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古代より続く火山信仰の里🌋阿蘇市歴史さんぽ⑧ 完 【阿蘇神社】

こんにちは。今回は阿蘇市散策レポートの8回目にしてシリーズ最終回になります。今回は阿蘇市一の宮町宮地に鎮座する肥後一の宮・阿蘇神社の散策レポートです。今年のお正月から阿蘇市シリーズを書き始めてはや4ヶ月。何とか予定通り阿蘇神社の回までこぎつけることができて個人的に感無量です。今回は阿蘇神社境内の散策レポートに入る前に阿蘇神社の歴史についておさらいをしておきたいと思いますので、少々長くなりますがお付き合い頂けましたら幸いです。(8000字💦)


阿蘇神社の歴史

阿蘇神社は神武天皇の孫神で阿蘇を開拓した健磐龍命(たけいわたつのみこと)をはじめとする阿蘇の神々12神をお祀りしている神社です。創建は孝霊天皇9年と伝わり、肥後国一の宮として崇敬をあつめてきました。主祭神である健磐龍命は、古代から信仰されてきた火山神と阿蘇谷を開拓した豪族(国造)の祖神が融合した神様です。そして健磐龍命の直系の子孫とされる阿蘇氏が代々大宮司職を世襲し、現在の大宮司は第92代 阿蘇惟邑氏です。

阿蘇神社は、阿蘇火山と阿蘇氏の祖神を祀る国造神社を直線で結んだ中間の地に鎮座します。このことは、健磐龍命が「火山の神」と「祖先の神」の2つの神性を併せ持っていることを象徴しています。(『阿蘇神社』p.28の記述より)

阿蘇神社は阿蘇火山と国造神社とを結ぶ、いわゆる
「聖なるライン」上に造営された。『阿蘇神社』p.29

造営年代的には阿蘇火口を遥拝する阿蘇山上神社や国造神社の方が古く、阿蘇社(阿蘇神社)は3社の中で一番新しく建てられた社になります。阿蘇社が現在地に造営された時期は記録上明確ではありませんが、平安時代末には現在地に社殿が造営されていたと考えられています。中世においては阿蘇火口は「上宮」、宮地の阿蘇社は「下宮」と呼ばれていたそうです。
(※阿蘇山上神社と国造神社については、過去の阿蘇市歴史さんぽ記事で取り上げていますので、未読の方は是非御一読ください。)

さて、古代より現代まで連綿と続いてきた阿蘇大宮司家(阿蘇氏)ですが、豊臣政権期に滅亡の危機に陥ったことがあります。阿蘇氏は中世に武士化して肥後国を代表する氏族に成長しましたが、戦国時代の天正年間に転機が訪れます。九州は天正14年(1586)豊臣秀吉の島津征伐によって豊臣政権下に組み込まれることとなりましたが、阿蘇氏は当主である阿蘇惟光(当時6才)と弟の惟善自らが豊臣政権下の隈本城に人質に入るという事態になってしまいます。当初、秀吉から肥後を任されていたのは佐々成政でしたが、佐々成政はその後起こった肥後国衆一揆の責任を問われて切腹。その後、阿蘇郡を含む肥後北部は加藤清正に、肥後南部は小西行長に与えられました。そして阿蘇惟光は加藤清正預かりに、弟の惟善は小西行長預かりとなります。

秀吉は九州平定後に大陸侵攻を意図していましたが、秀吉子飼いの大名であった加藤清正と小西行長は文禄元年(1592)3月、朝鮮侵略の先鋒として朝鮮に出兵しました。そんななか、肥後では6月に薩摩の梅北国兼が肥後領内の佐敷城を占拠するという事件が起きます。(梅北の乱)当時12歳だった阿蘇惟光は秀吉から乱への関与を疑われ、隈本城近郊の花岡山にて自害させられてしまいました。全くの無実でしたが、そこには肥後で中世的領主として唯一存続していた阿蘇大宮司をなんとかして排除したかった秀吉の思惑があったと考えられています。加藤清正が朝鮮出兵で不在の間の出来事でした。これにより阿蘇家は断絶し、家臣や社家は離散。中世領主としての大宮司の時代は終焉を迎えました。

