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京奈和自転車道(京都〜奈良〜和歌山)を辿るサイクリング旅 2024年春 【トピックス編】

1. 京都奈良の仏閣訪問

1)平等院

 先日からの雨も朝方に上がり、昼頃には春には少し強すぎる陽射しがさすようになっていた。好天に恵まれたこともあり、表参道の鳥居に到着した11時ごろには、外国人観光客が溢れていた。拝観入場の列は短かったが、鳳凰堂の内部観覧は1時間半の待ち時間と告げられ、これは断念した。鳳凰堂の姿は、写真ではお馴染みだが、前面にある池越しに見る実物の姿は、思ったよりかなり小ぶりだった。池畔にある桜(枝垂れ桜)の花が見頃だったのも予想外。隣接しているミュージアム鳳翔館(博物館登録)で、多くの仏像や所蔵品を見ることができる。

平等院鳳凰堂全景
池畔の桜

 やはりここまで来て、鳳凰堂内部の壁画や、国宝の阿弥陀如来坐像が見られなかったのは残念ではあった。時間に余裕があれば、ミュージアムに併設された茶房で時間を過ごしながら待ったほうが良い。
 鳳凰堂の裏手、平等院を管理する寺院の入り口付近に、「源三位頼政公墓所」という立て札があり、何だろうと思った。のちに調べたところ、源氏と平氏が武士集団の権力を争った保元・平治の乱で、清盛陣営について源氏の武士として勝ち組となった源頼政が、その後の清盛の専横を見かねて以仁王を担いで反旗を翻したが失敗し、南都(奈良)の諸寺を頼って落ち延びる途中、ここ平等院で追討軍と戦い(宇治平等院の戦い)、自害したのだった。

 駐輪場が近くにはなく、駅前の市営の駐輪場に停めるしかないようだった。今回は、表参道沿いにあったお茶屋さんの入り口にあった5台ほどの駐輪スタンドを使わせていただいた。

 (付記)平等院の歴史:仏教は、元々現世での救済を求めるものであったが、平安時代末に末法思想(ブッダの入滅から2000年目以降は仏法が廃れるという思想)が流行った際に、現世での救済から来世での救済に変化していった。
 光源氏のモデルともいわれる嵯峨源氏の左大臣源融が営んだ別荘だったものが、その後、摂政藤原道長の別荘「宇治殿」になった。その子である関白藤原頼通は、末法の世が到来したこともあって、宇治殿を寺院に改めようと考えた。そして、京都岡崎の平等院(天台宗寺門派)の住持明尊大僧正を開山とし、その際、新たな寺院の名称として「平等院」の名を欲し、岡崎の平等院の名称を譲り受けた。その経緯から、その後、滋賀県大津市にある天台宗寺門派園城寺の末寺となる。
 室町時代に入ると徐々に廃れていき、戦国時代には、浄土宗の僧侶が修復を行い、塔頭浄土院を創建。その後園城寺は江戸初期に平等院を放棄した。以降は、浄土院が管理を行うようになるが、その後、天台宗寺門派は、この地に塔頭・最勝院を創建したため、浄土宗と天台宗寺門派の間で管轄を巡って対立が起きる。江戸幕府の寺社奉行の裁定によって浄土宗・天台宗寺門派の共同管理と決まった。現在は、天台宗系の最勝院と浄土宗寺院の浄土院が年交代制で共同管理しているという。(Wikipediaから要約)

2)東大寺

 高校生の時の修学旅行以来、何十年ぶりかの再訪。桜の花が満開の季節、天気に恵まれた日であったので、朝から多くの、大半は外国人観光客の姿が見られた。自転車は、南大門に向かって左側のまばらに木々が生えているところに駐輪できるが、ロードバイクスタンドはない。
 見どころは、南大門と門内左右に安置された吽形(うんぎょう)、阿形(あぎょう)の仁王立像、そして大仏殿と殿内に安置された大仏である。

南大門阿形(あぎょう)の仁王立像

 これら全て国宝であり、それぞれ国宝に相応しい見事な造形美に溢れている。とりわけ、大仏殿(金堂)を囲む回廊を辿って中庭に足を踏み入れた途端に、眼前に荘厳な巨躯を見せた大仏殿には息を呑んだ。

