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熊本洋学校教師館 ジェーンズ邸🎄

こんにちは。先週末は阿蘇散策記事作成のための調べ物に熊本県立図書館に行ったのですが、その際に図書館近くの県指定重要文化財•洋学校教師館(ジェーンズ邸)を訪れましたので、今回はそのレポートになります。ジェーンズ邸は熊本県に現存する最古の洋風建築です。明治維新後の明治4年(1871年)に熊本洋学校の開学に合わせて外国人教師の宿舎として建てられました。現在ではここで暮らした外国人教師の名前からジェーンズ邸と呼ばれています。ちょうどクリスマスシーズンということもあり、ジェーンズ邸内部や外壁はクリスマスの装飾がしてあって素敵でしたよ✨館内写真撮影OKとのことで、写真もたくさん撮ってきたので、皆さまもジェーンズ邸の数奇な歴史とともに、明治のレトロな洋館の雰囲気を味わって頂けましたら幸いです。(今回7500字💦毎日少しずつ書き進めていたら、また膨大な字数になってしまいました🙇‍♀️)

今日の散策地•ジェーンズ邸はここ!
(熊本市中央区水前寺公園)画像はパンフレットより。

上記の地図で分かる通り、ジェーンズ邸は現在、熊本市を代表する観光地である水前寺成趣園(水前寺公園)の隣に移築されています。専用駐車場はないので、今回は水前寺成趣園の有料駐車場に車を停めて、川沿いを歩いてジェーンズ邸に向かいます。それでは早速、行ってみましょう🏃‍♀️

水前寺成趣園前の駐車場から加勢川沿いを歩いてジェーンズ邸のある電車通り前の水前寺江津湖公園まで歩きます。

フェンスの向こうが水前寺成趣園です。

加勢川は街中を流れる川ですが、水前寺公園や近くの江津湖からの湧水が流れ込んでいるので水がとても綺麗です✨川では遠くから渡ってきたであろうカモちゃん達が賑やかな鳴き声と羽音をたててていて、こっちまで楽しい気分になります💓

私は自由で、楽しげで、かわいい冬の渡鳥が大好きです。
白鷺ちゃんもいます。
川沿いの風景を楽しみながら歩いていると程なく、ジェーンズ邸の裏手にでます。

ジェーンズ邸(県指定重要文化財)

ジェーンズ邸は当初、現在の熊本城近くの古城(ふるしろ)地区に建てられました。熊本県が明治初期に設立した熊本洋学校に隣接して建てられた外国人教師用寄宿舎でした。時代を経るごとに市内に移築を繰り返し、さまざまな用途に使われました。2016年の熊本地震前は水前寺の別の場所に建っていたのですが、熊本地震で倒壊。昨年現在の電車通り沿いに移築•復旧が完了し、今年9月に再開館を迎えたばかりです。

ジェーンズ邸は熊本で最初に建てられた本格的な洋風建築で、熊本には監督できる人材がいなかったことから、長崎からも職人を呼んで建設されたそうです。江戸時代までの建物には見られない洋館の特徴が見られる一方で、屋根は瓦ぶき、小屋組は伝統的な和組、本来石で組む隅石は左官技術による漆喰仕上げになっているなど、日本の伝統的な建築技法が用いられた「擬洋風建築」と呼ばれるものだそうです💡因みに、ジェーンズの要望により建物側面に煙突が追加されたそうなのですが、当時熊本には煙突に使うレンガが無かったので、熊本産の凝灰岩をレンガ状に加工し積み上げ、漆喰で美しく仕上げたそうです。その出来にはジェーンズさんもご満悦だったそう。職人さん達のジェーンズさんの要望になんとか答えたいという気持ちと、職人としてのプライドが合わさった心意気を感じるエピソードだと感じました✨