豊臣秀吉の死により朝鮮から撤退した加藤清正と小西行長でしたが、その後の関ヶ原合戦で西軍についた小西行長は敗死し、加藤清正が肥後一国の領主となりました。慶長6年(1601)加藤清正は阿蘇惟光の弟である阿蘇惟善に神主家としてのみ再興を認め、約1000石の領地を寄進しました。このことは「慶長の御取立」と評され、今でも加藤清正は関係者から顕彰されているそうです。

以上、断絶の危機を乗り越えて現在まで存続している大宮司家のお話でしたが、長い歴史の中で阿蘇社の社殿群もたびたび罹災と造営を繰り返してきました。現在の社殿群は天保6年(1835)から嘉永3年(1850)にかけて肥後細川藩の寄進によって再建されたもので、神殿や楼門などの6棟は国の重要文化財に指定されています。2016年4月に起きた熊本地震で阿蘇神社の社殿群は大きな被害を受けたのですが、中でも「日本三大楼門」とも言われる阿蘇神社のシンボルである楼門が全壊した姿には被災した熊本城同様に多くの県民が心を痛めました。

本震直後の境内の様子。楼門と拝殿が全壊、他の社殿群も部分損壊の被害を受けた。画像は現地解説板より。

その楼門も昨年12月に復旧が完了し、昨年大晦日の「ゆく年くる年」では阿蘇神社の楼門が一番に紹介されていました。そしてくしくも先日4/16が本震から8年目の日でしたので、全国ニュースでも阿蘇神社の楼門が度々紹介されていましたね。復旧した楼門の堂々たる姿も後ほど写真でじっくりご紹介したいと思います!

阿蘇神社の境内構成並びに散策順路

今回の散策順路を境内案内図中に赤字で示しています。↓(画像は現地案内板より拝借しました。)

まず最初に、阿蘇神社の特異な境内構成をご説明したいと思います。一般的な神社のイメージでは御神体である阿蘇火山を背にして社殿群が配置されそうなところですが、阿蘇神社は東方の都を鎮護するため東向きに社殿が建てられています。そして一般的な神社では参道は社殿に向かって直進しますが、阿蘇神社の場合は社殿群の並びと平行にのびる横参道です。この東面した社殿群と南北に延びる横参道は皇居の制にならったものだそうです💡ほんとかな?と思ってネットで皇居宮殿の配置を確認したところ確かに似ていて、「松の塔」に当たる場所に松が植えられていることまで同じでちょっとびっくりしました。(ただの偶然?)古代からの阿蘇社と朝廷との深い繋がりを感じさせます。因みに横参道を南北に延長すると南は阿蘇火山、北は外輪山に突き当たります。横参道はほぼぴったり南北に延びているので前述の「聖なるライン」とは少し軸がずれますが、私は横参道に阿蘇火山と国造神社を繋ぐ意味も込められているんじゃないかなぁと想像しました。

前置きが長くなりましたが、早速、横参道南側の鳥居から散策スタートです🏃‍♀️

阿蘇神社

地震後の令和2年に再建された南鳥居。
一礼して参道に入ります。
広々とした横参道を暫く進むと
まず右手に「神の泉」の水汲み場が見えてきます。

        神の泉の由来
 一の宮町は、昔より地下水の噴出する「清泉の町」として知られております。
 特にこの神域に湧き出ずる水は美味芳醇な神の泉として珍重され不老長寿の水として多くの人々に飲用されております。
                  阿蘇神社

現地解説書より

阿蘇神社が鎮座する一の宮町宮地には、阿蘇山の伏流水が集中して湧き出しています。そしてそのことがこの地に社殿が造営された理由とも考えられています。私も今回はありがたい神の水を頂戴しようと、家から持ってきた2ℓペットボトルにこちらから水をいただきました。阿蘇の湧水は本当にまろやかで、私はどこの銘水よりも一番好きです。地元の水が一番体に合うということなのかもしれません。皆様も阿蘇神社を訪れた際は是非ご賞味ください!因みに阿蘇神社周辺ではここ以外でも地下水が勿体ないほどジャンジャカ湧き出しているので、後ほど写真でご紹介しますね⛲️
それでは水汲み場を後にして先に進みましょう。早速左手に阿蘇神社のシンボルである巨大な楼門が見えてきました!↓