大仏殿
大仏

 何十年前の初対面の時にはどのように感じたのであろうか。創建当時の大仏殿は、のちの源平合戦の戦乱の際に、平重衡(注)の襲撃で灰燼に帰した。その後、江戸時代に入ってやっと本格的な再建が行われたが、創建当時の規模は、間口が二倍近くあったようだ。恐るべき巨大建築だったのだ。大仏の方も高さが約15メートルと巨大であるが、こちらは創建当時とほぼ同じ大きさのようだ。しかし、この大仏より大きな大仏がかつてはあった。秀吉が権勢を誇っていた時期に創建した京都東山の方広寺の大仏の方が大きかったという(約19メートル)。しかし、残念ながら江戸時代中期に火災で焼失し、その後、何度か再建したが、すべて焼失してしまった。

(注)平重衡:清盛の五男。前述の「平等院」の附記で源頼政の墓の由来を述べたとおり、頼政を平等院で討ち取った。さらに、同じ年に、奈良に打ち入って南都を焼け野原にしたため、南都の衆徒からの激しい恨みを買った。のちに一の谷で平家が敗れた際に囚われて鎌倉に送られ、その人柄が源氏からも慕われ厚遇されたが、平家が壇ノ浦で滅びたのち、怨讐止まぬ南都の衆徒から引き渡しを要求され、木津川畔で斬首されたうえ梟首された。「仏の怨み」恐るべし。

 奈良の大仏というと、映画ファンの私は、どうしてもすぐに清水宏の映画「大佛さまと子供たち」(1952年)を思い出してしまう。戦災孤児を集めて面倒を見たことでも知られるが、戦災孤児たちを主人公にしていくつもの傑作を作っている。その中の一本が、この作品だ。子供達が、戦後の鄙びた奈良の里を縦横無尽に駆け回る。その中に、大仏の手のひらの上に乗って遊ぶシーンが出てくる。驚愕のシーンだ。私も子どもの頃、今なら大問題になるような悪戯をたくさんしたが、こんなことが、戦後の混乱期にはできたのだろうかと、妙に感動した記憶が残っている。もっとも、本当に実物の大仏の手のひらに乗っていたのかどうかは確かめられていないのだが・・・。
 大仏というともう一つ思い出す子ども時代に遡るエピソードがある。子供の頃、家には本らしき本はほとんどなかった。「イソップ物語」と、なぜか十返舎一九の「東海道中膝栗毛」の子ども向け版「弥次さん喜多さん」(だったと思う)があった。この「弥次さん喜多さん」は何度も読んだ記憶があり、その中に、大仏殿の中の大きな柱の根元がくり抜かれて穴が空いていて、その穴を潜れれば無病息災や厄落としができるとのことで、太っている弥次さんの方が挑戦するが、途中でつっかえてしまって、二進も三進(にっちもさっち)も行かなくなり、参拝客の笑いのタネになってしまうという場面がある。東大寺大仏殿の中には、今でも、この穴が空いた柱があり、とりわけ外国人観光客に大人気になっていた。欧米系のスリムだが身長のある女性がトライして、途中でつっかえて、苦戦する姿に、周りの見物人が応援したり笑ったりする光景もあり。日本人参拝客だけでは、生まれそうにない和やかな光景が見られた。

大仏殿の柱くぐり

 堂内には、御朱印所に並んで、本格的な角柱のみくじ筒を振ってみくじ棒を取り出す御神籤所もある。列ができていたが、皆外国人観光客だった。数人の後ろに並んで順番を待った。すぐ前に、米国人と思しき若いカップルが並んでいた。すると二人が何やら騒ぎ出した。なんと二人別々に引いたのに、二人とも”凶”を引いていた。どうしたらいいか動揺している。その様子を見てみくじ売り場の窓口の年配の担当者が、二人を手招きして呼び寄せて、「今日のうちにxxすれば(よく聞き取れなかったが、御神籤結び場所に結んで帰ればと言っていたのだろう)明日からは大丈夫だ」というようなことを”和風英語”で説明して、二人を落ち着かせていた。その直後にくじ引きの順番が回ってきたので、よっぽどやめようかと思った。が、意を決して引いた。運勢の書かれている面を内側に折りたたんで渡されるが、透けて見える文字に大吉の文字が!今回の自転車旅は、無事で、良いことに出会えそうだと安堵し、西の京へ向かった。