建設当初のジェーンズ邸。側面に追加された煙突見えます
画像は熊本市のパンフレットより

それではいよいよ、ジェーンズ邸内部にお邪魔したいと思います❣️この日はあいにくの曇り空で小雨がぱらつく寒い日だったのですが、かえって洋館内の薄暗いオレンジ色の電球とクリスマスの装いが温かく感じられました。いつもは天気が悪いといい写真が取れないので嫌なのですが、今回は逆に良かったなと感じました。それでは早速、中に入りましょう♪

久しぶりのレトロな洋館に胸が高鳴ります💓

先ずは玄関を入って左手の部屋へ。管理の方がいらっしゃって、パンフレット類も頂けます。(3/31までは入館無料)部屋に入ってすぐ目に入るのは、ジェーンズ先生のイラストパネルです↓

ここでちょっとジェーンズ先生について解説したいと思います。↓

リロイ•ライジング•ジェーンズ(1837-1909)
アメリカ合衆国オハイオ州生まれ。19歳の時にウエスト•ポイント陸軍士官学校に入学。同校を卒業後、南北戦争に北軍(奴隷解放側)の士官として従軍し大尉に昇進しましたが、戦後は退役しメリーランド州に農地を買って農業に従事していました。転機となったのは35歳の時。熊本洋学校教師職の誘いを受けたジェーンズは熟慮の上承諾し、明治4年(1871)家族と共に熊本に赴任しました。同年9月から授業を開始し、明治9年(1876)の熊本洋学校閉校まで熊本の若者達の教育にあたりました。熊本を去った後は大阪英語学校に赴任し、明治11年(1878)7月に帰国。明治42年(1909)3月に心臓発作で生涯を閉じました。享年72歳。熊本での日々はジェーンズにとって生涯でもっとも輝いていた時期だったと言われているそうです。

陸軍士官学校時代のジェーンズさん(解説パネルより)

さて、この部屋にはクリスマスツリーが飾ってあって、暖炉の上にも可愛らしいクリスマスの装飾がされていて、温かい雰囲気が演出されています。↓

展示パネルによると、ジェーンズさんは在任中この邸宅で本格的なクリスマスパーティーを開いたそうで、日本人が招待されたクリスマスパーティとしては最も古いものと考えられているそうです。招待された日本人は、ジェーンズ一家と懇意にしていた横井家のつせ子さんとみや子さん。
(※熊本出身の幕末の思想家•横井小楠の妻子)みや子さんの随想によると、パーティ会場の部屋は沢山のロウソクで明るく照らされ、部屋の中央には大きなクリスマスツリーが立っていて、色々な種類の西洋のプレゼントやお菓子がぶら下げてあったそうで、一生の思い出となったそうです🍬

ジェーンズさんはクリスマスが近づくと会場となる部屋には誰にも近づけないようにして、ハリエット夫人とともにこそこそと準備をはじめ、クリスマス当日はサンタクロースの仮装をして登場🎅時間をかけて準備したクリスマスパーティ会場にゲストを招き入れたとのこと。子供たちやゲストの喜ぶ顔を見てほくそ笑むジェーンズさんの顔が思いうがぶようです。私は展示パネルの解説や写真の風貌から、ジェーンズさんはかなり厳しい先生だったように感じましたが、こんなお茶目なエピソードもあったんだなと親近感を覚えました☺️

それでは奥の部屋を通って廊下に出ます。次の順路は2階のようなので、趣きのある階段を上がりましょう。↓

ギシギシと木が軋む音がたまりません💕
階段上がってベランダ側を見た図。色ガラスが素敵✨
色ガラスのドアを開けて電車通りを望む。
ベランダは立入禁止だったのでドアの手前から撮りました

2階のお部屋も興味深い展示がされていたので、レポートしますね。廊下を挟んで左側の部屋は、熊本洋学校の歴史と生徒たちについてのパネル展示がされていましたので、要約してご紹介します。↓

