック・カフェでと向かってる途中で、八坂の塔の階段でうずくまってる澄さんを見つけました」
「ほんならお腹すいてはるんとちゃいます? 何をお作りしましょ」
 桂子は正孝の前にレモンの輪切りの浮いたグラスを置く。メニューは正孝がそらんじているため置かない。
「じゃあ、玉子サンドとモカを」
「かしこまりました」
 正孝のオーダーを受けると、桂子は澄のほうを向く。
「おかげんは、どうですか」
「おおきに。もう、だいじょうぶどす。えらい迷惑かけてしもて」
「お水をお取替えしますね。こちらはあったかいほうじ茶です。もし、お腹がすいてはったら‥‥」
 と言いながら、桂子が澄の前にグラスと湯呑を置き、メニューを渡そうとしたときだ。

 ぼーん、ぼーん、ぼーん。
 柱時計のひとつが、突然、くぐもった声をあげた。

「あ、鳴った」
「ひょっとして、こ、これが、時のコーヒーの‥‥」
 正孝が早口でまくしたてる。
 はい、と桂子がほほ笑む。
 がたん、とテーブルに膝をぶつけ正孝が立ちあがる。
「ど、ど、どの時計が鳴ったんでしょう」
 桂子は正孝の斜め後ろの壁にかかっている柱時計を指さす。
「七番の時計ですね」
 ゴン。
 正孝は振り返ろうとして、こんどは膝をゴブラン織りの椅子のアームにぶつける。二人のようすに澄はきょときょとしている。
 正孝は椅子に座りなおすと、テーブルに身を乗りだし澄に話しかける。
「こ、ここのカフェには、と、時のコーヒー‥‥時の忘れ物を落とし‥‥あれ?」
 ぷ――っ。くすくすくす。
 ふだん無表情な正孝が興奮してしどろもどろになってるのがおかしくて、桂子は吹きだしてくすくす笑う。
「正孝さん、落ち着いて。うちが説明します」
 桂子は盆を胸に抱えたまま、澄のほうへと向き直る。
「澄さん、そこの壁に二本の木がからまったような柱時計があるのが見えますか」
 澄は斜め上の壁を見あげ、こくんとうなずく。
「あの時計が、澄さんのことを気に入ったようです」
 えっ、と澄が首をかしげる。
「うちの店には『時のコーヒー』いう、ちょっと不思議なコーヒーがあります。それを飲むと、時のはざまに置いてきた忘れ物を思い出すそうです」
「忘れ物?」
「その方にとってはたいせつな思い出やけど、無意識に記憶にふたをしてしまっているもの、でしょうか」
「でも、誰でも飲めるわけではなくて、時計に気に入られないとだめで。時計が飲む人を選ぶんです。今、あの時計が鳴ったでしょう。あの七番の時計が澄さんを気にいったみたいです」
「七番の‥‥時計」
 その時計は、朽葉色の二本の樹木が互いに枝を伸ばして一本の木になっているようだった。澄は遠い日のどこかでよく似た何かを見たような気がして頭を振る。
「時計には一台ずつ番号がついていて、その番号の豆を挽いて淹れるのが、時のコーヒーです。時計の時刻も忘れ物に関係しているそうですよ」
 二本の木から伸びる枝に縁どられるようにしてある文字盤は、三時四十五分をさしている。
「この時刻に心当たりはありませんか」
 澄は首をふる。
「ぼくは二月から週末ごとにずっと通ってるんですけど、まだ時計が鳴ったことがなくて、時のコーヒーを飲んだことがないんです。澄さんがうらやましい」
 正孝が興奮を抑えきれない声でいう。
「ただすさんが、そういわはるんやったら。そのコーヒー、いただかさせてもらいます。ほんの今しがたのことでも忘れてばっかりやさかい、忘れ物がぎょうさんありすぎて時計のほうが困りはるんちゃいますやろか」
 澄は、ふふふと、やわらかに笑う。
 桂子が店を継いでから時のコーヒーの時計が鳴ったのは七度めだ。不思議なコーヒーの説明をすると、多かれ少なかれとまどうか、怒り出したお客さんもいた。こんなふうにたおやかに受け入れてくれたのは澄がはじめてだ。
「澄さん、お腹はすいてはりませんか」
 正孝が尋ねる。
「へえ、少し」
「じゃあ、ミックスサンドも追加でお願いします」
「かしこまりました」
 桂子は正孝をまねて直角に頭をさげてみる。目の前の二人のやりとりが初ういしい恋人のようで、桂子はなんだか笑みがこぼれてしかたなかった。

(to be continued)

続きは、こちらから、どうぞ。

 

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