3)唐招提寺

 東大寺の賑やかさとは対照的に、訪れる参拝客、観光客は少なく、境内に一歩足を踏み入れた途端に、その落ち着いた佇まいに心身が包みこまれた。木々に囲まれるようにして玉砂利の参道の正面に立つ金堂の優美さに息を呑む。アンバランスと思えるほど建物に占める屋根部が大きいが、その屋根が左右に美しい曲線を描いて伸びている。その屋根を支えるように何本もの装飾性のある太い柱が正面に等間隔で並んでいる。参詣時にいただいた解説書には、
「豊かな量感と簡素な美しさを兼ね備えた天平様式、正面に並ぶ8本のエンタシス列柱の吹き放ちは、遠くギリシャの神殿建築技法がシルクロードを越え、日本に伝来したかのように感じさせます」とある。

唐招提寺金堂

 中には、本尊の盧舎那仏(大仏)、両脇に、薬師如来、十一面千手観世音菩薩。金堂とこれら三尊が、裏手の講堂、東側に立つ宝蔵、経蔵ととともに国宝となっている。裏に回って緩やかな坂を登ると創建者鑑真和上の像を納める御影堂がある(年に数日しか開扉されない)。さらに東北側のすみに、築地で囲われて、木立と地面が美しく苔に覆われた地面の先に、鑑真和上の廟がひっそりと佇んでいた。

鑑真和上廟入り口の築地
鑑真和上墓所

 我々の世代では、奈良時代の偉人として第一に心に浮かぶのが鑑真和上であるというのは、不思議なことではないだろう。一世を風靡しながらも、現今、ともすれば忘れられがちな小説家、ノーベル文学賞候補にもなっていた井上靖の傑作歴史小説「天平の甍」は、少年の心を歴史ロマンに導いてくれた作品であった。

4)薬師寺

 境内がだだっ広くひらけた空間であることが、見てきたばかりの北隣の唐招提寺とあまりにも対照的だった。奈良時代まで遡る国宝の東塔を除いて、大半の建築物が昭和後期から平成末にかけての新しいものであるため、歴史的な風情が感じられない。そのような中、東塔だけが、奈良天平時代の風情をたっぷり漂わせている。”凍れる音楽”と表された優美さは、今も変わらずに感じることができる。

”凍れる音楽”薬師寺東塔

 今回は、ちょうど一年で最大の行事である修二会の初日であった。期間中さまざまな法要や奉納行事が行われるようだが、今回は旅の途上に立ち寄っただけなので、天理大学雅楽部の楽隊の演奏行列とそれに続くお稚児さん行列を見物しただけで、寺を後にした。

5)斑鳩法隆寺

 はるか昔の法隆寺訪問の記憶はすっかり消えていた。これほど大きな伽藍が残っていることがまず第一の驚きであった(注1)。現在は五重塔や金堂、大講堂などのある西院伽藍が中心で、夢殿のある東院伽藍は飛地のような位置関係になっているのが奇妙な印象を受ける。
(注1)のちに東京ドーム14個分の広さがあることを知った

西院伽藍遠望
法隆寺五重塔
法隆寺金堂

 法隆寺の拝観料は1500円と他の寺院に比べても高く、中宮寺拝観の600円も合わせると2100円とかなり高額となる。しかし、拝観しながら、飛鳥時代の歴史的建造物や文物が集中していることに気づくと、決して高くはないという思いが湧いてきた。国宝、重要文化財は190件、3000点に及ぶという。また、世界で唯一1000年を超える木造建造物として、ユネスコの世界遺産に日本で初めて登録された。
 千数百年の歴史を感じさせる木造建造物に囲まれた伽藍は、拝観者もあまり多くなく、古を偲びながら建物や仏像などを眺めていると、飛鳥時代にタイムスリップしてしまいそうだ。
 西院伽藍の北東部に大宝蔵院という宝物庫があり、百済観音像や夢違観音像、玉虫厨子(推古天皇所持)など、貴重な宝物類が数多く収納展示されている。しかし、何といっても、法隆寺の見どころは、五重塔と金堂内部の仏像群だと思う。五重塔は、五層の屋根が上層に行くに従って徐々に小さくなり、最上層は最下層の半分の大きさ(面積)になっており、安定感と優美さを醸し出している。近くで見上げると、屋根の下の屋根を支える雲型肘木(ひじき)が見られる。ここでしか見られない”見せる肘木”である。まるで、脱ぎ着するときにしか見えない羽織の裏地でおしゃれをする日本人の美意識とも通じるかのようだ。