熊本洋学校設立の経緯
熊本洋学校は熊本の幕末の思想家•横井小楠と深い関わりがあります。横井小楠は明治2年(1869)に京都で反対派に暗殺されてしまったのですが、明治3年(1870)に細川護久が藩知事に就任すると横井小楠の弟子を中心とする実学党が実権を握り、教育改革が行われます。薩長土肥に遅れをとって焦っていた肥後熊本は、藩校時習館を閉鎖し、西洋の学問や技術を学ぶ洋学校設立の準備を行い、ジェーンズさんの招聘が実現しました。
前述の通り熊本洋学校は当初、古城(現在第一高校があるところ)に建てられたのですが、隣接して西洋医学の人材育成のための医学校も設立されたそうです。先生はオランダ人医師マンスフェルトさんで、今度の新千円札に採用される北里柴三郎もこの医学校の卒業生だそうですよ💡
※因みに北里柴三郎さんは阿蘇郡小国町の出身です

洋学校の授業と生徒たち
ジェーンズさんは全ての授業を英語で行い、厳しいながらも多くの生徒に慕われたそうです。洋学校が開校された5年間でジェーンズさんの教えを一時期でも受けた生徒は200名を超えますが、正式に卒業した生徒はたったの22名。高い倍率の応募から選抜された生徒たちでしたが、厳しい授業の中で成績が振るわないものは容赦なく退学💦また洋学校は全寮制で厳しい規則が設けられ、規則を乱す生徒も最終的に退学💧一方で優秀な生徒は下級生の指導にあたってジェーンズさんを補佐するシステムが構築され、生徒同士の絆も醸成されていったそうです。洋学校は四年制で、カリキュラムは以下の通り。↓

1年目  英語(綴字•文法•読本)
2年目  地理•歴史•数学
3年目  代数•幾何•三角法•測量•歴史
4年目  哲学(物理)•天文学•地質学•化学•
                生物学
※2年目からは土曜日に特別科目として作文•対話•朗読•演説(もちろん英語)

書いていてなんだかクラクラしてきました😵
落第するのも分かる気がします。。

3期生の坂上竹松さんのノート(複製)

また4年目からは、ジェーンズさんは洋学を学びたいという2人の女生徒に授業の参加を認めており、高等教育における最も早い男女共学の導入とも言われているそうです💡2人の女生徒とは、洋学校の生徒だった横井時雄(横井小楠の長男)の妹のみや子さんと徳富蘇峰の姉の初子さんです。いつかは男女共学にという考えがあり、県からも許可が出たため2人の入学を許可したジェーンズさんでしたが、当時の日本は男尊女卑の風潮が強く、男子生徒達は反発。教室では彼女たちは孤立して教室の隅に座り、男子生徒たちはできるだけ彼女たちから離れた席に着こうとして、中には教室からはみ出して通路の床に座っている者もいたそうです。そんな中、数人の男子生徒がジェーンズ邸を訪れて不満を訴えます。その時のジェーンズさんの神対応を、以下『ジェーンズ物語』から引用したいと思います。

女子への教育が必要なら、共学でなく、女学校を作ればいいと主張する男子生徒に対してのジェーンズさんの返し↓

女子を入れたり、共学の制度をとるのは、無理にそうしているのではないのだ。それは自然であり必然なのです。女子教育の学校といっても、肥後の男たちが今もっているような偏見を持ち続ける限り、そのような学校は日の目を見ないだろう。アメリカでも奴隷に読み書きを教えることは罪悪と考えられていたのと同じだ。日本でも精神と道徳の奴隷制をやめなければならないのです。もし私が肥後で命を落とすことがあるならそれはこの学校の生徒の半分が女子になってからにしてもらいたいものだ。

女子には勉強を教えたくないという男子生徒に対してのジェーンズさんの返し↓

「もし、女子に教えることがいやなら頼まないが、女をさげすむ男が、母を持ったり、妹を持ったり、まして妻を持ったりすることは不自然でないか。そういう男は、女の手で用意されたご馳走を口にせず、女が縫った衣服など着ず、その笑顔で温かくし、その心からの純粋な愛情で清浄にする住まいに起居を共にしたりしない方が、より似つかわしいのだ」「君が子どもの時にお風呂に入れてもらって体をきれいにしてくれたのは誰だ。君のお母さんではないのか。君のお母さんは男か女かどっちだ? マン、オーア、ウーマン?」