楼門を見学する前に、先ずは楼門の両脇に建つ脇門について解説したいと思います!(国指定重要文化財・江戸時代築)この2棟の脇門は、北側が「御幸門」、南側が「還御門」といい、中世阿蘇社の時代から存在していたそうです。普段は閉じられていて、7/28に執り行われる例大祭「御田(おんだ)祭り」の神幸行列が出発する時と戻る時のみ開かれるそうです💡因みに地震前は楼門と脇門は回廊で繋がっていて風情があったのですが、現在回廊は復旧半ばのようですね。ちょうどお祭りの話が出たので、ここで楼門横の案内板を引用して阿蘇神社のお祭りについてお話したいと思います。↓

 阿蘇の農耕祭事 国指定重要無形民俗文化財
  阿蘇神社をはじめ、国造神社や霜神社など阿蘇谷の関係神社には、全国的にも貴重な農耕祭事(農業のお祭り)が古式のまま伝えられています。
 耕作の開始に豊作を祈り、収穫を感謝するまでのお祭りが、農事に合わせて執り行われます。
「阿蘇の農耕祭事」は、わが国の農業生活の移り変わりや、人々の信仰をよく表している典型的なお祭りとして評価されています。

阿蘇神社では年間を通して様々なお祭りが執り行われていますが、なかでも全国的に有名な2つのお祭り(神事)について以下、説明したいと思います。まずは3月の「田作り祭り」の一環として執り行われる「火振り神事」↓

画像は案内板より

火振り神事は阿蘇神社の祭神である国龍神(年祢神)とその妃神の婚儀を祝う儀式です。田作り祭りの四日目の午後7時頃、妃神の御神体が火振りの火の輪が渦巻く横参道を通って国龍神の待つ阿蘇神社に到着。阿蘇神社祝詞殿にて国龍神と妃神の神婚の秘儀が執り行われた後、国龍神と妃神を載せた神輿は再び横参道の火振りの輪の中を通り、南鳥居から出て次の神事が行われる場所へと向かいます。なんと神秘的な神事でしょう✨そしてこのお祭りと同時期に阿蘇の春の到来を告げる野焼きが行われます。

次は先ほど脇門の解説でも触れた阿蘇神社最大のお祭り「御田(おんだ)祭り」。こちらは毎年7/28に執り行われ、祭神12神が4つの神輿に載って稲の生育具合を見て廻る神事です。おんだ祭りの華やかな神幸行列は総勢200名、総長500mにもおよびますが、行列のハイライトは白衣に白頭巾、白足袋姿で神饌(神々の供物)を運ぶ14名の「宇奈利(うなり)」たちです。↓

画像は案内板より

宇奈利は阿蘇12神と火の神•水の神あわせて14の神々の食事を運ぶ役割で、年配の女性が務めます。昔は社家の閉経した女性の役目だったそうです。写真の宇奈利さんたち、まるでランウェイを歩くスーパーモデルのように凛としてかっこいいですよね😆神社の神事は未婚の若い女性が務めることが多いように思いますが、年配の女性が務めるという点が凄くかっこいいと感じました✨7/28といえば暑い盛り。猛暑の中の神幸行列はかなり大変かと想像されますが、お身体に気を付けて伝統あるお祭りを継続していって頂きたいです。

最後にもう一つ、私がかっこいいなと思った神事に、9/25の「田実祭」で豊作を感謝して奉納される流鏑馬があります。(見たことは無いですが)流鏑馬は横参道を馬場として行われ、楼門前には烏帽子に直垂姿の若武者が集い、華やかな中世の雰囲気が演出されるとのこと💕昔は社家が、今は地元高校の馬術部OBが射手を努めるそうです。

それでは楼門前の手水舎で手と口を清めてから、復旧した楼門を通って境内に入りましょう!