五重塔を支える構造

 他にも、釘が一本も使われていないのは当然として、建物の中心に聳える心柱が、最上層の屋根にしか接続しておらず、建物の重みの大半を占める残りの瓦屋根(庇)は別の16本の柱で支えられていて、吹き抜け構造になっているということなど、見どころがたくさんある。ちなみに、東京スカイツリーはこの構造を模して作られているらしい。
 隣に立つ金堂(国宝)も五重塔と調和した建物で、とても美しい。内部には、聖徳太子の似姿で作られたとも言われる釈迦三尊像(飛鳥時代)、薬師如来像(飛鳥時代)、四天王像(飛鳥時代)、吉祥天立像(平安時代)など、国宝の仏像が並んでいて壮観だ。
 長い石畳を歩いて東院伽藍へ。ここはほぼ夢殿(国宝)だけで構成されているこぢんまりした空間だった。夢殿は、聖徳太子を供養するお堂として作られたものである。この地は、もともと聖徳太子一族が住んでいた斑鳩の宮があった場所で、のちに戦乱で宮が消失し、それを惜しんだ法隆寺の僧が、夢殿を含む院(上宮王院)を建立し、時代を経て法隆寺に統合されたものである。西院伽藍との規模の違いや離れた距離の理由がこれで理解できた。

法隆寺夢殿

 なぜ八角堂すなわち(正)八角形で作られたかには、とりわけ数学好きなら大いに興味が惹かれるだろう。調べてみると”円堂”という言葉もあった。”円堂”とは時に”八角円堂”とも呼ばれ、八角堂(または六角堂)のことであった。すなわち、望ましい”円”に模して作られたものだった。円は三角形とともに、この世界(ユークリッド空間)の平面を構成する基本図形である。方向性がなくあらゆる方向に平等である。仏教(宗教)的にも特別の意味を持ちうるだろう。しかし、木造建築を円形に作るのは難しい。よって、円に近くて、建築の手間として許容できる八角形が用いられたと考えるのが良さそうだ。さらに調べてみると、現在残っている八角堂はほとんど鎌倉時代以降のものだった。奈良時代のものとしてはもう一つ、奈良県五條市の宝山寺に国宝に指定されている八角堂がある。今回の自転車旅のルート沿いだったが、気付かず通り過ぎていた。
 鎌倉時代に入ると、興福寺(北円堂)、法隆寺(西円堂)、広隆寺(桂宮院本堂)、東福寺(愛染堂)などに作られているが、現代では、青森県立美術館に2006年に奈良智美のデザインによって作られた「八角堂」とよばれる八角形をした煉瓦の建造物があり、奈良智美の大型立体作品、高さ約6メートルのブロンズ像《Miss Forest/森の子》が展示されているのだった!この美術館には以前に訪れたことがあるが、気付かなかった。

6)中宮寺

 東院伽藍に隣接して中宮寺が位置している。アルカイックスマイルで知られる「半跏思惟」スタイルの国宝菩薩半跏像(伝如意輪観世音菩薩)で有名である。中宮寺は、もともと、ここから500mほど離れた地に聖徳太子が母后のために建立した尼寺だという。国宝菩薩半跏像は、高松宮妃の発願で1968年(昭和43年)に建てられたのだという和風の現代建築の本堂内に安置されている。法隆寺境内の古の風情に浸った後この金堂に対面すると、大きな違和感を感じずにはいられない。設計は知る人ぞ知る、数寄屋建築の研究者であり、数々の現代的数寄屋建築を手掛けた日本を代表する名建築家吉田五十八である。暗いお堂の奥に鎮座する国宝菩薩半跏像の前の畳に腰を下ろして、スピーカーから流れてくる説明を聞くと入れ替え制で座を立つ。全く味気ない拝観だ。菩薩半跏像と心ゆくまでじっくり対面する場であって欲しいものだ。

中宮寺本堂(正面からは写真を撮れない)

(補足)
 この日は、和歌山県に接し、紀ノ川上流に位置する五條市まで走る必要があり、当初の予定では、飛鳥地方を巡ってから五條市に至るコースを考えていた。しかし、法隆寺の拝観を終えたのがすでに午後3時50分。しかも昼食抜きの状態だったため、門前の食堂でカツ丼をかき込み、出発する時点で午後4時半。もはや飛鳥地方巡りは断念せざるを得ず、五條市を目指して真っ直ぐ南下した。以降は「走行ルート」に述べたとおりである。