ジェーンズさん、正にジェントルマン✨
(一応)女子の一人として、令和の時代になってもこの言葉は涙が出るほど嬉しいですね😭因みに、この時一番反発していたのが後に同志社大学の総長となった海老名弾正さんらしいのですが、この方、女生徒のうちの一人の横井みや子さんと結婚するんですよね。なんだよ、結局好きだったんじゃん!と突っ込みたくなりますが、ここで私はふと思いました。男子たちが最初女子から離れた席に着いてみたり、通路の床に座って反発してみたのって、女子の気を引きたかったのもあるんじゃないのか?あと、女子にはいいとこ見せたくて、勉強で負けたくなかったんじゃないのか?なんて笑 まぁ、明治初期の10代男子の気持ちの本当のところは、令和の中年女子には分かりませんがね笑

花岡山結盟と洋学校の最後
ジェーンズさんは生徒の求めに応じてこのジェーンズ邸で聖書勉強会を開催していて、生徒の中にもキリスト教熱が高まったそうです。そして明治9年(1876)に事件が起こります。キリスト教に傾倒した洋学校の生徒35人が花岡山に登り、キリスト教を信仰し守っていくことを誓う「奉教趣意書」に署名したのです。当時の熊本ではキリスト教信仰は到底受け入れられるものではなく、キリスト教の教育は県との契約違反だったため(だから授業ではなく家で勉強会を開催していた)ジェーンズさんはその年の任期満了をもって契約解除となり、洋学校も閉校されることになりました。ジェーンズさんは花岡山で結盟した生徒たちの行く末を案じて、新島襄が京都で開校した同志社英学校へ入学できるよう尽力したそうで、同志社英学校に進んだ生徒たちは「熊本バンド」と呼ばれたそうです。

職を解かれたジェーンズさんはというと、大阪英語学校の教師になることが決まり、同年10月初旬に熊本を離れたのですが、その後すぐに神風連の乱が起こります。(※明治9年10月24日に熊本市で起こった明治政府に反対する士族の反乱)ジェーンズさんも標的の一人だったと言われており、難を逃れることができたそうです。正に塞翁が馬、人生の幸不幸は分からないものですね。

さて、2階の廊下を挟んで反対側は、ジェーンズさんが去った後のジェーンズ邸の歴史について、これまた興味深い解説パネルがありましたのでご紹介します💡ジェーンズさんが去った翌年の明治10年(1877)には西南戦争が始まり、熊本鎮台が籠城する熊本城は薩摩軍の攻撃を受け、天守閣も城下町も焼けてしまうのですが、古城地区のジェーンズ邸は戦火を逃れ、征討総督有栖川宮熾仁親王の御宿所に充てられました。ここでまた感動のドラマが生まれます💡日本赤十字社の前身となる「博愛社」が西南戦争のさなかにこのジェーンズ邸で誕生することになるのです。

有栖川宮さまがジェーンズ邸に入った4月、東京では、万博で国際赤十字の理念に共感を持った元老院議官・佐野常民らが西南戦争の惨状に心を痛め、敵味方の別なく負傷者を救済するための救護組織「博愛社」の設立を目指していました。そこで右大臣・岩倉具視に請願書を提出するも不許可となります。しかし佐野さんはあきらめず、征討総督に直接請願書を提出するため熊本に向かいます。熊本に到着した佐野さんは5月1日、山縣有朋と小澤武雄に救護組織の設立を訴えます。それを知った征討総督有栖川宮熾仁親王は即日、博愛社の設立を許可したそうです。部屋には佐野さんが熊本県の罫紙を借りて作成した博愛社設立請願書の写しが展示されていて、「有栖川熾仁殿」の宛名の後に、征討総督の印章とともに「願之趣聞届隻事(ねがいのおもむきききとどけそうろうこと)」との許可文が赤字で書かれていて、当時の緊迫感が伝わってくるようでした。有栖川宮さまの御英断もさることながら、現場ではこの戦争は敵も味方もないのだという共通認識があったんだろうなと、ジーンとくるエピソードでした。