手水舎の水も阿蘇の豊富な湧水です。

まずは復旧した楼門(国指定重要文化財•江戸時代築)の勇姿をご覧ください❣️↓

私も震災後久しぶりに見る楼門の姿にそうそう、こうだったよね!と改めて感動しました〜🥹
復旧された楼門はできる限り当初の部材が再利用されているのですが、今回の復旧工事では新たに現代の技術で耐震補強が施されています。写真の中央の柱の横に見えているのが新たに加えられた鋼管柱。また外からは見えませんが、下層屋根内部には揺れを吸収するための摩擦ダンパーが組み込まれているそうです。昔の技術と現在の技術の融合ですね。こうやって文化財は守られ後世に継承されて行くのでしょう✨

楼門をくぐる際は、巨大な扁額にご注目下さい。↓

写っている人と比べると大きさがわかる

扁額の寸法は縦282cm×横134cm。書は有栖川宮熾仁親王によるものです。親王は明治10年の西南戦争の折、政府軍の征討総督として阿蘇神社に参拝されたそうですが、そのことを記念して後に神社側から懇願して書を賜ったものだそうです。
(※西南戦争時に熾仁親王の御宿所となった「ジェーンズ邸」については過去の記事で取り上げていますので宜しければ是非ご一読ください。)

それでは楼門をくぐって拝殿へと進みましょう🏃‍♀️

楼門のすぐ先には再建された真新しい拝殿が見えます。
本日はありがとうございました。
いい記事が書けるように頑張ります🙏

さて、同じく江戸時代に建造された国指定重要文化財である神殿群は拝殿からしか望めず、近くで拝観することは出来ないのですが、後方から近くで観ることができますので後ほど裏手に回ってみたいと思います。最初に、神殿群について少し解説させて頂きますね。神殿は南側から一の神殿、三の神殿、二の神殿の順に並んでいまして、序列は火口に近い一の神殿が上位になり、主祭神•健磐龍命をはじめとする男神4神が祀られています。そして二の神殿には女神5神、中央の三の神殿には速瓶玉命(国造神社主祭神)と金凝神(綏靖天皇)そして全国3132座の諸神が祀られています。それでは南側から後方の順路に回り込んでみます。

楼門と拝殿の間を通って拝殿南端から裏手に回ります。
境内の南側遠景には阿蘇の火山が望めます。
南側一の神殿
神殿様式は詳しくないですが立派な佇まいです✨
ローズピンクの石垣と透塀のコントラストもとても綺麗。
手前から一の神殿、ちょっと凸になった中央に三の神殿、
一番北側が二の神殿。

南側からぐるっと回って北側境内に戻ってくると正面にあるのが、かつて健磐龍命が願いを込めて祖神の霊に額ずかれたという「願かけ石」です。↓

       願かけ石の由来
往時(弐千年前)当神社の祭神阿蘇大明神がもろもろの願いをこめて祖神の霊に額ずかれたという。これは当時の「霊場の岩石」の一部といわれ古来より神石として伝承保存されてきた。
南北朝の時代より祈願成就の神石として独自の信仰を得てきたが室町(六百年前)の頃より神霊を更に具現してその恩恵にあやからんものと人々この神石に手を触れて願い事を口々に唱えたという。すなわち「願かけの石」の起こった所以である。
※なお祈念にあたっては先ず心に願いごとを念じこの神石を撫でること三度更に願いごとを唱えるべしとある。

現地解説板より

私も書かれた手順に従って願いごとを念じてしっかり石を撫でておきました!室町時代からたくさんの人が触ってきたためでしょう、石の表面は滑らかでツルツルしていました。

最後にご紹介するのは願かけ石の近くに植えられている、縁結びに霊験があるとされる「高砂の松」です。↓

この松の木は結婚の宴でよく披露される謡曲「高砂」に由来します。まずは謡曲の歌詞を確認してみましょう。↓

ワキ ワキツレ 次第「今を始め乃旅衣。今を始め乃旅衣 日も行く末ぞ久しき

ワキ 名ノリ「そもそもこれハ九州、肥後乃國。阿蘇乃宮の神主友成とハ、我が事なり。我いまだ、都を見ず候程に。この度思ひ舘都に、上り候。又よき、序なれば、播州高砂乃浦をも一見せばやと、存じ候。」

Wikipediaより引用

そうです、「高砂」にはワキ役として、実在した26代目大宮司•阿蘇友成が登場しているのです💡
謡曲「高砂」は室町期に能楽を大成した世阿弥が創作したものですが、阿蘇大宮司の名は世阿弥が生きた時代に書かれた『太平記』にも登場し、都人にもよく知られた存在でした。そのため足利義満の庇護のもと当時をときめいた世阿弥(藤若)も阿蘇大宮司を謡曲の登場人物に起用したのでしょうね。因みに阿蘇神社の由緒によれば、この松の木は阿蘇友成が高砂から松の実を持ち帰って植えたものだそうです。それにしては幹が細い気がしますが、少なくとも昔の絵図から江戸時代にはこの松が境内に存在していたことが分かるそうです。