2. 城(和歌山城と岸和田城)

 和歌山城は言わずと知れた徳川御三家の一つ紀州徳川家の城である。戦前は、国宝に指定された城だったが、残念ながら戦災で失われ、昭和33年に鉄筋コンクリートで再建された。姫路城、松山城と並んで日本三大連立式天守だという。天守閣、小天守閣と二つの櫓が多門櫓(長屋状の櫓)によってぐるっと一周繋がっている構造である。小高い丘の上に建てられており、眼下の大河紀ノ川とそれに続く紀伊水道(海)に臨む。天守閣からの眺望は見事だった。場内の桜の花は見頃を迎えていて、奈良より早く春が到来していることを実感した。
 歴代将軍の中でも知名度が高い八代将軍吉宗から、十二代将軍家慶まで5代続いた後、一代飛んで幕末の動乱の中で将軍職に就くも二十歳で病没した十四代家茂まで、六人の将軍が紀州家から将軍職に就いている。
 城内にあるわかやま歴史館に、和歌山出身の著名人として、陸奥宗光、南方熊楠、川端龍子、松下幸之助、有吉佐和子が紹介されていた。松下幸之助が和歌山出身だったということは全く頭になかった。有吉佐和子は、代表作品が「紀ノ川」(地元の素封家の明治時代から始まる三代に渡る女性の物語)であるから疑う余地もない。とりわけ、名匠中村登による映画「紀ノ川」は、司葉子と岩下志麻が母娘を演じた、日本映画史に残る傑作である。数多くの映画に出演し日本を代表する映画女優の一人である司葉子にとっても代表作品と言えるだろう。

和歌山城天守閣
天守閣から見下ろす連立式天守

 岸和田城は、当初、時間の制約もあり訪れる予定はなかったのだが、和歌山から大阪市内にひたすら走っていて、ふと顔を上げたときに、道路のすぐ横に聳えていたため、思わず立ち寄った。豊かに水を湛えた広々としたお堀に囲われている。石垣が優美な曲線を描いて立ち上がり、その上に白漆喰の3層天守閣が立つ。快晴の青空に映える。この日4月1日は月曜日で、天守閣のある本丸庭園が閉苑の日であったが、幸運にもこの日から、桜まつりが始まり開苑しており、天守閣に登ることができた。平城ではあるが、周囲に高い建物が少ないため眺望がよい。お堀の周囲には、桜の木が数多く植えられているのだが、まだほとんど花が開いていない。和歌山市との違いが不思議だった。

快晴の空に映える白漆喰の岸和田城

番外編:京都市京セラ美術館訪問

 ちょうど、村上隆の展覧会が開かれていた。8年ぶりの日本での展覧会で、日本での展覧会(個展)は、これを最後にするという触書きで開催されていた。そんなこともあり、前泊の午後、京都駅に到着した足で、タクシーに乗り京セラ美術館に直行した。輪行袋に収納した自転車は、そのまま大型手荷物としてクロークに預かってもらえた。以下、鑑賞した体験と感想を簡単に紹介したい。なお、この旅からちょうど1ヶ月後、NHKEテレで日曜美術館「モンスター村上隆 いざ京都!」が放映された。この番組から得た知識、情報も含めて紹介する。
 入館すると、会場入り口の前に、全面ガラス窓の向こうに美術館の庭園が広がる。その真ん中にある池に村上が生み出したキャラクター”お花の親子”(個人的には”ひまわりっ子”と呼びたい)の巨大な金色のオブジェが、やはり巨大なルイ・ヴィトンのトランクの上に立っていて、その違和感と迫力に目が釘付けになる。

”お花の親子”像

 展示会場に続く廊下の壁に、岩佐又兵衛の「洛中洛外図屏風」を村上流に換骨奪胎した作品が展示されている。日本画の特徴である雲には、よく見ると髑髏がびっしり描かれている。ところどころに、カラフルな漫画チックなキャラクターが描き足されているが、これらは、京都に住み着いている”もののけ”たちらしい。