ジェーンズ邸での博愛社設立許可の場面を描いた絵。
中央が有栖川宮熾仁親王と佐野常民。
右側に立っている2人が山縣有朋と小澤武雄。
絵に描かれているのは、正に2階のこの部屋ですよね!

それでは一階に戻りまして、クリスマスツリーのあった部屋の、廊下を挟んで反対側の部屋を見学しましょう👟こちらは、2016年の熊本地震でのジェーンズ邸の被害状況を解説した部屋でした↓

部屋には再利用出来なかった建材が展示されていました

ジェーンズ邸は熊本地震以前は、ここから500m程離れた場所に移築されていたのですが、熊本地震で全壊してしまいます。私も全壊する前のジェーンズ邸を一度訪れたことがあるので、地震の後、木端微塵に崩れたジェーンズ邸の写真や映像を見て悲しかったことを思い出します。

画像はパンフレットより引用

この状態からの再建はさすがに無理なんじゃないかと思ってしまいますが、なんと7割以上の部材が再利用されているそうです😳展示パネルによると、熊本市が地震対応で手が回らない中、有志団体の寄贈により部材の損傷が進むのを防ぐ為の大型テントがかけられだそうです。そして有志の方々の協力のもと、少量ずつ部材を取り出して再利用可能か調査しながら選別し、資料も救出してクリーニング作業が行われたとのこと。その結果、多くの資料や部材を救出できたそう。華やかな再開館の裏には、有志の方々の熱意と地道で大変な作業があったことを知りました。と同時に、人口減少•高齢化•人手不足が叫ばれる中、有志の方々の熱意に頼る現在のような形でいつまで貴重な文化財を守っていけるのだろうかと考えさせられました。

最後の部屋には大きなクリスマスツリーが設置されていて、皆さん記念写真を撮られていました。

あとがき

前述のとおり、私は倒壊前のジェーンズ邸を訪れたことがあったのですが、随分昔だったので展示内容はあまり覚えてませんでした💦なので今回改めて再建されたジェーンズ邸を訪れ、展示パネルをじっくり読んで、激動の明治期の熊本に思いを馳せた1日となりました。ジェーンズ邸は明治初期に建てられてから、西南戦争の戦火を逃れ、第二次世界大戦での熊本大空襲でも焼けず、昭和28年の白川大洪水でも被災を逃れて存続した、近代熊本の生き証人のような建物です。それが数年前の熊本地震でとうとう全壊してしまったわけですが、有志の方々の熱意によって不死鳥の様に蘇った姿を見て感動すると同時に、今後もずっと文化財として存在し続けて熊本の発展を見守って欲しいと思いました。
因みに私はいつもは日曜の夕方noteに投稿することが多いのですが、今週末がクリスマスイブということで、記事を見てジェーンズ邸に行ってみようと思われる方がいらっしゃるかもしれないと思って今回は早めに投稿しました。ジェーンズ邸横では今の時期ドリンクのベンダーさんも出店されていて、私もジェーンズ邸のライトアップが映える夜になるまで待つ間にホット葡萄ジュースを頂きましたが、ワインのように濃厚で美味しくて温まりました🍷クリスマスのライトアップは25日20時までとのことですので、お近くの方はいかがでしょうか?それでは皆さまもよいクリスマスをお過ごしください🎄

クリスマスライトアップされたジェーンズ邸

最後までお読み頂き、ありがとうございました😊

References:
・熊本市パンフレット 『熊本洋学校教師ジェーンズ邸』
・ジェーンズ邸 展示パネル
・ジェーンズ邸前館長 黒田孔太郎『ジェーンズ物語』

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