さてこれで阿蘇神社境内のレポートは終わりますが、最後に北鳥居の先に位置する「門前町商店街」を「水基」を中心に少しご紹介してから本記事を終わりたいと思います。

門前町商店街

横参道北鳥居の先には
観光スポットである門前町商店街があります。

通りには食事処やお菓子屋さん、お土産屋さんが建ち並び、いつもたくさんの観光客で賑わっています。通り沿いには「水基」と呼ばれる湧水の水汲み場が各店先にあり、水基巡りが商店街の呼び物の一つになっています。

宮地の湧水と水基についての解説板
ご興味があれば拡大してお読み下さい。

それでは門前町商店街の水基巡り、行ってみましょう🏃‍♀️(水基はたくさんありすぎるので、ご紹介は4つほどにとどめます。)

おしゃれなコーヒーショップの脇にある「欣命水」
たのシュー(シュークリーム)で有名な洋菓子店の水基は「菓恋水」
酒屋さんの前の水基「酒杜の水」
食事処の横の「妙音の泉」をバックに撮った
「蛍丸サイダー」

蛍丸サイダーは阿蘇神社の宝刀「蛍丸」をモチーフにして水基の水で作られたマスカット味のサイダーです。蛍色がとても綺麗で水基と一緒に撮ったら映えると思って撮ってみました(´∀`=)商店街中央のお土産屋さんで買えましたので、皆様も阿蘇神社に観光に来られた際は飲んでみて下さい❣️

最後にもう一箇所だけレポートさせて下さい🙇‍♀️商店街を歩いていると、左手に阿蘇神社の末社•矢村神社へと続く路地があります↓  矢村社周辺は静かで風情がありますので、いつも観光客でいっぱいの阿蘇神社と門前町商店街の散策に疲れた時の休憩スポットとしてもおすすめです。

商店街の通り沿い左手に矢村神社へ続く鳥居があります。
趣きのある路地を進むと
健磐龍命の館跡に建てられたと伝わる矢村神社があります
神社は石垣で囲まれた高台に建っていて、下には堀(水路)も巡らされており、確かに昔の館跡の風情があります

あとがき

今年の初めからスタートした阿蘇市散策シリーズですが、無事に阿蘇神社の最終回まで完走できてよかったです。阿蘇市シリーズは調べることも多くて今までの記事の中で最も歯応えがありましたが、私の記事が阿蘇観光を予定されている方や阿蘇に行ってみたいと思っている方の参考に少しでもなれば幸甚です。シリーズでご紹介したのは阿蘇谷の阿蘇市だけでしたが、カルデラ南側の南郷谷はまた違った雰囲気の素敵な観光スポットがありますので阿蘇観光の際は合わせてご検討下さい。あれ、南北朝時代の阿蘇大宮司や蛍丸の話はどうなったの?と思われた方もいらっしゃるかと思います。実は中世の阿蘇大宮司の本拠地は現阿蘇市内にはなく、阿蘇カルデラ外の現上益城郡山都町内にありました。よって南北朝阿蘇氏編は山都町に場所を変えてレポートしたいと思っています。その前にいくつか別の記事の投稿を予定しております。次回も宜しくお願いいたします❣️

熊本地震の本震があった日である4/16まで、阿蘇神社前広場では地震の犠牲者を悼み復興を願う「ちょうちん祭り」が開催されていました。

最後までお読み頂き、ありがとうございました😊

【参考文献•WEBサイト】
•柳田快明『中世の阿蘇社と阿蘇氏』ー謎多き大宮司一族 戎光祥出版 2019年
•阿蘇惟之編『阿蘇神社』学生社 2007年
•阿蘇町史 第1巻 通史編 2004年
•阿蘇神社ホームページ
•『重要文化財阿蘇神社一の神殿ほか5棟保存修理(災害復旧)』冊子 宗教法人阿蘇神社 令和5年11月

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