村上版「洛中洛外図屏風」

 展示は大規模だ。次の注目作品は「風神雷神図」。俵屋宗達のオリジナルの「風神雷神図屏風」の絵が、キャラクター化された可愛らしい風神と雷神に置き換えられている。京都の四方、玄武(北)、朱雀(南)、白虎(西)、青龍(東)を照明を落とした大部屋の四方の壁に見立てて、キャラクター化された動物絵ですっかり覆い尽くす作品は、大迫力でせまってくる。そのほか、フィギュアを並べた展示室や”お花”で覆い尽くされた壁画など盛りだくさんである。
 「奇想の系譜」で知られる日本美術史研究の重鎮辻惟雄を師と仰ぎ、テレビ番組には、展覧会会場に足を運んだ91歳の辻に対して深い敬愛を示す姿があった。その辻に、「あんた、たまには自分で描いたらどうなの」と言われて、悔しくて描いたというのが、曾我蕭白の「雲龍赤変図」村上版。この作品は、もっとも”絵師”の描いた絵らしい作品に感じられた。
 さらにもう一つ特筆すべき特徴は、琳派、浮世絵の日本画の系譜の延長にある漫画、アニメまで含めた「平面性」に「オタク」文化を融合して生み出した「スーパーフラット(超二次元)」という概念。また、世界の美術界の驚かせた作品「ローンサム・カウボーイ」。若々しいアニメキャラクターの屹立する男根から飛び散る精液が空間に描く樹状のフォルム。辻は、狩野派が描いた松のダイナミックにうねる樹の形状や、北斎の「神奈川沖波浪」の砕け散る波の形などからの伝統的な芸術性を見てとる。日本各地で続いてきた、男根を崇拝して祭りで担ぐなどの「ファロシズム(ファロクラシー)(男根主義)」も、村上芸術につながっているとも解釈している。

 村上隆は、漫画やとりわけアニメなどに熱中する青少年時代を過ごし、芸大を目指し二浪して入学した。その後の経緯はあまり知らないが、今は、埼玉県北部の三芳町に物量倉庫を改造した大工房を作り、180人もの製作スタッフを抱えるアートディレクターとなっている。今回の大規模な展覧会についても、京都市と組んで、その資金調達にふるさと納税の仕組みを使い、1ヶ月で3分の1の資金を調達したという。鬼才恐るべし。

余談:日本画壇で異色の作風、作品で活躍している別のもう一人の画家、山口晃(あきら)。大画面に緻密な絵を平坦にびっしり描きこむ手法で、江戸時代の「洛中洛外図屏風」の絵の中にバイクなどの現代文明の物品を描きこんで、時空間を飛び越えた変な絵を描く。その山口晃が、今回の自転車旅で訪れた平等院内にある養林庵書院の襖絵を描いていたことを、この旅記録の執筆中に知った。

4。 人との出会い、会話

面白い出会いもあり、苦い出会いもあり。

0)東京駅丸の内南口にて

 9時半過ぎのひかり号の自由席に乗車するために、8時半に東京駅丸の内南口にロードバイクを乗りつけた。駅の入り口近くで輪行袋に収納する作業をしていたところで、サラリーマン風の中年男性が作業中の姿を見ていることに気がついた。仕草で挨拶すると、声をかけてきた。平日のこの時間にこんなところでこんな作業をしている人間に、自然に興味を持ったようだった。自転車をどんな風にどこまで運んでどんなコースを走るのか、そしてその面白さなどをごく簡単に語ったように記憶している。この人も、仕事や人生で何かに悩み何かを発見し何か新しいことをしてみたいという想いが胸中に眠っていそうだなあと感じさせる一期一会の出逢いであった。

1)新幹線内で

 新幹線ひかり号自由席車両の最後部3列席の窓際に乗車。東京駅を出発した時にはガラガラで、意外なことに小田原で多くの乗客が乗ってきて半分くらいの座席が埋まった。3列席の通路席にサラリーマン男性が座る。読書をしていたところ、音が聞こえてくるので、横を見ると、パソコン画面をのぞいている。イヤホンを使わずにパソコンで動画を見ていると思い、パソコンから音漏れしてるよと注意したところ、パソコンではない、手に持っていたスマホからの音だから、指摘は当たらないとでもいう態度だった。一瞬呆気に取られたが、明らかなマナー違反なので、車両から出て行って聞くように強い口調で伝えた。その男は、気圧されたのか、それ以上反抗する姿勢は見せずに、席を立って車両を出ていった。
 この話を、のちに知人にしたところ、厳しく咎められた。今の時代、そういう態度を取るのは身を危険に晒すことになる。相手によっては、恨みを持たれて最悪の場合刺されたりする。そういう場合は、車掌のいる車両に行き、事情を説明して対応してもらうのが正しい対処の方法だと。指摘されて、なるほどと納得した。”持つべきものは賢き友”なるべし。

2)京都のタクシー車内で

京都駅から京セラ美術館まで乗ったタクシーの運転手:
 乗るなり、これから天気がどう変わるか、夕方には大雨になること、桜の開花が例年より大幅に遅れていることなど、観光ガイドのように話してくれる。混雑した道を避けながら一方通行の路地を走り、美術館まで運んでくれた。

京セラ美術館から宿所まで乗ったタクシーの運転手:
 花園会館まで運んでもらったのだが、運転しながら”花園(会館)”をカーナビに探させて、あっちにもある、こっちにもあると楽しんでいる。話題提供のサービス精神と見たので、こちらからも相槌を打ったり、こちらの知識で反応したり。今度は、こちらから、サービス精神で、ちょうど開催中の春の選抜高校野球に出場していた京都外大西高校を話題にして問いかけると、意外に会話が発展する。最後には、あまり大きな声では言えんのやけど、「・・・」と地元の人間は誰でも知っとるという暴露話が出てきた。この話題がひと段落したところでちょうど宿所に到着。

3)京都の宿所で

 輪行袋収納のままチェックイン。走行初日の翌朝、早く出たいので、組み立てておきたい。しかし、自転車置き場はないという。受付でちょっと待たされてから、ロビーの端っこに導かれて、この辺りに置いてくださいと言って、立ち去る。と言われても、ロードバイクは自立しないので、全面ガラスの窓に気をつけて立てかけておいた。
 翌朝出立する際、ホテルの受付係の若い男性が出てきて自転車のことを気にかけてくれる。立てかけておいた全面ガラス窓の横が扉になっていて、そこを開けてくれたので、玄関に回らずに直接外に出られた。今日の走行コースの話になり、「そのコースは私も以前にxxまで走りました」と自転車旅の会話が成立した。気になっていた、京奈和自転車道の起点の位置を彼から教えてもらうことができて、気持ちよく出発することができた。

4)薬師寺境内入場時の受付で

 拝観券の購入窓口で、中国人と間違えられた。日本語を喋ったので驚いたという。ロードバイク旅の途中であるから、サイクルジャージ(注2)を着ていたのだが、胸に「上海xx」と入っている。それを見ててっきり中国人だと思ったという。でも、正直に”告白”されるところがいい。笑える会話になる。

(注2)ロードバイク旅の師匠でもあり相棒でもある親友からもらったお気に入りの半袖ジャージ。彼は、上海に長く駐在して、現地の日本人ロードバイク愛好者のグループに入っていた。

5)大阪淀屋橋で

 今回の自転車旅の全走行を終えた淀屋橋で、自転車を輪行袋に収納する作業を、御霊神社前で行っていたところ、声をかけられた。年配のご婦人だった。シニア男性のひとり自転車旅に興味を持たれたようだった。どんな旅か尋ねられ会話が始まった。見知らぬ土地を巡り、見知らぬ人と一期一会の出会いをして、知らなかった土地を知り、知らなかった人と会話することを楽しむ。そんなことに共感していただけた。その方は肥後橋(だったか)あたりで長く仕事をしてきて、今もまだ現役だと言ってらした。何か商売をされているのかしらと感じたが、訊きそびれた。落ち着いた物腰で、しなやかに生きてこられて、仕事に追われた人生のようには感じられなかった。会話の切り上げるタイミングも挨拶も自然で気持ちが良かった。旅の最後をこんな一会(いちえ)で締めくくれて良かった。

5. 関連書物類

 今回は、旅の前にはほとんど”事前学習”ができなかった。今後目を通したい書物や写真映像資料を挙げておきたい。
(順不同)
・「天平の甍」井上靖(再読)
・「古寺巡礼」和辻哲郎
・「法隆寺の謎」 梅原猛
・「法隆寺と聖徳太子 千四百年の史実と信仰」東野治之
・「大和古寺風物詩」亀井勝一郎(再読)
・入江泰吉の奈良の写真集
・土門拳の奈良の写真集
・映画「大佛さまと子どもたち」清水宏(再鑑賞;難しいが・・・)
・映画「紀ノ川」中村登(再鑑賞)
など。

おわり


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